好きな作品を「語り用」にリメイクしたい。

タイトルの通り、好きな文学/文芸作品を「語り」(講談も含む)にリメイクしてみたい、という話。

今まで読んで気に入った作品の世界観はそのままに、語り用台本にリメイクする作業は、さぞかし楽しいだろうな…などと夢想します。

あとは自分自身の語りの技術、そして需要があれば。笑

とはいえ、自分が語りたいというよりはむしろ、どなたかが語るのを聴いてみたい。という気持ちのほうが大きいかもしれません。

具体的には…

①「押絵と旅する男」(江戸川乱歩)
②「桜の森の満開の下」(坂口安吾)
③「三階の家」「不思議な魚」(室生犀星)

とりいそぎこのあたり。
趣味がバレますね。

①乱歩作品の探偵講談はうかがったことがあり、語りと親和性が高いなあと思ったので、他の異端作もいけるのではないかなと。「人でなしの恋」とか「赤い部屋」とかも個人的には推すのだけれど、ちょっと好みが分かれそうですし、動的な展開が少ないので、語りには不向きかな。ということで、無難に「押絵」。メルヘンと不気味さのバランスが調度よいですし、押し絵の由来にまつわる非現実的な展開などは、語りだからこそ鮮明に描ける気がします。遠眼鏡を逆さに覗いたら自分も押し絵になってしまう、なんて。あるいは、「私」と「男」との会話を際立たせれば、会話メインの語りとしても再構築できそう。

②安吾の「桜の森~」は、映画化もしていますし、野田秀樹が「贋作」として戯曲化もしていますが、語りでなさった方はおられるのだろうか。言葉の力だけであの世界観を描けたら、圧巻だろうなあ…!と夢想します。満開の桜の花びらに埋もれて男自らも消えてしまうラストシーンの、狂おしく怖ろしく冷たく美しい情景を、語りでどう描けるだろう。想像するだけでわくわく。あー誰かやって下さい(笑)

③室生犀星の小説は、現実と幻想の狭間を行き来するので、どれも結構、「語り」という枠組にはまりやすい気がするのです。映像化すると陳腐になる可能性が否めないものでも、語りなら自在にその世界観を再現できそう。特に「三階の家」は、視覚的・聴覚的な恐怖とヒトコワがMIXされているので、やりようによったらかなりインパクトのある語りに出来る可能性大と踏んでいます。三階建ての建物・その三階の部屋で戦死将校の肖像画を描いて生計を立てる男・その男を訪ねてくるやつれた女性・その夜に起こる奇妙な出来事…。ほら。一方「不思議な魚」は、童話・メルヘン・お伽噺要素が凝縮されているので、「三階の家」とは異なる意味で、語りに向いた話かと。典型的な報恩譚でハッピーエンドですしね。

「朗読」ではなく「語り」


さて、ここまで筆の赴くままに書いてきましたが、なぜ作品そのままの「朗読」ではなく、あえて「語り」への再構築・リメイクを望むかということについて、少し説明が必要かもしれません。

「朗読」は、当然ですが、作家の書いた文章をそのまま読むものです。しかし、作家の文章は元来「目で読む」ために書かれたものなので、必ずしも「耳で聴いて理解しやすい」「耳で聴いて心地よい」文章になっているわけではありません。もちろん、朗読というのは、そういったことも含みこんだ上で、いかに作家の文章と作品の世界観を声で表現できるかという芸術ジャンルなわけですが、いちから「語り向け」の作品として再構築することで、原作に、また別の魅力を付加することが出来るように思うのです。

講談教室で創作講談を作るようになってから、「読む用の文章」と「語り用の文章」は大きく異なることを、身を持って実感するようになりました。普通に書くと、ついつい「目で読む用の文章」を書いてしまうのですが、それでは「語り用」としては不十分・不適切なのですよね。

あくまで個人的な感覚ですが、「語り用の文章」には、

①連体修飾句(「▲▲で□□な○○している××」というような文)は不向き
②手の込んだ比喩や形容は不向き(イメージ喚起を逆に阻害する)
③漢語の熟語は不向き(音だけでは瞬時に理解が及びにくい)

などの特性があると思っています。もう少し具体的に説明します。

①たとえば普通の文章だと「大きな目と透き通るような肌を持った女性」と書いてしまいがちなのですが、語り用だと、「その女性は、大きな目に透き通るような肌をしていた」とするほうが、聴いた時に分かりやすい。主語・主体が最初に来ないと、耳で理解しづらい文章になってしまいます(「語り用に書いた文章を音読し、聴いてみる」という過程を繰り返して、おぼろげながら、丁度良い表現の落とし所が分かってきました)。

②小説や詩歌なら、「いかに使い古された表現を避けるか」が問われがちです。たとえば「真っ赤な太陽」や「青い海」などは、特に詩歌では「付きすぎ」と言われ、NGとされます。けれど、裏を返せば、そういう表現は“分かりやすい”のですよね。分かりやすいほうが、瞬時に情景をイメージできる。手の込んだ比喩は、目で読めば味わい深いけれど、「音の流れ」として文章を理解・咀嚼するには、どちらかというと不向きだと思います。

③これは単純で、語りでは、たとえば「嘲笑〈チョウショウ〉」よりも「あざわらう」のほうが伝わりやすい、というようなことです。(私はついつい漢語を多用してしまうので、気をつけています)


語りに適した言葉で、語りにしか出来ない表現で、好きな作品の世界を再現出来たら、どんなに楽しいだろう。

夢想が止まない春の夜であります。

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