女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 4話 朽木 後編

 雨音の中でも、扉越しにも、それは聞こえていた。菊花ジファ様のすすり泣く声。とても、その扉を叩けるような状態ではなかった。どんな顔をして会えばいいというのだ。菊花様は、傷ついているに違いないのに。菊花様の部屋の前で、扉を背にして座り込んだまま、動けずにいた。
 どうしよう。どうしたらいいんだ。頭の中で言葉がぐるぐると渦巻く。謝るしかない。いや、謝ったって許されないかもしれない。取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。
 鈴香リンシャンは気づいていたんだ。去り際に、別の髪留めに付け替えるよう促そうとしていたじゃないか。それなのに私は。
 気づけば涙がとめどななく流れていた。私は一体何をやっているんだ。悔しさと情けなさで胸がいっぱいになる。いっそこのまま消えてしまいたいと思った。必死に声を殺して泣きながら、靄の中をさまよい続けるかのような思いのまま、時間が経っていく。どれほどの時間かはわからない。とにかく長く感じられた。雨音が、菊花様の嗚咽が、頭の中で反響していた。

「ちょっと」
 若い女の声が、頭の上から聞こえた。
「なんてザマよ。どきなさい。菊花は中なんでしょ」
 顔を上げると、蓮玉レンイがしかめっ面を私に向けていた。なぜ蓮玉がここに?
「その様子だと、まだ菊花に顔を見せていないのね。ほら、開けるわよ」
 そう言うと、彼女は私が寄りかかる菊花様の部屋の扉を無理矢理引いた。彼女の背後にいる護衛がそれを手伝ったので、私の体は扉に押されるように動いた。
「菊花」
 蓮玉が部屋に向けて声を放つ。
 そこに菊花様はいた。部屋の中央で、絨毯の上に座り込んでいる。両手で顔を覆いながら、俯いていた。
「あ……姉上……豊蕾フェンレイ……」
 菊花様が振り返る。私と、目が合った。
 その目は赤く腫れていて、涙で濡れていた。眉尻が下がるその顔は、悲しみに満ちていた。その姿に胸を締め付けられる。
「菊花様……菊花……様……」
 かける言葉が見つからない。心の準備ができないまま顔を合わせてしまったから。だが、今も涙を流す菊花様の潤んだ眼が私を捉えているのを見ると、謝って済むわけがないのはわかっていながら、謝るしかなかった。立とうとするとふらふらとしてしまった。前のめりで部屋に入り、床に両手を着く。
「申し訳ございません……申し訳ございません……!」
 私は額を床に押し付け、必死に叫んだ。
「私のせいです……全て私のせいです……お許しください……!」
 涙が溢れて止まらなかった。
「豊蕾は……悪くないです……わたしが、なにも言わなかったから……」
 私が顔を上げると、菊花様は再び俯いて顔を押さえてしまった。肩が小さく震えているのが見えた。私はもう何も言えなくなってしまった。再度頭を下げるしかなかった。ただひたすらに涙を流し続けた。

「ああ、もう」
 そんな私たちを見て、蓮玉は呆れ果てていた。
「全く。……さ、あれ、出しなさい」
 蓮玉は、その後ろに付いてきている護衛に指示を出したようだ。
 大柄の彼は、手に持つ巾着袋の中から、手のひら程の大きさの袋と、手のひらに収まるくらいの小瓶を取り出し、蓮玉に渡した。大きい方の袋は彼女の小さい手と比べると大きく重そうに見えるが、片手に乗せて見せていた。そして私に向かって言い放つ。
「ほら、ニカワ!」
 蓮玉は袋を手の上で弾ませるように振る。ざっざっという乾いた音がした。袋の中で粒状のものが擦れているようだ。
「……ニカワ?」
「知らない? くっつけられるの。物を」
「くっつけ……」
「だから、これで髪留めを直せばいいじゃない、ということよ!」
 私の言葉を遮り、苛立った様子で彼女が言った。理解するのに少し時間がかかった。
「直せるのか……? そんなことが……」
「完璧には無理よ。でもくっつきはするから。使い方は、厨房の使用人にでも聞いたらいいわ」
「……はい、ありがとう……ございます……」
 まさかそんなことができるとは思いもしなかった私は、呆気に取られながらも礼を言った。
「あと、こっちは木材を保護する木の脂だから。晴れの日に木を乾かしてから塗ることね」
 それは小瓶に入っているらしい。袋と一緒に私の体に押し付けて来る。私は体を起こし、落とさないようにと両手で受け取った。

「わたしは菊花に話があるから。だから出てって」
「え……?」
「ああ、あんたは……ほら、あれを持ってきて……わかるでしょ。全く……」
 蓮玉は護衛の男に耳打ちをして部屋の外に走らせたあと、菊花様の方を向いた。菊花様は、その赤い目で不思議そうに蓮玉の顔を見ていた。
 菊花様を蓮玉と二人きりにするのは不安だった。彼女はこれまで菊花様に対し、冷たく接してきたのだから。
「しかし……」
「虐めたりしないから。聞かれたくないだけよ。だから、菊花と二人にして」
 私は躊躇うも、彼女に強く言われてしまったので従うことにした。
 袋と小瓶を懐にしまって立ち上がる。髪留めは菊花様の近く、絨毯の上に置かれていた。
「……豊蕾……」
「……直してきます」
 二つに割れた髪留めの断面は荒れていた。蓮玉の言う通り、木を彫っただけの状態で十年置かれた木製の髪留めはかなり弱っていたようだ。もっとよく見ておけばよかったと後悔する。これは私の手で直さねばなるまい。割れた髪留めを拾って、両手に収めた。
 菊花様の不安そうな顔を見るに、蓮玉から何を言われるのかと心配なのだろうと思う。大丈夫だろうか。何かされやしないか? できるだけ早く戻らなければ。そう思いながら部屋を飛び出したのだった。


 厨房を出て、菊花様の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。両手で盆を水平にして持つ。その上に、髪留めを置いて。
 割れを繋いだ箇所は、目立つ筋が入ってしまっている。割れの断面が粗かったせいだ。それでも、元の形には戻せたはずだと、私は思っている。ニカワを湯煎して温め、塗って冷やして固め、失敗すれば温めて剥がし……を繰り返していたため、既に正午を回っていた。菊花様は大丈夫だろうか。蓮玉にひどいことを言われていなければいいのだが……そう思うと心が痛んだ。
 角を曲がったところで大と小の人が見えた。
「終わったの?」
 姿を認めてすぐ、小の方……蓮玉が落ち着いた声で話しかけてきた。その声に安堵し、私は小さく頷いた。蓮玉は腰に手を当てながら、私が持つ盆の上を覗こうと首を伸ばすような仕草をした。蓮玉の護衛も上からそこにある髪留めを覗き込んでいる。
「ふぅん。いいんじゃない。菊花に持っていったら?」
「……そうですね」
「食べ物、菊花の部屋に持ってこさせたから。あんたも食べるといいわ」
 そういえば朝から何も食べていなかった。菊花様もだ。先に食べてくれていればいいが、あの方のことだから待っているかもしれない。
「ありがとうございます」
 礼を言うと蓮玉は小さく頷き、それから私の顔をじっと見つめてきた。なんだか居心地が悪い気がしたが、目をそらしてはいけないような気がしてそのまま見つめ返すと、彼女は口を開いた。
「あんたのしたことは、浅はかだったわ」
「……はい」
 その通りだ。何度同じことを言われても言い返せはしない。
「……わたしも、わるかったけれど……」
「はい?」
 小さな声で呟く蓮玉。意外な言葉に、思わず聞き返してしまった。すると彼女は顔を真っ赤にして声を張り上げるように言った。
「いっ、一度しか言わないから! それから、菊花に何かあったら、わたしに言いなさい! できる限りのことはするから!」
 一瞬、ぽかんとしてしまった。菊花様に対して邪険にしていた彼女の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。私は頭を下げた。
「かしこまりました。感謝いたします……」
「何でも聞くってわけじゃないんだから! 勘違いしないでよね!」
 大きな声に顔を上げると、蓮玉の人差し指が私を指していた。何を怒られているのかわからず目を白黒させているうちに、彼女はつんとした顔を作って私の横を通り過ぎて行った。それを見て護衛の男も慌てて後を追ったのだった。
「いったい、なんだったんだ……」
 ひとり呟き、首を傾げつつ、私は歩みを再開した。


「菊花様」
「はい、どうぞ」
 菊花様の部屋の前で声をかけると、中から返事があった。その落ち着いた声に、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。扉を開けると、菊花様は机のそばの椅子に座っていた。微笑みを、私に向けてくれていた。よかった、気落ちしてはいないようだ……そう思いつつ、盆を持ったまま部屋に入り、扉を閉める。机の上に肉団子や芋の煮物が入った皿や椀が並べられている。蓮玉の言う通り、食事がここに運び込まれていたのだ。それに手を付けられた様子はなかった。やはり菊花様は私を待っていてくれていたのか。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです。それより……」
 菊花様は椅子から降りて駆け寄ってきてくれた。髪留めをまじまじと見つめては、ぱぁっと明るい表情になる。
「わぁ、すごいです! 直してくれたのですね!」
「繋ぎ目が目立ってしまいますが……それに、力がかかると剥がれて……」
 残念なことに接着強度はあまり強くないようなのだ。私は申し訳なく思いながらも正直に伝えた。だが、菊花様は気にした様子もなく、それを手に取る。そして楽しげに笑いながら、後ろ頭に押し当てて見せた。朝、髪に着けていた位置である。菊花様は、それを手で押さえたまま、横にくるりと回った。髪が靡く。再度正面を向いて止まると、彼女は私に笑いかけてくれた。その笑顔に、どきりとしてしまう。
「どうですか?」
「あ、えっと……お似合いですよ」
 嘘ではない。私が似合うようにと髪を整えたのだから。でも、たぶんそうじゃない。また、見ることができた。菊花様の自然な笑顔を。それが嬉しくてたまらなかったのだ。

「あの、その髪留めは、やはり仕舞っておきましょう。繋ぎ目が剥がれてしまいますし、何より、大切なものですから」
「いいえ」
 え? 菊花様の口から出た"いいえ"。初めてかもしれない。菊花様が人の意見を否定したことなどあっただろうか。驚いてしまい、言葉が出なかった。その間に菊花様は続ける。
「豊蕾。この髪留めは、これからも髪につけてください。壊れたら、また直してくださいますか?」
「し、しかし、またすぐに壊れてしまうかと……」
「では、壊れなくなるよう、工夫をしましょう」
 なんだかいつもの菊花様ではないみたいだと思った。どうしてしまったのだろうか? 私の戸惑いをよそに、彼女は私の手を取りながら言うのである。その強い眼差しに圧倒されるばかりだ。
「わたしは嬉しいのです。お母様からの贈り物を身に着けられることよりも、豊蕾がわたしのために何かをしようと考えてくださったことが何よりも嬉しいです。ですから、豊蕾がしてくれたとおりに、わたしはこれを身に付けたいです」
 その言葉は不思議と菊花様の本心のように聞こえた。私も嬉しかった。嘘ではない彼女の本当の気持ちに触れられた気がして。
「……わかりました。必ず、丈夫になるように致します」
「わたしも考えましょう。一緒にごはんを食べながら……」
 椅子に座るよう促しながら話す菊花様はとても楽しそうだ。私はそれに従い椅子に腰掛けたのだった。

 それからは、昼食を食べつつ談笑した。髪留めの補強の方法について、菊花様は金具をあてたり紐を巻き付けたりなどの方法を提案してくれた。二人きりだったので私も遠慮なく話ができたように思う。とても楽しく、幸せだった。この時間がずっと続けばいいのに……そんなことを思ったほどだ。

 菊花様は蓮玉から……いや、蓮玉様からどのような話をされたのだろう? わからないが、きっとこの笑顔が答えなのだと思うことにしたい。今はただ、この楽しい時間を心ゆくまで味わうことに専念しようと思ったのだった。

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