女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 6話 意志 前編

豊蕾フェンレイ、いってきますね」
「ええ。いってらっしゃいませ」
 陽光がそそぐ廊下で私を見上げている菊花ジファ様に頭を下げる。すると彼女は嬉しそうに笑った。胸には本が抱かれている。歴史の教本だ。
「今日は一刻くらいだと思うから。わたしの護衛がひとり立ってれば、守りは十分でしょ。あんたは自由にしていたら」
 菊花様の隣の、蓮玉レンイ様が私に告げる。彼女もまた本を抱えていた。
 彼女の護衛、黒髪を頭頂で纏めた男が頷いた。この体が大きく筋肉質の男は、たいへん無口だが、蓮玉様の命令に忠実な男だということは知っている。
「では、お言葉に甘えて、そうさせていただきますね」
「そう。……じゃあ、菊花、行くわよ」
「はい、姉上」
 二人は部屋へ入っていった。蓮玉様の護衛は、さっそく扉を背に直立不動の姿勢をとった。彼は喋らないが仕事熱心だ。睿霤ルイリョウとは大違いだな。
「失礼する」
 私の挨拶に、彼は手を軽く上げて答えた。寡黙なだけで、良い人間なのだろう。

 さて、どうしたものか。
 とりあえず廊下を歩く。さわやかな秋風が頬を撫ぜる。窓の外には美しい紅葉が広がっている。日当たりも良く、暖かさを感じる。

 蓮玉様のご厚意により、菊花様も教師による授業を受けられることになった。といっても、蓮玉様が受けるものに同席するだけ。ただし、彼女と共に机を並べて授業を受けることができるので、菊花様は毎日とても嬉しそうだ。
 1月半前に、菊花様の髪留め……生みの親の形見であるそれに触って壊してしまってから、蓮玉様は、それまでの冷淡だった態度から一変して、菊花様に優しく接するようになった。厳しいようで、実は優しい方なのだ。

 書庫前まで来ていた。立ち止まる。ここは睿霤とよく出くわす場所だ。しかし、今日はいない。
 というか、半月前のあの件以来、会っていない。あの件というのは、あいつが、私の首筋に……。あの後、どんな顔をして睿霤に会えばよいか、わからなかった。廊下に出るたび、緊張してしまっていた。だが、あれからあいつは現れない。そんなことよりも、あいつの妙な忠告の方が重要な気がするが、うやむやにされてよくわかならない。結局例の件に思考が……。心の中で、再度睿霤の腹に拳を一発入れる。落ち着け、私よ。こんなときにやることは、決まっていた。
「剣、だな」
 やはり剣しかないだろう。刀の柄を握ると、心が落ち着く気がするのだ。

 廊下を抜け、警備兵に一瞥されながら外に出る。落ち葉を踏む感触が心地よい。この季節になると木々が美しく色づく。
 屋敷の裏手側に回る。そこには藁人形や的などが置かれた庭があるのだ。ここは武器の扱いを練習する場所として使われているのである。護衛を務める者が主人に付き添う必要がない時間に、鍛錬を積む場所のひとつなのだ。私は護衛の他、侍女の働きもしているため、なかなか時間が取れないのだが、それでも日に一度はここに来ている。精神統一になるし、少ない回数でも木刀を振れば、感覚が養われる。
 いつものように木刀の置き場を目指し歩いていると、藁人形の前に人影が見えた。男が藁人形に対して木刀を振るっている。

「このっ! このっ!」
 その若い感じの声、そして、太った見た目でわかった。
「おい」
 声を掛けると、それは体をすくめさせて叫び声を上げた。こちらに振り返ると、その弛んだ輪郭の顔を強張らせ、怯えた目をした。
「お、お前は……豊蕾!!」
「覚えていてくれたか、ブタガエ……第三王子」
 この男は、私がここに来て2日目、嫁探しで私を選ぼうとしてきた。睿霤の誘導と王との鉢合わせにより事なきを得て、その際に私はこいつを木刀で滅多打ちにした。あれ以来、私に恐れを抱いている様子で、これまで互いに一度も声をかけてこなかった。
「い、今なんておれを呼ぼうとしたんだ! おれにはれっきとした、龍翔ロンシャンという名前があるんだ!」
「そうかそうか。ご立派な名前だな」
 こいつは王子だが間に王が入っているので、気遣いなどする必要はあるまい。
 龍翔の近くで、彼の護衛の男が芝の上に座り、こちらを眺めていた。私が龍翔に無礼な態度をとっても、まったく動かない。物語っているな、この豚の人となりを。
「今日はもうやめだ!」
 鼻から息を吐き、木刀を地面に投げ捨てた。乾いた音が鳴る。
「"今日は"? いつもここで鍛錬しているのか?」
「なんだよ、悪いかよ」
「意外だな、怠けたヤツの割には……さては私に敗れたことが悔しかったか?」
「それは……」
 私のからかいに顔を真っ赤にさせる龍翔。図星か。まあ、悪いことではない。
 龍翔が投げ捨てた木刀を拾った。
「さっきの振りではダメだ。手首を痛めるぞ」
「え?」
 そして柄を差し出した。龍翔はきょとんとした顔でそれを受け取る。
「力任せじゃだめだと言っているんだ。まず構え方が違う」
「な、なんだよお前……」
「構えてみろ」
 戸惑いながらも、龍翔は私が見せた通りの型をとる。そうして二人で並んで、しばらく練習をした。こいつは嫌な奴だが、剣の修練に取り組む者に、手を抜くのは失礼だ。
 龍翔は額に汗を滲ませて、息を切らせながら、藁人形に対し無心になって木刀を振り回していた。頭を狙う振りが十分といえるくらい型に馴染んできたところで、練習をやめた。
「よし、その型を忘れないよう、反復練習するといい」
 息が上がって落ち着かない彼にそう教示する。
「よくわからないが、感謝するぞ、豊蕾。よし、おれの側近にしてやっても……」
「それは御免だ。そうだな、かわりに訊きたいことがある」
「は? なんだよ」
「菊花様のことだ。彼女の事情はこの前知った。お前たちが蓮玉様に厳しく当たる理由も。だが蓮玉様は、優しく接してくれているぞ。他の者どもは何故それができないんだ」
 菊花様が王妃の子ではないからといって。いい機会だ。龍翔を責める形ではあるが、訊かずにはいられなかった。
「ああ? 菊花か……」
「面倒がらずに、答えろ。王妃が主導しているからというのは私にもわかる。だが、一人一人が気を遣えば……」
「……あいつ自身にも、原因があるんじゃないのか?」
「なんだと?」
 低い声が出た。龍翔がびくつく。
「だ、だから、菊花からは、意思みたいなのを感じないから……もういいだろ?」
「おい、待て!」
 立ち上がって、逃げるように去って行く。引き留めようとしたが、彼は護衛と共に屋敷の方へ駆けて行った。

「……意思を感じないだと」
 そんなはずはないだろう。菊花様ほど、幼いながら大変立派な人格を持つ者など、いない。
 誰にでも笑顔を振りまき、教師をつけられずとも勉学に励み、毒見役の押し付けという明らかな過ちも甘んじて受け……。
 ……言われた通り……。
「……意思が……無い……」
 つらいことを言われている時にすら、笑顔を見せる。
 本だけ与えられ、教師をつけられないことに異議を唱えない。
 その身を犠牲にして、言われるままに毒見までする。
 そのすべてが、意思を示さないからだと?
 ”わたしは王妃や姉上の言うことはすべて受け入れますし、彼女たちの望み通り振舞います”
 確かに菊花様はそう言っていたが、それは強いられるが故だと思っていた。しかし、それは違うのか? 菊花様は望んで、ああして生きているというのか。
「菊花様が招いたこと、などとでもいうのか……?」
 冷たい風が通り過ぎる。ひとり、その場で立ち尽くした。


 茶のかぐわしい香りが部屋中に漂っている。卓の上には美しい模様が描かれた陶器の茶碗が置かれており、鮮やかな紅色の茶が注がれていた。それを囲むのは、菊花様、蓮玉様、私だ。蓮玉様の護衛の男は、遠慮からか離れたところに座り、机代わりの棚に茶を置いている。
 菊花様と蓮玉様の授業が終わり、私達は蓮玉様からお茶に誘われていたのだった。茶を用意したのは私だが。
「美味しいわ、豊蕾」
 すまし顔の蓮玉様の言葉を聞いた菊花様は、嬉しそうに微笑んでいる。
「豊蕾が淹れてくださるお茶は、いつも美味しいです」
「ありがとうございます」
 私は二人に礼を述べた。菊花様は笑顔のまま頷いた。蓮玉様の口元が緩んだような気がする。
 私が来た当初からすれば、今の状況はありえないことだ。蓮玉様も菊花様を邪険に扱っていたからだ。しかし今は違う。
「菊花。今日の授業の内容、もう全部知ってたみたいじゃない」
「ええ、たまたま、この前読んだ本に書かれていたので。でも、まだわからないこともたくさんありますし……」
「ふうん、熱心ね」
 菊花様も、蓮玉様との会話を楽しそうにしているように見えるし、二人の間の空気が、茶の湯気のように、ほんのりと温かい。

 邪魔しては悪いからと黙って聞いていたのだが、ふと、蓮玉様から声を掛けられる。
「豊蕾、あなたはどうして、女なのに剣なんて振るってるのよ?」
 何度もされてきた質問だ。この問いには慣れていた。
「負けたくない気持ちが強いんです。子供の頃に住んでいた集落では剣術ごっこが盛んで、私も男に混ざってよく遊んでいました。そしてある日、虞家の長の技を見ました。そのはやさ、力強さに心惹かれ、剣の道を極めたいと思ったんです」
「へぇ、そうなの」
 興味なさそうに蓮玉様は声を出した。なかなか共感が得られ難い話なので仕方ないが、少し寂しさを覚えた。そんな私に助け舟を出したのは菊花様だった。
「とても素敵な理由だと思います。そのおかげで、今、わたしのお側にいてくれるんですよね」
 そう言った菊花様のお顔は嬉しそうであった。少し照れ臭い。

「それなら、うちの兵たちと戦場に出てみたら? 菊花の側近をしてたら、剣を使うことなんて滅多にないでしょう? いい経験になるんじゃないかしら」
「戦場?」
 蓮玉様のいきなりの提案に驚く。
「そうね……兄上の中でも、一番上か、その次あたりに仕えたら、戦いに出る機会もあるんじゃない?」
「それは、菊花様から離れろ、と?」
「まあ、そうなるわね。そうしたら菊花に別の側近をつければいいわ。侍女もね。どう? 菊花」
「ええと、あの……」
 呆気にとられる私の隣で、菊花様は困惑しているようだった。
 実際、菊花様にとって、この提案はどうなのだろう。いまだ世話役としては未熟な私一人より、新しい側近と、仕事に慣れた侍女の2名がいた方が、過ごしやすいのではないか。そう思ったが、言葉には出なかった。だって、せっかくこれまで彼女と過ごしてきたのに。俯く菊花様の髪留めの縁が、窓から差し込む光を受けて輝く。
「その、あの……豊蕾が、望むのなら……わたしは……」
 そんな。菊花様は私が離れても構わないというのか? 胸がざわつく。
「菊花様、私は望んでなど……」
「豊蕾。一回、そこの男と手合わせしてみなさいよ。それで勝ったら、見込みアリってことで、わたしが父上に、さっきの話をしてあげるから」
「……はい?」
 私の言葉を遮りながら、蓮玉様はとんでもないことを言い出した。理解が間に合わず言葉が止まる。
 男……護衛の方を見ると、目を見開いて、自身のことかと、己の顔へ指をさしていた。
「そう、あんたよ」
 すると護衛の男はさっそく立ち上がり、拱手をすると、無言で部屋を出ていった。
「どうやら準備に向かったようね」
「えぇ……」
 あの男、実直すぎるのでは。そのせいで、蓮玉様の話すとおりに事が進もうとしている。
「飲み終わったら、中庭へ行くわよ。そこで二人の試合をするわ。いいわね、菊花」
「えっ、あ……はい……」
 菊花様は頷くのみだった。蓮玉様の勢いに逆らえないのだろうが……正直、断って欲しかった。
 良いのですか? 私が、あなたの元を離れても。そう聞きたかったが、怖くて聞けなかった。
 菊花様、あなたはどう思っているのか、わからない。

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