科学至上主義に対する自由意志論(自由主義)の勝利の可能性はあるか


近代・現代は自由主義、つまり人間の自由意志を倫理の根底に置くことで成立し続けた。しかし、決定論と機械論的世界観が正しいとなると、自由主義思想は根底から覆される。

機械論的世界観と両立論が可能とする論理ははっきり言って誤魔化しである。それは民衆の感情を納得させるものかも知れないが、その裏で科学至上主義、つまり科学技術の力によって人間存在を徹底的に解体することの妥当性を否定することもできないからだ。

その憂慮すべき状況を打破するために採れる可能性としては何があるか。それは宗教の復権と不可知論の徹底である。まず、不可知論を徹底する方法。不可知論は真理は「分からない」という立場だ。つまり、自由意志があるかないかは究極的に分からない。

分からないのならば結論できない。どっちが正しいか分からない時、どちらを採るべきだろうか。人間の尊厳(自由)を取るべきか、合理的な支配を取るべきか。一旦人間から尊厳を奪ってしまったら、それを取り返すことはできない。であれば、分からない限り、人間の尊厳を保守する方が取り返しのつかない事態には至らないのではないか。

可能であるがあえてやらない、というのは倫理の根本原則である。できないことは倫理の問題にならないからだ。できることをやるか、やらないか、という時に倫理は発生する。だから新しい技術や事態が生まれる時、新たな倫理的問題は発生する。

しかし、究極分からないならやらない、というのを根本原則にすると、結局何も行動できないのである。人は究極的には何も正確なことは分からないのである。1+1=2、これも究極的には正確かは分からない。

しかし、科学は、人間が機械で自由意志は持っていないという答えの方が、あらゆる事実的な傍証から言って妥当性が高い、という結論を出すかも知れない(ほとんどそういう結論は出ている)。であるならば、科学的に妥当性があることはやっても良い、ということになる。それさえ否定したら、実質何事も実行できなくなるからだ。

すると不可知論で科学至上主義を止めることは厳しくなる。民主主義では民衆の感情が優先されるから、科学至上主義が人間存在に迫ることをある程度拒否できるかもしれない。しかし、それも時間の問題で、科学技術が少しずつ侵食してくれば、いつの間にか全てを支配され尽くされているということになる。

であれば、残すはやはり信仰の道を採るしかない。自由意志はある、あるいはないとしても神の命令(啓示)に背いてはならない、人間の尊厳を守ることは絶対であり、それを冒すことはタブー(冒さざるべき領域)であるという宗教的信念のみが、科学至上主義を止める唯一の道具となる。

さて、人間を冒さざるべきとする宗教的信念からは、自衛以外のあらゆる殺掠は否定されるはずである。すると攻撃しない彼らは支配権力によって抑圧され淘汰される運命にある。人間による革命や暴力によって支配権力と戦うことは、人間の尊厳を認めることと相入れない。

よって、革命や自爆テロは否定される。であれば、信仰者は滅びる運命にあるのか。そうではない。人間による支配の横暴を裁くのは超越神である。人間の正義による裁きは正当でなくとも、超越神の正義による裁きは正当である。したがって、超越神による革命に対する信仰を信仰者は追い詰められても死守しなければならない。

不可知論でも民主主義でも人間の革命でもなく、ただ信仰によってのみ勝利は可能なのである。

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