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【猪突猛進】恋と文学

今まで何度か片思いをしたことがある。
いつも同じことの繰り返し。
私は文学的な人を好きになる。
癖として詩の題材になり得そうな人に惹かれるところがある。
それは文学的な恋であり、特別相手を見ているわけではなかったりする。
ただ詩になるから好きなだけで、そう詩が好きなだけである。
それは身を焦がすような恋で、盲目的なナルシズム。
それは百萌というひとつの人格が衝動的に文学への陶酔から引き起こすものでした。

恋人といるとき私は本来の私に戻れます。
そして交際を始めてから1年が経った今ではほとんど安定してありのままの私で居ます。
人格の統合をとても感じます。

そんな恋人になった人は全然詩にならない。
恋人をモデルにした詩はどれも駄作でこの世に出そうとは全く思わない。
(短歌はたまに良いのができる)

恋人の感受性はとても素敵だと思う。
季節は気づけば過ぎ行くものなのに、彼はその瞬間的な味わいに気づける人で、私が忘れてしまいがちな大切なことを思い出させてくれる。
雲を見ながら「あれは魚に見える」なんて他愛も無い会話もするし、恋人に言われて気づくことはたくさんある。
その気付きの中には詩的なものも多くある。

けれども恋人は詩にならない。
全くならない。

もっと日常的な感覚で彼を見ているからかもしれないけど、その感覚がとても心地良い。

文学を通さずとも生活を送れる穏やかな日々に身を任せている。
風の凪いだ音が聞こえる。 
私はとても和やかな気持ちになれる。

私は彼と出逢うまでこの世界を鋭利な怖いものだと思っていた。
だけど、この世界が丸いことを知りました。
世界は特別綺麗なものでも怖いものでもなく、日常は穏やかで優しいものだと知りました。
統合失調症を抱えて現実から迷子になっても、彼の居る世界へ戻りたいと願えるようになった。
発達障害を持って生まれてきてたくさん苦しんで、たくさん他人を傷つけたり、傷ついてきたけど、今はひとりの人間として私として生きていられる。

詩人の私には無い感情だからくだらないと馬鹿にされるだろうけど、私は生きててよかったと思います。
これからも健やかに生きていきたいと願うようになりました。

最後に短歌をひとつ詠みます。


 名前のない日々に命名する僕ら
 この生活を恋と呼びましょう

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