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没キャラの私が20年以上も人前で声をだす仕事をしている理由

人前で声をだすなんて、トンデモない没キャラ。そんな私が、まさかの喋る仕事を選んで、もう28年目。

思い返してみると、声をだしてみようと思えたエピソードがいくつかありました。今日は、そのうちの一つ、小学校4年生の頃のお話をします。

同じ年の少女がなぜ学校に行かないのか  

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「じゃ、校長先生のところに行くよ」

妹の担任と私たち姉妹は、校長室のドアの前にいました。
放課後、シーンとした廊下。心臓の鼓動は、きっと足音より大きい…。


「失礼します」
「どうぞ」

担任
「校長先生、この子たちが、お願いがあるそうです」

「あの、、、、近くの幼稚園に保護されているベトナム人の女の子を学校に入れてください!」



そのあとの記憶は、ほとんどありません。
そう言えば、帰りに自転車のハンドルを握った手が震えていたっけ…。

ことの発端は、通っていた学習塾の部屋をのぞいていた女の子の存在でした。

「先生、あの子は、誰ですか?なぜ、学校に行けないの?」
「ベトナム難民のバンちゃんって言うんだよ。行けたらいいんだけれどねぇ。なかなかね…。」



塾のあと妹を誘い、猛烈な勢いで学校まで自転車をこぎました。

「なぜ学校にいけない子がいるの?」

そして、気がつけば校長室の前に、立っていたのです。

声をだしたら世界が変わった

さて、校長室直訴から何も事態は動かず、日々は過ぎていきました。

1日、2日…1週間…

あれ?

バンちゃんがいる!
バンちゃんが笑ってる!笑ってるやん!!

校庭で彼女を見た瞬間、ジワ~っと涙が込み上げて。

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それから、年齢より2つ下の学年で授業を受ける彼女の姿が毎日見られるようになりました。

校長室のドアをノックし、声を出した日は人生で一番勇気をだした日です。
そして震える声で言った願いは、とうとう叶えられました!

今思えば、校長の大英断です。

自分らしさはとっさの出来事ににじみでる

それにしても、あのパワー…(笑)

自分の情熱のマグマに、それはそれは驚きました。これって、ほんとに私??

今ならば、この話は自分らしいエピソードと言えます。でも就活当時は、こんなとっさの行動のなかに、自分をズバリとあらわすヒントがあるとは思えませんでした。

資格をたくさん取ったり、部活やスポーツで勝利を納めることのほうが、じぶんの価値を高めてくれると思ったからです。

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それでは、資格を取りまくる私と、あのときの情熱ほとばしる私、一体どっちが自分らしい?


生死をかけ日本にきたバンちゃんに比べれば、校長室のドアをノックすることは、大したことではありません。

でも、この9才か10才の鮮烈な体験以来、じぶんのなかに、本当のキャラが芽を出していきました。

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根っこのキャラクターで好きなものを展開していく

とはいえ、厄介なのは「人前で声を出すなんてトンデもない没キャラ」というレッテル。なかなかの粘着質です。

どうにかしたい!と思った時に、ある本で「自分のリスト作り」に出会いました。そのリストは、年表のように自分の身の上に起こった出来事を書きます。早速やってみました。

そして心動く場面をじっくり掘り下げてみます。すると何だかジンワリと暖かい気持ちになり、自分らしさの根っこを捉えることができたんです。

その瞬間どう動いたか、どう話したか、どう克服したか。

生きていれば、過去に「わっ!」と思ったことが出てくるもので。

その一つが、今日お話ししたものです。
リストを作ることで、ようやく何年も経って思い出したんです。

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「今の仕事を辞めたいと思ったことがありますか」

昨年、ある中学生から学校授業のレポートでインタビューを受けました。

「あれ? ない!」

もちろん、楽しいことばかりではないですよ。ほかのプロのあまりにも素晴らしい仕事ぶりを見聞きしては、絶望的にハハァーとため息をつき、ひれ伏すことも多々。

それでも辞めないのは、言葉はアレですが麻薬みたいなもの(笑)
それだけ声をだして世界が変わった喜びは、すごかった!

もぉーダメだ!バタっ

そんな時はウマいことに「そろそろ喜ばしてテンション上げてやろうか」と、素敵な体験に出会うようになっているんですよ。

その繰り返しです。


結果、
「ベースは変わらない。それを活かした自分らしい場所があるよ。」と思うように。

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「あんたは小さな頃から、コレと思ったら突っ走るしおしゃべりも好きだった」と母。
根っこは、そうそう変わらないですね(笑)

世話好きで話し好きな4年生が、それを転がして生きてきたんだ。

焦ったり悩んだときは、こういう風に思うと落ち着くのです。

インドシナ難民の当時の様子

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私が当時住んでいたのは、兵庫県の小さな田舎町。外国人が来れば、すぐにウワサになりそうなところです。

インドシナ難民は、この時どうなっていたか。

1975年、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)は、相次いで社会主義体制に移行。
迫害を受けるおそれのある人々や新体制になじめない人々が、ボートで海上へ逃れました。

いわゆるボート・ピープルです。

日本では、この年に千葉港に初のボート・ピープルがたどり着きました。そのピークが1979年ごろだったとのこと。

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ベトナムのバンちゃんは、近所の幼稚園がある修道院に保護されました。

彼女は、小学校での出会いから数年後、アメリカでお母さんと再会できたそうです。



当時の世界情勢は、大人になってから知りました。

母になると、我が子を先に船に乗せ握った手を離したお母さんの気持ちになりました。
10才の女の子が何日も小さな船の航海に耐える。言葉の通じない日本の学校…。
想像すればするほど、驚きが増しました。


私は、あまりにも知らなかった。だから校長にお願いできたのでしょう。

でも、ここで言いたかったのは、「ベトナム難民の方に会った」ではないのです。

何でもない日常のとっさのできごとや、心揺れたものに向き合う。それを掘り下げてみてほしいのです。

するとほんのり何かが見えてくる!

自分のやりたい仕事や、特技を見つけるときに、そこから自分のベースを見つけてみてください。数々のエピソードを眺めていくと、共通しているところが見つかるんです、不思議と。



ところで、今回、これを書きながら、妄想しました(笑)。声を発し続けていたら、今度はバンちゃんに会えるのではないかしらと…。
声に出せば叶うって言いますよね!

やっぱり私は、どんなかたちになったとしても、声をだし伝えることをほんのり続けていくんだと思います。


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