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子供が欲しい人、どれくらいいるんだろうね

私は人生に緩やかに絶望している。それは高校1年生の時に始まった。当時私は何も考えていないちゃらんぽらんな合唱部員で、歌うことしか考えていなかった。8時に朝練に行き、授業の後また部活、20時に帰宅して20時半までの下宿のご飯を慌てて掻き込む生活をしていた。歌が上手くなるのが楽しくて、毎日歌っていた。将来の事なんか何も考えていなくて、最強だった。もうあの最強にはなれない。

6歳の頃、叔父が死んだ。朝起きたら北海道に住んでいた私にとってびっくりするほど遠い「オオサカ」に住んでいる叔父が死んだと聞かされた。叔父は、お父さんの弟だった。私はおしゃべりで沢山話す子だった。葬儀が終わった夜もずっと喋っていたら、お父さんに

「今日はパパの大事な人がいなくなっちゃった日なんだ、だから、今日は静かに寝よう。」

と言われた。因果関係がわからなかった。

高校1年生の夏休み、友達が死んだ。人生に漠然とした不安を抱えたことが理由だった。中学生の頃から不登校気味で、なんとなくずっと気にかけていた。私が目を離した隙に、居なくなった。

この間、彼氏に「子供は二人欲しいんだよね〜」と言われた。そんな話をされるような年になったのかと驚いた。私はずっと子供を産みたいと思ったことがなかったから。でも、この人の子供は少し見てみたいと思った。進歩だった。
一ヶ月ほど考えてから子供を産んだ後女性だけが仕事を休むことが当たり前になっているままでは産めないと言ったら、首を傾げていた。
でも、この国ではそれが普通だよね?変えることは難しいんじゃない?と。
驚いた。身近にそんな人がいるのかと。
私は言った。自分の力を認められて、それが成果になって、昇給したりする環境にずっと身を置いていたい。そのために就職活動も頑張っている。一旦会社を休職して、また戻ってこられる会社は少ない。
彼氏は言った。家庭以外の環境にも身を置いておきたいなら料理教室とかでもいいんじゃない?

論外。話し合いができない。
この人の子供は産めないと思った。

なぜ死ぬのに生きるのか、それは人間の目的が生存だからだ。私はこの世に生を受けてしまったばかりに生きることを強いられている。せっかく生きるのなら楽しく生きたい。死んだ方が楽なことなんかずっと前から知っている。苦しいことがあるから死ぬ訳ではない、楽しいことで誤魔化して生きているのだ。
なぜ死ぬのに子を産むのか。それは本当にわからない。人生をそんな風に楽しいことの誤魔化しで生きている私には、基本が辛いことが分かっているのに産むことの意味がわからないのだ。しかも、産んだ本人も辛いという。訳が分からないな。

私は人生に緩やかに絶望している。今より状況が悪くなる可能性を知っていて子供を産む意味もわからない。満足に育てられないのに産む人はもっとわからない。死ぬのに生きる意味がわからない。

駄々をこねているだけに、見えるんだろうな。

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