見出し画像

佐渡島の「銀」山 

2024年7月28日、佐渡島金山の世界遺産登録が決定となりました。
佐渡島民の私もYoutubeで決定の瞬間を見ておりました。

ところで佐渡島金山は知っていても銀山は知らない方、ほとんどじゃないかと思いますが…
実は佐渡島銀山の方が佐渡島金山より歴史は古いのです。

もっと言えば

佐渡銀山の発掘があったからこそ、金山の発掘に繋がったのです。

https://www.isan-no-sekai.jp/report/592

文化遺産の世界 レポートより


かなりざっくり言えば…

佐渡中で銀脈を探していた山師達が、偶然金脈を見つけて掘り出したのが始まりだそうです。
鉱脈によって近くに生える草木も変わっているのを山師達は知っていたそうで、それで発見したという説が一般的のようですね。

佐渡市が主催している、鶴子銀山の1時間半のツアーがあるのを人から聞き、家人と参加してみました。

鶴子、と書いて つるしと読みます

一つ残念な事は…

世界遺産登録となった事により、今まで自由に見学出来たところが許可を取らないと立ち入り禁止となってしまった事。

今回は銀山の中に入るわけではなく関連箇所を回るツアーだったので、もっと早くに知っていれば、自分たちでこの後色々調べて行けたのになぁ、と思いました。

江戸時代に描かれた鶴子間歩

⬆️ 間歩(まぶ)とは坑道のことを指します

2024年8月現在、銀山の中にカジュアルに入る事は出来ないようですね。

巡った所は金山の賑わいと違って特別な展示がきれいに施されているわけでもなく、ひっそりとしていました。

非常に地味で玄人好みなツアーだったようで、1日3回決行されるツアーですが、今回の参加者は私たち夫婦2人のみでした。
…タクシーで貸切だったので、赤字だったと思います。

【代官屋敷跡】

跡、として残されているだけで、佐渡の奉行所のように再現されているわけではないですが、ガイドさんの説明を聞きながら色々想像を膨らませていくのは楽しかったです。

鶴子(つるし)銀山には、相川に佐渡奉行所ができるまで、代官所が置かれておったのじゃ。1589年(天正17年)、越後の上杉景勝が佐渡へ攻め入り、全島を支配下に置き、ここ鶴子に陣屋を築かせ、本格的な銀山経営に乗り出した。1601年(慶長6年)に鶴子の山師が相川の金山を発見、1603年(慶長8年)、江戸幕府が誕生すると、佐渡が徳川領になり、大久保長安が佐渡代官頭に任命され、鉱山経営の中心は鶴子から相川へと変わっていったのじゃ。

金銀山へGo!江戸眼鏡で佐渡の街歩き より


鶴子荒町(あらまち)遺跡にも行ってみました。

途中、マムシか?と驚いた蛇にも遭遇するなど
のどかです 想像する場所です

鶴子銀山の集落は代官屋敷近くに形成され、選鉱や製錬の作業が行われていました。銀山の繁栄によって急増した人口に対応するため居住域が順次拡大していった様子を示しています。それは、不整形なテラスが不規則に連続し、集落内には幹線道が存在しないという特徴に表れています。(国史跡)

鶴子銀山 佐渡島の金山 より

写真は撮っていないのですが、選鉱場所にたくさんの石が転がっていました。

丸く穿っている石の上に鉱石を置いて叩くようです。
今住んでいる家の庭石にも似たようなのがあります。
これはオブジェクトなのか、実際使われてものなのか、分かりませんが。

うちの池のそばに転がってます

ガイドさんに色んな金銀山こぼれ話もお聞きしました。

その昔、金山近くのとあるお茶屋さんは金山で働く人たちの擦り切れた草鞋を無償で新しいものに交換していたそうです。
単なる親切心かと思いきや…
草鞋に細かい金の破片がくっついているのを全部きれいにかき集めて、大儲けをしたとか。

その昔、金の精製技術は良くなかったので、金が入っていると思われても細かい岩石はその辺に打ち捨てられていたそうです。
近くに住む相川の住人達は屋根の上に乗せるコマイシ(小さい石)にちょうど良いと思い、皆、普通に屋根に乗せていたらしく。
後に金の精製技術が進むとそういった小石からも金が取れるようになり、佐渡島奉行(佐渡は江戸幕府の直轄地ですので)が良い値で買い取ったとか。
かなり潤った相川の住人もいたそうです。
(個人的には島民から力ずくでぶんどらずにちゃんと買い取ったお上、偉いなと思いました)

色んな歴史、知ると今まで見た景色も変わって見えますね。
同じ島内でも建物の建て方、間口が違っていている謎も解けたりして非常に有意義な1日でした。

ありがとうございました。

ランチに相川の竹屋さんで食べたゴロイカ🦑焼き 😋



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?