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『全体主義の起源』で孤独について考える

ハンナ・アーレント『全体主義の起源  3』【新版】(大久保和郎・大島かおり 訳)みすず書房 2017年

先例のなかった統治形式である全体主義。それは一体何であるのか、その実態を精緻に分析したシリーズ。今回は重要な総括がされる第3巻を読む。

先にまとめ

引用も多いので、先にこの記事のまとめを述べておく。
主に孤独に焦点を当てて考察した。
・孤立/孤独/独りぼっち、は異なる
独りぼっちロウンリー(見捨てられること)を利用する全体主義
・寂しくない孤独こそ大切である

孤立と孤独、そして独りぼっち

第13章やエピローグでは重要な概念が語られる。ただ、孤立と孤独の定義が入り組んでいるように感じられたので、まずは、孤立/孤独/独りぼっち、を私なりの解釈で整理してみる。

孤立(Isolierung?)単に一緒に行動する人がいない。両義的に使われる。
孤独(Einsamkeit)「自分自身と一緒にいられる、自分自身と話すことができる」。それは思考すること。あわせて、他者との関わりにおいて、自分の中の二人が再び一人になれる。つまりアイデンティティの確立が可能。
独りぼっちロウンリー人との付き合いができず、疎外されている。自己を見失い、世界への信頼をも失う。見捨てられている感覚。世界とのつながりが断たれると、思索・創作は単なる労働に切り替わり、苦痛となる。
孤独の、独りぼっちロウンリー化:交際の機会を失い、自分だけを頼り、また「自己から打ち捨てられる」場合に生じる。

【備考】アーレントは「自己」をきちんとユング的な自己として使っているように思える。すなわち、自分と他者が境目なく集合的無意識層でつながっている、その不可視な全体として自己という言葉を捉えているようだ。

全体主義的統治においては、孤独、つまり個人的な人間生活が破壊される。
どういうことだろうか。詳しく見ていく。

ゆえなき孤立が個人を全体主義へ追い立てる

限界的経験だったはずの独りぼっちであることロウンリネスが大衆の日常的な経験になってしまった時、全体主義がそこへ新たなアイデンティティを与える。これは恐ろしいこと。なぜなら皆が人間関係の外にありながら、全体主義に囲い込まれることで(偽物の)安心感を得られるという仕組みなのだ。全体主義的統治は、バラバラな人間たちをバラバラなままがっちりと都合よく一つの集合体にまとめる、と言ってもいいだろう。

人間たちを圧縮して大衆にし、そして人間たちの間に存する自由の空間をなくしてしまう全体的テロルの強制と、テロルの力で組織された行進へ各個人を参加させ、しかるべき運動を行わしめる論理的演繹の矯正とは、 全体主義運動を絶えず運動状態にとどめるために一体となり、たがいに呼応し、たがいに他を必要としているのである。テロルの外的強制は自由の空間を破壊するとともに人間のあいだの一切の関係をなくしてしまう。他のすべての人々とぴたりとくっつけられてしまいながら、各個人は完全に他から孤立させられている。徹底したイデオロギー的思考の内的強制は、このように孤立させられた個人を、永久不変の、首尾一貫して論理的であるが故にどんな場合にも先の見えた過程の中に引きずりこむことによって、この外的強制の効果を保障する。この過程に巻き込まれた個人は、経験しうる世界の現実とその中でのみ遭遇し得るあの静止を決して与えられないのだ。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源 3』新版 p312~313

最後の「あの静止」が引っかかるが、文脈から見て、一人もの思いにふけるような状態のことではないだろうか。この引用では分断された個々人が全体主義に取りこまれることの恐ろしさを指摘している。

見捨てられていない、ということ

 すべて孤独と言うものには見捨てられていることフェアラッセンハイトに転嫁する危険があり、同様にすべての見捨てられていることには孤独 になる可能性があるにもかかわらず、見捨てられていることと孤独 Einsamkeit は同じものではない。孤独の中では実は私は決して一人ではない。私は私自身とともにあり、そして身体的に他のものと交換不可能の特定者には決してなり得ないこの自己は、同時にまた各人 jederman でもある。まさに孤独な思考は弁証法的であり、各人と交わっている。これは孤独の自己分裂症であって、この中で私は常に自分自身にひき戻されながらも、決して一者として、そのアイデンティティにおいて交換不可能なものとして、本当にかけがえのないものとして私を経験し得ない。まさにこの一者として、交換不可能なものとして、かけがえのないものとして私を認め、私に話しかけ、それを考慮してくれることで私のアイデンティティを確認してくれる他の人々との出会いによって、私は孤独の内部分裂と多義性とから救い出される。彼らとの関係に組みこまれ彼らと結びついてはじめて、私は現実に世界における一者であり、他のすべての人々から私の持ち分の世界を受け取るのである。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源 3』新版 p320~321

孤独と見捨てられていることフェアラッセンハイトの違いが指摘される。他者のかけがえのなさについて。
そもそも見捨てているものは誰か。他者である。見捨てられる状態はどうやって生じるのか。この世界から追い出される時、世界が分裂して結ばれあった人間たちが引き裂かれる時、に生じる。全体主義はそこにつけこむ。
1951年に本書の英語版が出版されてから、半世紀以上が過ぎた。ひょっとするといま我々のあいだで、新たな「見捨てられ」の現象が起こりはじめているのかもしれない。

【メモ】和訳において英語とドイツ語が混在しているので整理しておこう。
◯独りぼっちであること(lonelinessロウンリネス:英) = 見捨てられていること(Verlassenheitフェアラッセンハイト:独)
◯孤独(solitudeソリテュード:英) = 孤独(Einsamkeitアインサムカイト:独)
この使い分けは重要で、アーレントは意味によって区別しているはずだが混乱を招きやすい部分もある。たとえば「孤独は独りきりアロウンであることを必要とする」(p349)という言及は、「孤独は孤立を必要とする」とした方がわかりやすいと思う。

個人の孤独を恐れるな

孤独となって、自分との対話をすべきなのだ。
思考は、自分の中の対話から生まれる。この分裂した自分は、人との交流によって再び一つになって出現する。アイデンティティだ。
アーレントは、孤独であることは政治的な場から離れて権力は妨げられるが、むしろ創造や生産活動には良い環境である、と言う。また、考えたこと作ったものによって世界に参画できる。その上で「私たち」としての共通感覚は維持され、人同士のつながりを信じられるようにもなる。

孤独の時間を大切にしたい。自分を見てくれる人たちを大切にしたい。
そう言ってハンナ・アーレントも私たちに手を差し伸べているのだ。
本書を読んで、そう思う。

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