見出し画像

最後の夏は、おもいきり

「夏期講習の申込用紙が出ていないぞ」
アルバイトの僕にも、塾講師のような振る舞いが板につき始めていた。小学校6年生になったリョウタという男の子は、尻の収まりが悪くて講師たちは誰も座らない小さなスツールにちょこんと腰を掛け、少し気まずそうに僕に言った。
「先生、今年の夏期講習、いけなくなりました」

リョウタは、2年前の入塾以来、常にトップの成績を維持している。
講習会はすべて皆勤。通常授業も病欠以外で欠席したことはない優秀な男の子だった。
当時、家庭の経済的な理由で退塾せざるを得ない子どもが何人かいた。けれどリョウタの父親は都内にある有名な大学病院の勤務医で、母親は私立高校の英語科の教師だった。そんな彼らだから、経済的な問題が生じるはずはない。僕は、彼が夏期講習に参加しない理由を知りたいと思った。

どうやって尋ねようか考えていると、僕が尋ねる前に「お母さんがそうしろって」と言って、リョウタが僕に白い封筒を差し出した。母親が記入したと思われる休塾届の余白には、”小学生最後の夏休みは、おもいきり遊ばせます。”と細く美しい流れるような文字で一筆が添えられていた。

それを見たとき、僕は通っている大学の社会学の講義で、去年還暦を迎えたという上品な白髪の教授が語った、”より良い人生”のために少年期をどう過ごすべきかという主題の話を思い出した。

◆◇

享楽的にランドセルを放り投げて遊ぶべきか、禁欲的にみっちりと勉強するべきか。当然ぼくの答えは後者である、というのが彼の主張で、ある晩秋の4限目の終わり、彼はその理由について語った。

「”ことば”を持たずして、良い人生を送ることはできない。人間は、ひとつの事実を解釈したり、意味づけをしたりすることのできる唯一の生物だ。解釈や意味付けには、ことばが不可欠である。ことばを得るためには、たくさんの本を読まなくちゃあならない。ときには語学から学ばなきゃいけなかったりする。知恵を得るというのは、元来容易なことじゃないんだ」

こほん、と咳払いをして、彼は続けた。

「勉強の基本は、本を読むことだとわたしは思う。本を読んでことばを獲得し、ひとつ問題を解決する。また本を読み、先より少し難しい問題が解決できるようになる。そうしたことを続けるうちに、人は少しずつカルチベードされていく。ことばによって少しずつ心を広く持てるようになり、ことばによって愛するということを知る。私の講義も、ことばの蓄積によって成り立っている。おそらくこれは、子ども時代に不勉強だった者にはわからない話だろう。微分や積分、外国語、あえて読み難く書かれたような評論、そういったものに向き合うことを”勉強”と呼ぶものもいるが、それらは本当の意味の勉強ではない。”勉強”とは、”ことば”を獲得することであって、積分などその過程のごく一端に過ぎない。この国では幸運にも、ことばを獲得するための場が全国民に提供されている。そこで我々は少しずつことばを獲得し、自ら考える力を身につける。ことばの獲得という継続的な営みによって、人間はすこしずつできなかったことができるようになっていく。そうしてあるとき、ふと自分の人生が有意義であると確信する瞬間が訪れるものだ。勉強は、しなくちゃならん。」

いつの間にか僕は背筋をぴんと伸ばして彼の話に聞き入っていた。昨夜の徹夜麻雀のせいで身体が重く、微熱の気配があったことすらも気にならなかった。

◆◇

教授の話したことを、僕は正しいと思った。

そして、平日は放課後に塾に通って授業を受け、家に帰れば学校と塾の両方で課せられた宿題を片付け、長期休暇にはすすんで講習に参加する子どもたちを、僕は正しいと思った。今、僕は東京大学の文学部に通い、たまに仲間との麻雀に勤しむけれど、入学するまでの道のりは険しいものだった。小学校から「特訓コース」のある塾に通い、放課後も夏休みもなく勉強したものだ。両親はその頃から僕をトーダイに入れるつもりだったし、僕も両親の期待に応えるつもりだった。勉強も、徐々に楽しくなっていった。

だから、僕はあの白髪の教授が言うとおりだと思った。人は、少年時代からとことん勉強をするべきなのだ。僕は、かつて一度も、それを疑うことはなかった。

しかし、僕はリョウタの母親の書いた一行の文章をみたとき、そんな理屈を凌駕するような、説明のできない絶対的な正しさを感じた。この子は誰が何と言おうと、この夏休みは遊び狂うべきである。そう感じたのだ。

素敵な母親だ、と僕は思った。
リョウタはよく本を読んだし、教えたことは一回で吸収してしまう賢い男の子だ。6年生になった彼は、これまでたくさんの勉強してきたはずだ。彼が時間を費やし、同い年の子供たちよりも少しばかり多くの「ことば」を得たことを、僕は知っている。

彼はこの夏、あたらしい世界を知るだろう。
家族と一緒に食べる西瓜。友達と一緒に出かけるプールや海。風鈴の音。気になっている女の子と一緒に行く夏祭り。かき氷。激しい夕立と、のちに架かる虹。燃えるように朱い夕焼け。夜の流星群。それらはきっと、冷房の効かない、汗のにおいのする暑い夏休みだ。彼がどこでだれとなにをする予定なのか、僕は知らない。僕はただ、彼の小学生最後の夏休みが、特別な"ことば"となることを願った。

◆◇

事務室に戻り、リョウタの休塾届を教室長に手渡した。
教室長は僕に、ちゃんと説得はしたのか、と問うたが、曖昧な返事でごまかした。弁解する気など起きなかったし、説明したところで、どうせこの男にはわかるまい。彼は休塾届を封筒に戻し、これじゃ講習の受講者数がノルマに足らないと小声で漏らした。つまらない男だと僕は思った。僕は彼の呟きを無視し、子どもたちを見送るために事務室を出た。

夕方に降った小雨がアスファルトを濡らしていた。
雨は止んでいたが、湿気を含んで程度良く冷えた初夏の夜風が心地よかった。歩道に一列に並んだ保護者たちの自動車がハザード・ランプを点滅させ、わが子の帰りを待っている。僕はリョウタのちいさな頭を、ぽんと叩いて声をかけた。

「今年の夏休みは、あんまり勉強をするんじゃないぞ」

どうして?
リョウタは困惑した表情で僕を見上げた。
いつの間にか僕の背後に立っていた教室長が、おいと僕を制し「塾を休むんだからその分しっかり勉強しろ、いいな?」と慌ててリョウタに言った。リョウタは不思議そうに僕と教室長の顔を見くらべたあと、こくりと頷き赤色のフォルクスワーゲン・ゴルフに向かって走っていった。運転席に、美しい文字の書き手らしき姿が見えた。リョウタがドアを開けると母親と目が合って、僕は会釈をした。リョウタはぱたんとドアが閉めると、助手席の窓を開け「先生!またね!」と白い歯を見せて僕に手を振った。
夏を楽しむに十分な笑顔だと思った。

◆◇

生徒たちの見送りを終えて事務室へ戻ると、教室長は不満そうに溜息をつき、そんなんでいいのかよ、と独りごちた。「今までこんな理由で夏期講習に来なかったヤツはいないだろ」彼は僕の方を見てそう言ってうなだれた。

昨年度末に、最大の人数層だった中三生が卒業していった。少子化の影響か、今年度は4月の入塾者が例年よりも3割以上少なく、この校舎の営業収益はエリア内でも最下位に落ちたと聞く。このまま夏期講習の受講者がノルマに達しなければ、彼はきっと本部の管理職から叱責されるのだろう。僕はなにも言わなかった。

毎年の夏期講習でどれほど生徒の学力が伸びるか、僕たちは知っている。夏期講習に参加すべき理由など、いくらでも見つけることができる。僕たちがその気になれば、講習を受講するように説得することだってできたはずだ。

でも、僕は決して、それをしない。
そのことで教室長が僕に文句や説教を垂れたいのなら、勝手にすればいいと思った。僕にはどうしても、リョウタの母親の判断が間違っているとは思えない。


あんまり勉強をするんじゃないぞ、という言葉が正しかったかどうかはわからない。

ただ、そんな不真面目さも悪くないと思っただけだ。


Salubanana's original short short story
2019

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,179件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?