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クリスマス・ブレンド

中学校の職業体験は、府中駅前のスター・バックスだった。

2018年の今なら、中学生たちは大喜びするはずだ。
体験学習とはいえ、「スタバ」で働けるのだから。

しかし、十四歳の私が担任の教師から、あなたたちの体験先はスター・バックスなのだと言われたとき、そんな特別感はまったくなかった。コーヒーなんてほとんど飲んだこともないし、思い入れがないからだろう。いずれにせよ、一緒に行くことになった順也も同じ調子だった。

ヘアアイロンで不自然に伸ばした前髪。つけすぎの整髪料。校則違反のティンバーランドのブーツ。第二ボタンまで開けたワイシャツと、腰履きの制服。
知性や気品などまるでない、どうしようもない田舎の中学生ふたり。
これでもかというくらいによく晴れた十二月の午後、私は学校から駅までの十数分の道のりを順也と歩いた。働かせるならバイト代払えとか、滅茶苦茶な文句を言いながら。

◆◇

体験学習の現場は、大人の店、という感じがした。
こぢんまりとした空間にコーヒの独特の香りが漂う、清潔で落ち着いた店内。カウンターの向こうでは、数人の女性店員が自然な笑顔で、客と友だちみたいに話をしている。普段の放課後に行くマックやサイゼリヤにいるような騒がしい客は一人もいないし、客の方も、おとなしく小説を読んだり、パソコンを開いて黙々と仕事でもしている様子だった。

「職場体験の子たちかな?」
店長は男性だとばかり思っていたので、背が高く顔の小さい、とても綺麗な女の人に声をかけられて驚いた。
「はじめまして、店長の大野です。今日はよろしくね」

制服のブレザーを脱いで、バックヤードに用意されていた緑色のエプロンをつけた。社会常識など微塵もない無知な中学生。私と順也は揃って第二ボタンを開きっぱなしで更衣室を出た。

「ここはひとつ閉めよっか。私ね、白いシャツをきちんと着てる人って格好いいと思うんだ」
そう言って大野店長が第二ボタンを留めたので、私は呆気にとられた。中学生の華奢な身体を笑われはしないかと心配になって、目を逸らして、不必要に順也に喋りかけた。

◆◇

まずはコーヒーのことを教えてあげます、と細くて長い人差し指を立て、大野店長は笑った。マグカップや豆の袋が並ぶ陳列棚の前で、コーヒー豆の産地について語る大野店長は楽しそうだった。

「コーヒーにもいろいろあるの。どこのどういう豆を使うのか、どういう炒り方をするのか、どれくらいの大きさに挽いて、どれくらいの温度で抽出するのか。ちょっと違うだけで、味や香りが全然変わるんだよ」

面白いでしょ、と言って大野店長はくしゃっと笑った。この人はきっと、コーヒーが好きなのだろう、と私は思った。

ひととおりの説明を受けてから、私たちは実際にコーヒーを淹れた。
挽いて粉状になった豆のなかに熱湯が沈んでゆくとき、その蒸気からふわと香りがたち昇る。芳醇な、大人の匂いがした。
デカンタからカップに注ぐ時も同じ香りが蘇る。注文どおりのサイズのカップにドリップ・コーヒーを注ぐときだけ、時間がぴたりと止まるような気がした。

いい匂いですね、と大野店長に話しかけてみた。
「でしょ? コーヒーの匂いってね、人の集中力を高めたり、癒したりする効果があるんだって。すごいよね」
大野店長の穏やかな雰囲気は、コーヒーのおかげなのだろうか。そういえば、他の店員たちも落ち着いた人が多い。話すペースはゆっくりで、いつも口角が少し上がっている。皆、機嫌がよさそうだ。

現実には、時間はすごいスピードで流れていた。
店のオーブンで香ばしく焼けたチョコレート・チャンクスコーンが、甘い香りを放つ。それをショーケースに並べながら、大野店長が言った。

「もう少しで終わりの時間だから、やってみよっか」

私ははっとした。
もう少しで終わりって、いま始まったばかりじゃないか、と。はじめから、時計は見ていなかった。気づいた時にはコーヒーの匂いと大野店長の話に夢中になっていたし、ドリップ・コーヒーを手渡す際に客から「ありがとう」と感謝されるたび、私たちは働く喜びを感じでいたのだった。

たったの2時間。
どんな仕事をしたかなんてほとんど覚えていないけれど、ただ楽しくて、夢中だったことだけが強く記憶に残っている。ここで働けたら、きっと楽しいだろう。大野さんが店長だから、楽しいに違いない。

そういえば、アルバイトっていつからできるんだっけ。たしか、中学校を卒業したら、してもよかったはずだ。

「あの、高校生になったら雇ってもらえませんか」

卒業まであと一年とわずか。
一年も先のことなんて今まで考えたこともないけれど、中学校を卒業したら、ここで大野店長たちと働きたい。通う高校は、どこにしよう。内申や学力は、足りるだろうか。

ああ、と大野店長は視線を外した。


「うちのバイトはね、大学生からなの。ごめんね」
申し訳なさそうに眉を顰め、両手を合わせて大野店長は言った。

「でも、きみたちが大学生になったら歓迎するよ。絶対ね」
表情の豊かな人だと私は思った。今度はくしゃっとした笑顔でそう言った。

「そうだ!頑張ってくれたふたりに、おみやげがあるよ」
帰り支度をして待ってて、と言って大野店長はバックヤードから出て行ってしまった。

「大学かあ」
私が口を開く前に、順也が言った。

「すげー先じゃん。マジで」
高校生になることすら遠い未来に感じるのに、大学生ともなれば、気の遠くなるくらいに先のことのように思えた。そもそも大学って、どんなところだろう?
ブレザーを羽織って、マフラーを巻く。私も順也も、第二ボタンは開かなかった。マフラーの羊毛がちくちくと首筋を刺激して、ほんの少しだけ痛かった。

体格のいい男性店員のあとに続いて、大野店長が両手でトレイを持って戻ってきた。トレイには、真っ赤なバッグに入ったコーヒー豆と、トール・サイズのカップをふたつずつ載せていた。

「これ、今日きみたちが淹れてくれたコーヒーだよ」
クリスマス・ブレンドっていうの、と言って大野店長は微笑んだ。

ミルクと砂糖はいるかな、と大野店長は訊いたが、順也が先に「このままでいいっすよ」なんて答えたので、私も頷いた。
大人だあ、と言って大野店長が笑った。
ミルクも砂糖も要りませんという台詞は、私が言うつもりだった。本当はブラック・コーヒーなんて飲んだことがないけれど、格好つけて。

「今日は来てくれてありがとう。お客さんとして、いつでも来てね」
そう言って感じよく微笑み、真っ白な歯をちらりと見せた。
本当に、きれいな人だ。

◆◇

冬は陽が傾くのが早い。
手を振る大野店長たちに見送られて外に出たときには、すでに橙色になった陽が西から差していた。外気は店に来たときよりも少し冷えていて、乾燥した落ち葉がペデストリアンデッキを這うように滑っていった。

「俺、大学生になったらスタバで働こうかな」
帰り道、先に口を開いたのは順也だった。
「でも、大学なんて五年も先の話だぜ」
私がそう返すと、順也は何も言わなかった。

クリスマス・ブレンドは温かかった。
プラスチックの蓋に小さく空いた口から、少しだけ啜ってみた。思うよりはるかに熱くて噎せかえりそうになったが、なんとか堪えてあわてて飲み込んだ。舌には軽い火傷の感触とコーヒーの苦味が残り、身体の内側にも、じんわりとした熱を感じた。

「これ、うまいな」
味なんてわかりもしないのに、私は順也にそう言った。肯定はしたが、きっと順也も私と同じだろう。大野店長が教えてくれた“味や香りのちがい”なんて、まるでわからない。でも、五年も経てば、そんなちがいが少しはわかるようになるのだろうか。今よりも身長も伸びて、大人になって、あの店で働く自分の姿を想像してみた。
ちょっとだけ、わくわくした。

冬休みが目前に迫る十二月の夕方。
職場体験先から中学校への帰り道。
未来の話をしながら啜るブラック・コーヒーは、本当はとても苦かった。

◆◇

あの体験学習以来、私はコーヒーを飲むようになった。けれど、大野店長のいるスター・バックスには行かなかった。行こうという気になれないのは、大学生になるまで、近づいてはいけないような気がしたからかもしれない。

結局、私は大学生になってもアルバイトを申し込まなかった。
二十歳になって、七年ぶりにかつての職業体験先に行ったとき、大野店長はいなかった。
聞けば、異動になったらしい。
彼女のことを知っているのは、もはや後任の女性店長だけだった。さすがに、七年も前の話だ。もし彼女が今でも店を任されていたとしても、私たちのことなど憶えていないだろう。後任の女性店長に事情は語らなかったが、胸にはどこか喪失感に似た、微妙な気持ちが焼きついた。

◆◇

四年制の私立大学を卒業して、私はサラリーマンになった。
幸い満員電車とは無縁だが、毎朝ワイシャツのボタンを第一ボタンまで留め、ネクタイを締めて通勤している。週に四日はスポーツジムに通っているから、当時よりも身体も大きくなったはずだ。意識したわけではないが、思えば持っているワイシャツは白の無地ばかりだ。

順也とは中学を卒業してから会うことはなかった。
成人式のときも会わなかったし、同窓会には行かなかった。職業体験のあと、一度だけ家に遊びに行ったことがあった。順也の家は近所だったが、あれから街で偶然にすれ違うということもなかった。彼はまだ、府中の街に住んでいるのだろうか。いま、どんな仕事をしているのだろうか。


今年の冬で、私は二十五歳になる。あの体験学習から、もう十年以上が経つことになる。
私はあれから毎年、赤いバッグの豆が店頭に並ぶ季節になると、スターバックスに入る。認めたくはないが、私はあの思い出に浸るために、この季節を心待ちにしているのだ。

代金を支払うと、店員が振り返ってカップにコーヒーを注ぐ。ドリップ・コーヒーだけは、カウンターからすぐにサーブされるのだ。お待たせしました、と差し出されたカップを受け取る。ありがとうございます、と礼を言ってカウンターからすこし離れ、白いプラスチックの蓋を外す。

たち昇る蒸気に鼻を近づけて、こっそりと深呼吸してみる。

トールサイズのカップから確かに香る芳醇な匂いが、馬鹿で無知な十四歳の、ちょっとした失意の記憶を蘇らせる。


◆◇

クリスマス・ブレンドの豆は毎年変わるという。
そういえば、去年は酸味が強かったが、今年はさほど強くない。私はあまり酸味が得意ではないから、今年のコクのある、すこしスパイシーな風味が気に入った。

そういえば、最近はすこしだけ自分の好みがわかってきたと言った私に、同じ豆だとしても豆一粒一粒に個性があるから、本当はひとつとして同じコーヒーなんてないとかなんとか、小難しいことを言ったのはどこの喫茶店のマスターだったっけ。

当然、私にはそこまでの”ちがい”などわかるはずもないが、スター・バックスのクリスマス・ブレンドは、毎年ちゃんと苦くて、いい匂いがする。


あの日以来、クリスマス・ブレンドが大好きだ。


Salubanana's original short short story
2018

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