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2022.8.17 【全文無料(投げ銭記事)】“国語”が秘める力…ご存知ですか?
私たちが毎日使用している日本語。
学校教育では、『国語』という科目で音読をしたり、漢字を習ったりしましたが、近年の教育では、幼少期から積極的に英語を学ばせるという風潮が高まってきています。
つまり、私たちの根幹である『国語』が、教育現場で軽視されつつあるのです…。
そこで、今回は、『国語が育てる日本人』をテーマに書き綴っていこうと思います。
この記事を読めば、私たちが日々使っている『国語』が、子供の教育の根幹であることに気づくかと思います。
言葉は通信手段に過ぎない!?
2020年度から、小学校5年生と6年生に、英語を正式教科として教えることが始まっていますが、この『改革』の前提にあるのが、
「言葉は通信手段」
という考え方でしょう。
例えば、日本人が中国人に
「こんにちは!」
と、呼びかけようと思ったら、
「ハロー!」
という英語に訳して声に出します。
それを聞いた中国人は、
「ニーハオ!」
と訳して受け止めます。
二人を繋ぐ
「ハロー!」
という英語は、携帯と携帯を繋ぐ通信用電波のようなものだという考えです。
英語を覚えれば、こういう国際的コミュニケーションができるようになるという考えは、それはそれで言語の一面を捉えていますが、言語には人作りのために、もっと深い意味があります。
母親はなぜ自分の息子を「おにいちゃん」と呼ぶのか?
言語は、人間が世界を認識する枠組みを形成します。
例えば、家族をどう呼ぶかという点で、日本語は英語とは相当違う言葉を使います。
母親が2人兄弟のうち、兄の方を「おにいちゃん」と呼んだりします。
また、父親、すなわち夫を「パパ」と呼びます。
母親にとって、なぜ自分の子供を「おにいちゃん」と呼び、夫を「パパ」と呼ぶのでしょうか?
英語を母国語とする人々から見れば、訳が分かりません。
こうした呼び方を、“親族用語の原点移動”と解する言語理論があります。
つまり、母親は家族のうち、最も幼いメンバー、すなわち次男に原点を移動し、次男の視点から「おにいちゃん」、「パパ」と呼ぶのです。
なぜ、こんなややこしい呼び方をわざわざするのでしょう。
それは日本語では、長幼の序を大切にしており、一番若いメンバーを基点にして、長男は「おにいちゃん」、夫は「パパ」と敬意を込めて呼ぶというのが筆者の解釈です。
家族の中でも、敬意を込めた呼び方をするという所に、濃やかな人間関係を大切にする日本語の世界観が表れています。
ちなみに、英語では、母親は長男を「ジョン」、次男を「フレッド」、夫を「マーク」などと全てファーストネームで呼びます。
そこには親しみはあっても、敬意は籠もっていません。
但し、子供たちは、母は「マミー」、父親は「ダディー」などと、多少の敬意を込めて呼びます。
このように、日本語を母国語として育つか、英語を母国語として育つのかによって、世界の捉え方が、まるっきり変わってきます。
国語は『共感』の根っこを育てる土壌
このように言語を捉えると、言葉は単なる『通信手段』ではなく、人を育てる『土壌』だと言えます。
人間の成長を樹木に例えると、下の3つのステップからなります。
![](https://assets.st-note.com/img/1660104533361-eyHSeWMATz.png?width=1200)
例えば、福澤諭吉は、上海で英国人に侮蔑されている中国人の姿を見て、日本人同胞には、こういう思いをさせたくないという『共感』の『情』を持ちました。
そこから、
「一身独立して一国独立す」
と、国民一人ひとりが独立精神を鼓舞して、国家の独立を維持しようという利他の『意』を抱き、その結果、『学問のすすめ』という大ベストセラーを出して、教育者としての“処を得”ました。
共感の『根っこ』を育てる土壌が国語です。
例えば、福澤諭吉の『学問のすすめ』を読んで、
<理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず>
という言葉に共感した人は、自分もそういう人物になろうと学問を始めるでしょう。
このように先人の言葉という土壌から、『根っこ』である共感の『情』が栄養分を吸い上げて、そこから利他の『情』、処を得るの『知』が育っていきます。
言葉と体験との循環作用
このように、土壌として言葉を捉えると、素読の意味合いが一層明らかになります。
例えば、唱歌の『虫のこえ』
♪あれ松虫が鳴いている
ちんちろちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴き出した
りんりんりんりん りいんりん
あきの夜長を鳴き通す
ああ おもしろい虫のこえ
この歌を習ったとします。
もし、この時点で、子供たちがまだ『松虫』も『鈴虫』も見たことがなければ、『虫のこえ』というのは、
「虫がなにか声を出すのかな?」
というくらいしか理解できないでしょう。
しかし、その後で、虫が鳴いている場面に遭遇したら、この歌が思い出されて、
「ああ、これが虫の声なんだ」
と、体験的に理解できます。
昔、習った言葉が潜在記憶の中に残っていて、ある体験を契機に、その言葉が急に浮かび上がってくるのです。
言葉の意味とは、言葉を習った時の理知的な理解に留まらず、体験と共に深まっていくのです。
とすれば、まだ体験の少ない幼児のうちは、とにかく素読でたくさんの言葉を蓄積しておくのが良いのです。
そうすれば、後で経験をする都度、それに関連する言葉が思い出されて、その意味を体験を通じて理解を深めることができます。
たくさん言葉を覚えておくほど、後で様々な体験を言葉で意味付けることができます。
ですから、意味は分からなくても、取り敢えずたくさんの言葉を潜在記憶に蓄積しておき、将来の体験時に備えておくという素読の手法は、人間の精神の発達過程から見ても合理的なのです。
また、こうして『虫のこえ』という言葉を体験を通じて自分のものにできた子供は、下のような明治天皇のお歌に触れたら、その意味合いもより深く味わえるようになるでしょう。
さまざまの 虫のこゑにも しられけり
生きとし生ける ものの思ひは
こうして言葉は、体験の意味合いを理解するのを助け、また体験が言葉の理解をさらに深めます。
言葉は単なる抽象的な信号ではありません。
体験という根っこから吸収された栄養分として、利他の『意』の幹を育て、『処を得る』知の枝葉を伸ばしていくのです。
1年生の国語の教科書の音読宿題が苦痛だった
素読についての質問に、
<幼年期は素読が重要とのことでしたが、1年生の国語の教科書に載っているカンタンな文章を毎日5回ほども宿題として読まされて非常に苦痛だった記憶があります。
どのくらいの難易度の文章を、どのくらいまで(暗唱できるまでなのか、つっかえずに読めるほどまでなのか…)読むのが良いのでしょうか?>
“苦痛”の原因は幾つか考えられます。
まず、脳の発達過程から考えると、3歳までに前頭葉の7~8割ができますから、スポンジが水を吸収するように、難しい漢字なども覚えてしまう力を付けています。
幼児に多くの漢字を教える教育方法を開発した石井勲氏は、小学1年生が
700字もの漢字を覚えてしまったという結果を報告しています。[c]
現在の1年生の国語では、平仮名だけの余りにも簡単な文章なので、よくできる子ならすぐに飽きてしまうという事が有り得るかと思います。
もっとも、子供の成長過程には当然、個人差がありますから、その子の様子をよく観察して、面白がってどんどん覚えるような適度な難易度の文章に挑戦させていくというやり方が良いと思います。
かつての寺子屋では、40人ほどの1年生に、皆同じ宿題を与えるという今の小学校のような大クラス方式は用いられていませんでした。
年齢はバラバラでも、成長度合いが同じ位の子供何人かで素読をさせていたようです。
一人ひとりの子供の成長度合いを見ながら、それに適した教材を与えていく必要があります。
苦痛の原因として、もう一つ考えられるのは、宿題として“1人”で読むという孤独なやり方が楽しくなかったのではないかと思います。
素読は遊びと同じです。
皆で揃ってテキストを読み上げるというのは、一種の集団遊戯です。
勉強と遊びを厳密に分けているのも、今の学校教育が幼年時の脳の特徴に合致していない点の一つでしょう。
松尾芭蕉の俳句一句を説明するだけで一時限
10歳から20歳くらいまでに、前頭葉は第二次成長期を迎え、物事の意味合いを考えるようになります。
この時期には、物事を主体的に徹底して考えさせる事が大切です。
国語教育は、そのための中心的教科です。
こんな体験談があります。
<確かに、教師の影響させる力は凄いと思う。
私は当時、中卒で50%が就職するという時代であったが、私の田舎の中学校では、大森祐一先生という国語教師の影響で同級生8人が教師になった。
何しろ、松尾芭蕉の俳句一句を説明するだけで一時限が過ぎたのです。
何故芭蕉はその言葉を用いたのか、その言葉に吊られ、奥の細道を大学時代に歩いたという教え子達が随分と出ました。
灘校(の教育方法)でも何故、先生はそういう風にしようとしたのかを掘り下げて頂ければ、今は亡き大森先生の意思も伝わるのではないか、と思うのです。
因みにワシは技術者でしたが、国語についての興味は未だに衰えていません。
それも大森先生の教育の影響と思います。>
灘校の事例とは、中学3年間かけて『銀の匙』という小説1冊を読み上げるという“伝説の国語教師”橋本武氏の授業のことです。
そこでは、凧揚げのシーンが出てくれば、クラスの皆で凧を作って揚げます。
百人一首の場面では、グループに分けてカルタ取りに興じます。
駄菓子屋が登場すると、橋本先生が明治時代の駄菓子を捜し出してきて、皆で味わいます。
そんな横道にばかりそれていくので、薄い文庫本一冊を読み切るのに3年掛かるのです。
松尾芭蕉の俳句一句だけを一時間かけて説明するという授業も、同じ考えだと思います。
こういう風変わりな国語教育が、いかに生徒を熱中させるか、橋本先生はこんなデータを示しています。
<この年、新入生たちにアンケートをとったんですよ。
「国語が好きですか」という質問に、入学直後に「好き」と答えたのは全体の5パーセント程度でしたが、1年後の同じ質問では95パーセントの生徒が国語が好きと答えてくれたんです。
成績があがるかどうかより、まず国語好きになってほしいと始めた授業でしたから、「間違っていなかった」と、とりあえず安堵しましたねえ。>
国語で伸ばす“学ぶ力の背骨”
なぜ、こういう風変わりな教育が効果を上げるのか、橋本先生の言葉を引用します。
中学1年生で、『銀の匙』を読み始めて1ヶ月ほど経った頃、級長が
「先生!」
と挙手しながら立ち上がりました。
「先生、このペースだと200ページ終わらないんじゃないですか。」
確かに1ヶ月掛けて、まだ文庫本2ページしか進んでいません。
橋本先生はこう答えました。
<スピードが大事なんじゃない。
たとえば、急いで読み進めていったとして、君たちに何が残ると思いますか?
なんにも残らない。
・・・
すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなります。
そういうことを私は教えようとは思っていません。
なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、
どんどん自分で掘り下げて欲しい。
私の授業では、君たちがそのヒントを見つけてくれれば良い。
そうやって自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります。
そのことは、いつか分かりますから…>
ここで橋本先生が言っているのは、既成の知識を頭に詰め込むのではありません。
自分で疑問を見つけ、自分でそれを掘り下げようとする主体的な“学ぶ力”だと。
例えば、凧揚げだったら、凧はなぜ揚がるのか?
凧がくるくる回ってしまわないようにするためには、どんな形にすれば良いのか?
面積を大きくすれば、どんな重い凧でも揚がるのか?
凧揚げ一つでも色々な疑問が湧いてきます。
自分で疑問を見つけ、自分でそれを掘り下げて答えを考える。
そういう練習を橋本先生は、国語の時間でさせているのです。
<国語力があるのとないのとでは、他の教科の理解力が大きく違ってきますからねえ。
数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの真髄に近づいていこうとする、前に進もうとする力こそが“学ぶ力の背骨”であり国語力だと思います。>
こう考えると、今の学校教育は知識を教え込んでいるだけで、“学ぶ力の背骨”を伸ばしているとはとても言えないことに気が付きます。
そうして、自分の心で感じ、自分の頭で考える生徒たちが、明日の日本を築いていけるのです。
最後までお読み頂きまして有り難うございます。
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