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2023.4.15 【全文無料(投げ銭記事)】“モンスター国家”中国を創った日本の大罪

「中国共産党が言っていることを信じているレベルでは、日本人は将来、とてつもない不幸を背負うことになる」
ということは、昨今の日本に対する中国共産党の姿勢を見れば、多くの方が理解されているとは思いますが、今回は、昨年で50年を迎えた日中国交正常化を基に、隣国に凶悪国を創り出した日本の大罪を書き綴っていこうと思います。


モンスター国家を育ててしまった日中友好50年

2022年9月29日は、『日中国交正常化50周年』の記念日でした。

50年前、1972(昭和47)年のこの日、田中角栄と周恩来の両国首相が日中共同声明に署名しました。

ちょうど半世紀の区切りの年で、一応は記念式典も開かれましたが、国民の間では白けムードが支配的でした。

なにしろ、NHKの日中共同の世論調査では、日本で「中国に良くない印象またはどちらかといえば良くない印象」を持つ人が90.9%、中国側でも66.1%の人が、日本に対して同様の印象を持っています。

この数字だけ見ても、『日中友好50年』の歴史は大失敗だったことが分かります。

国民感情だけではありません。
尖閣海域での傍若無人な領海侵犯、台湾に対する武力威嚇、チベットやウイグルでの人権弾圧、世界の発展途上国を債務の罠に陥れている一帯一路等々、中国は今や世界の平和と安定を脅かすモンスター国家に育ってしまいました。

この『日中友好50年』の間に、3兆7000億円近くのODA(政府開発援助)を貢ぎ、また日本企業の対中投資残高は、2020年時点で約19兆円にも上っています。

我が国の政府と企業は身を削ってモンスター国家を育て、国際社会に大きな危険と損失を与えてしまいました。

昨年9月のベストセラーである門田隆将氏の著書『日中友好侵略史』では、<おわりに>の中で、
<国交正常化五十年を機に、その歴史を日本は振り返り、これを教訓とし、二度と同じ失敗をしてはならない>
と述べています。

ここからは、門田氏の同書を頼りに、失敗の原因の一端を見ていきたいと思います。

国交正常化をできるのは、田中だ

かつて自民党内で“元帥”と畏怖されていた木村武雄という衆議院議員がいました。

木村武雄

木村は佐藤栄作首相にも直言できる大物議員でした。

中国共産党中央委員で対日工作の責任者だった廖承志りょうしょうしは早くから木村武雄と接触し、二人は何度も会って日中国交回復について議論を交わしていました。

やがて田中角栄が頭角を現すと、木村は田中を首相にして日中国交正常化を進めようとします。

木村の秘書を務めていた息子の木村完爾は、当時をこう回想しています。

<国交正常化をできるのは、田中だ、日中国交正常化を武器にすれば政権がとれる、それをしなければならない、と田中さんを説得していました。
ライバル福田(赳夫)さんは台湾派のほうに連なっていますからね。
私には“俺が田中政権をつくる”とよく話していましたよ。>

木村の後押しを得て、田中軍団は『中国』を前面に押し出して、自民党総裁選に突き進みました。

「いま中国に舵を切らなければ、欧米に遅れをとってしまう」
「かつての大戦で迷惑をかけた日本だからこそ、中国に目を向けなければならない」…。

田中は『日中国交』を旗印にして、福田を破って政権を取りました。
しかし、それによって田中政権は『日中国交』で、失敗も後戻りも許されない状況に自らを追い込んでしまったのです。

なにか仕組まれているような気がした

田中政権の誕生が1972(昭和47)年7月6日、そして9月29日には北京を訪問し、共同声明で日中国交正常化が発表されました。

一方、アメリカは電撃的なニクソン訪中を田中訪中の7ヶ月前に果たしたものの、正式な国交樹立は7年後の1979年でした。

米国の7年に対し、田中政権は3ヶ月。
国際的な外交常識から言っても、異常な“拙速”でした。

北京の迎賓館に到着した田中角栄首相と大平正芳外相の一行十数人を、周恩来首相が出迎えて、一人ひとりと握手していきました。
大平の秘書官だった森田一は、その時の驚きをこう語っています。

森田一

<中国側は秘書官の名前も全部、わかっていたんですよ。
だって、周恩来さんは、僕に“森田さん”と言ったんです。
事前に勉強しているんですよ。
一人一人について全部わかっているような感じでしたね。
途中で、この交渉を通じて、なにか仕組まれているような気がしたのは事実ですね。>

後に、門田氏は森田氏にこう聞いています。

<「中ソ対立が極限まで達し、北京や上海では、当時、ソ連の核攻撃に備えて避難訓練もおこなわれていました。また、文化大革命による破壊で、あらゆるものが機能不全になり、中国全土が“荒野”と化していたことはご存じでしたか」
森田の答えは、こうである。
「いま分析すると、中ソ対決の情報が欠けていたと思いますね。それに文化大革命で中国が荒廃しつくしていることも知りませんでした。橋本中国課長がそういう情報を取っていなかったか、上げていなかったかということでしょう。>

ソ連との対立、文化大革命による荒廃と日本を味方につけ、日本の力での経済再建を切実に必要としてのは中国でした。

一方、日本は、
「欧米に遅れるな」
という程度の動機しかありませんでした。
これほど拙速に動く必要はなかったのです。

この立ち位置を全く生かせなかったのは、外務省の橋本中国課長が中国側の状況の
<情報を取っていなかったか、上げていなかったか>
でした。

取っていなかったとしたら信じられないほどの無能の極み、上げていなかったとしたら日本の国益よりも中国の国益を優先する“背信”です。

賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ

訪中前に田中が心配していたのは、戦争の賠償問題でした。
とてつもない金額を要求されたら、日中国交正常化への国民の期待も一挙に失われ、それを旗印にしていた田中政権が吹き飛ぶことは間違いありませんでした。

その状況を把握していた周恩来は、公明党の竹入義勝委員長を北京に招待しました。

公明党と創価学会は中国がかねてから重点目標として、池田大作名誉会長には120以上の名誉教授などの称号を贈り続け、また竹入委員長も周恩来首相自ら日中国交の希望を伝えていた人物でした。

周恩来は竹入と会って直接、賠償問題を持ち出しました。
「毛主席は賠償請求権を放棄すると言っています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかかります。そのことは中国人民が身をもって知っています」
と言って、日清戦争後に日本に払った賠償の重さを語りました。

後に竹入はこう書いています。

<私は五百億ドル(注=十五兆円以上)は払わなければと思っていたので、全く予想もしない回答に頭がクラクラした。
周首相は「田中さんに恥をかかせませんから、安心して中国に来てください」と自信たっぷりにいった。>

竹入の帰国後、田中はこの報告を受けて訪中を最終的に決断したのです。

この点について、元拓殖大学の佐藤慎一郎特任教授は門田氏にこう語っています。

<賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ。
これで際限なく日本から資金を引き出せるわけだからね。
一度で終わらせるのではなく、延々とつづけさせる。
実際、日本が中国に対して出すお金には、かぎりがないでしょ。
こういう彼らのやり方を知らないまま田中と大平は中国に乗り込んだ。
日本にとって、この交渉は本当に悔やまれる。>

尚、佐藤教授は、辛亥革命で孫文を助けた山田良政、純三郎兄弟の甥で、満洲や支那大陸に深く潜行して晩年の純三郎を助け、戦後も内閣調査室で中国情報の分析を行って、その時々の総理大臣に中国情勢の解説を行った人物です。

中国で千数百万人、二千億ドルの損失を与えながら“ご迷惑”とは何事か

田中総理一行が北京につき、最初の会談が行われた後、約600人が参加して周恩来首相主催の歓迎夕食会が開かれました。
周恩来の歓迎挨拶の後、田中総理の挨拶が始まりました。

この時、大きな問題が起こりました。
田中が、
「我が国が中国国民に、多大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」
との言葉が、中国語に翻訳された時のことです。

それまで“角栄”節の一区切り毎に翻訳されて満場の拍手が響き渡っていたのに、この時は急に場内が異様な沈黙に包まれました。
その後の会場は明らかに盛り上がりが失われました。

周恩来はその時は黙っていましたが、宴会が終わり、田中と握手して別れる時に、
「田中さん、“ご迷惑をかけました”という日本語は軽すぎます」
と抗議をしました。

翌日2日目の日中外相会談では、中国側はこの問題を蒸し返しました。

<日本軍国主義は、中国で千数百万人、二千億ドルの損失を与えながら“ご迷惑”とは何事か。言葉が軽すぎるし、誠意がない。これは受け入れるわけにはいかない。>

日本側は、
「あれはきちんとした謝罪だった」
としか言えませんでした。

この部分の、中国語の翻訳は
「添了麻煩」
で、誤って女性のスカートに水をこぼしてしまい、
「あっ、すいません」
という程度の謝罪だといいます。
この言葉で満場の中国人が黙り込んでしまったとは、明らかな誤訳です。

スピーチの翻訳は橋本中国課長に任されており、彼は戦前にハルピンに生まれた、外務省でも一番、優秀な翻訳官に任せていたそうです。

そんな翻訳官が、満場の中国人が皆不快に思うような明かな誤訳をするなどと言うことがあるでしょうか? 

そんな初歩的な誤訳に、中国課長が気がつかないというのも異様です。

それも、最も日中間の機微に触れる謝罪問題で。

門田氏は、
「中国側にとっては、『添了麻煩』問題は『しめた』というものだったろう」
と述べて、あくまで不作為のミスと捉えているようですが、ここにも森田一秘書官の言った、“なにか仕組まれているような気がする”のです。

二回目の首脳会談でも、周はこの問題を厳しく追及してきました。

ここで攻勢に出た中国側は、台湾問題でも日本側を押しまくります。
最終的には、台湾との外交関係は解消されること、『二つの中国』の立場はとらないことなど、橋本中国課長が書いた文書を大平外相が読み上げて、なんとか共同声明にこぎ着けました。

大平は、最後には、
「これらのことについて中国側のご理解を得たい」
と、悪さをして叱られた生徒が先生に謝るような口ぶりになってしまいました。

日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた

こうして、本来なら日中国交正常化を急ぐ必要もない日本側が、いつの間にか“中国側のご理解”を頂いて、その後の膨大な援助を“させて頂く”という形になってしまいました。

こうした『史上最悪の外交的敗北』をもたらした責任が、日中国交回復を政権奪取の旗印とした田中角栄の私心だけでなく、橋本中国課長を代表とする外務省の無能または背信にあったことは明らかです。

この橋本課長は、1989年の天安門事件の際には中国大使に出世しています。

自国の多くの学生青年たちを戦車で轢殺れきさつする残虐さに欧米諸国が一致して対中非難で結束していた中で、橋本大使とあの慰安婦に関する河野談話で、悪名高き河野洋平官房長官が対中制裁解除に奔走します。

そして天皇訪中まで実現して、対中制裁の輪を崩してしまいました。
当時の中国の外交部長(外相)銭其琛せんきしんは、回想録『外交十記』でこう書いています。

<日本は西側の対中制裁の連合戦線の最も弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずと最もよい突破口となった。
当時、われわれは日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた。
西側の対中制裁を打ち破るだけではなく、さらに多くの戦略的な配慮があった。
すなわち双方のハイレベル往来を通じて、日本の天皇の初めての訪中を実現させるよう促し、中日関係の発展を新たな段階に推し進めることだった。>

途轍もない不幸をもたらした日本外交の失敗

ここでも日本外交は中国外交に操られていたことが分かります。
天安門事件で、モンスター国家はその正体を世界に曝け出したのです。

欧米諸国と共に日本が対中制裁に加わっていれば、少なくとも率先してその輪を崩したりしなければ、モンスターの成長を止められたチャンスでした。

日本外交はそのチャンスも台無しにしてしまったのです。

「賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ」
と喝破した佐藤翁はこうも語っていたそうです。

<日本人は中国人のことを知らなさすぎる。
そしてもっと日本人が知らないのは、私たちが思っている中国人と中国共産党の人間がまるで違うことだ。
中国共産党が言っていることを信じているレベルでは、日本人は将来、とてつもない不幸を背負うことになる。>

外務省の本来の仕事は、この佐藤翁のように交渉相手をよく理解して、我が国の国益のための外交政策を考えることでしょう。

それを全くしていなかった外務省の無能または背信によって、『日中友好50年』が日本人だけでなく、世界にとっても“とてつもない不幸”をもたらしたのです。

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