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2023.8.16 【全文無料(投げ銭記事)】征韓論者「朝鮮にも礼を尽くすべき」

いま、少しずつ西郷隆盛を『日本帝国主義』の先導者のように見做す歴史観の是正が始まっています。

今回は、故・毛利敏彦名誉教授著の『明治六年政変』、松浦光修教授著の『南洲翁遺訓』を参考に書き綴っていこうと思います。


日本の三大悪人

韓国では、西郷隆盛は征韓論の主張者として、朝鮮征伐の豊臣秀吉、日韓併合の伊藤博文と並んで『日本の三大悪人』という憎悪の対象になっています。

我が国の通説でも、明治6(1873)年の征韓論は、日本が朝鮮半島への野心を露わにした『日本帝国主義』の第一歩とされています。

そう説く歴史教科書もあります。

しかし、西郷隆盛の遺した文章を読む限り、そんな“悪人”にはとても思えません。

『西郷南州遺訓』は、西郷の許で学んだ庄内藩士たちが、西郷から聞いた言葉をまとめたものです。

庄内藩は戊辰戦争で幕府側に付いて官軍と戦ったのですが、降伏後、西郷の指示による官軍側の礼節と寛大な処置に心打たれて、前藩主以下70余名もの藩士が西郷の許で学んだのです。

これだけでも心動かされる逸話ですが、更に西郷の話には以下のような深い一節があります。

西郷がある時、
「西洋は野蛮じゃ!」
と言ったというのです。

当時、西洋こそ文明国だと誰しも思っていたのに、どういう意味かと聞かれて、西郷はこう答えました。

ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?

けれど西洋は、そうではない。

時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。

これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?

松浦光修著『南洲翁遺訓』

こう語った僅か3年後に、朝鮮という“時代に遅れて、ものを知らない国”に軍隊を送れと西郷が主張したという説には矛盾があります。

西郷が変心したのか、或いはこの説自体が作り話なのかどちらかです。

西郷隆盛らが朝鮮へ軍事行動をおこすべきであるとする征韓論を主張

東京書籍の『詳解歴史総合』(以下、東書)では、こう書かれています。

清の冊封を受けていた朝鮮に対し、
日本は、外交文書に、日本の君主をあらわす語として「皇」の文字を用いようとした。

これを朝鮮は、日本側が上位に立つ形に日朝関係を変更しようとしたものと受け止め、文書の受け取りを拒否した。

これに対し、1873年、西郷隆盛らが朝鮮へ軍事行動をおこすべきであるとする征韓論を主張したが、政府内で否決され、西郷らは政府を離れた。

東京書籍『詳解歴史総合』

歴史学界では、この『征韓論』説に対して、西郷はあくまで自分が使節として朝鮮に赴くことを主張したという『遣韓論』説が支持を広げています。

それを反映した教科書が山川出版社の『歴史総合近代から現代へ』(以下、山川)で、こう記述しています。

日本を侮辱したとして朝鮮へ出兵する征韓論が活発となった。

留守政府は、西郷が使節として朝鮮に渡るというかたちで決着をはかろうとしたが、岩倉具視らが帰国するとこれが否定され、西郷・板垣退助・江藤新平らは下野し、多くの軍人たちも政府軍を去った【明治六年の政変。征韓論政変】。

山川出版社『歴史総合近代から現代へ』

まるで反対の記述となっています。

山川が説く、“西郷が主張したのは軍事行動ではなく使節派遣”とする『遣韓論』説は大阪市立大学の故・毛利敏彦名誉教授が唱えました。

歴史学界では、まだまだこの説を批判する向きもありますが、毛利教授の『明治六年の政変』では、緻密な資料批判を基に実証的に論じられています。

派兵は「決してよろしからず」

西郷は下野直前の10月15日の閣議に向けて、これまでの経過をまとめた始末書を太政大臣宛てに提出しました。

この公式の文書を、毛利教授が次のように読み解いています。

当初の閣議の原案では、居留民保護のために朝鮮に一大隊を急派せよとのことであったが、派兵は「決してよろしからず」、なぜならば「是よりして闘争に及」ぶならば「最初の御趣意」に反するからである。

そこで「公然と使節差し立てらるる」のが至当であろう。

“当初の閣議の原案”とは、以前の閣議で“一大隊急派”が提案されたことです。

その場を欠席していて、後でそれを知った西郷は、
「それでは戦争になるから、自分が単身使節として赴く」
と主張し、平和的な外交交渉を武力解決の前にすべきという“最初の御趣意”、当初の政府方針通りにしようと決定をひっくり返したのです。

西郷は更に、朝鮮側が日本との国交を“戦を以て拒絶”したとしても、先方の真意が確かに現れるところまでは交渉を尽くさなければならない、と悲痛な主張をします。

そこまでした上で、なお朝鮮側が“暴挙”に出る場合は、その罪を天下に訴えるべしといいます。

『西郷南州遺訓』には、

「正道を踏み国をもってたおるるの精神なくば、外国交際は全かるべからず」
(正しい道を進んで、その結果、国が倒れてもよいというほどの覚悟がなければ、外交は成し遂げることができない)

との言葉もあります。

正に、この言葉通りの“正道”を、西郷は対韓外交で主張していたのです。

板垣退助宛ての説得としての使節『暴殺論』

この“始末書”は、太政大臣宛てに提出された公式の意見表明でした。

こういう公式文書に、「軍隊派遣でなく、まずは使節派遣を」と述べているのですから、西郷を『征韓論者』とするのは公式資料に矛盾します。

毛利教授は、今までの歴史研究で“始末書”を取り上げてこなかった問題点をこう指摘します。

それにしても、過去百年間にわたって、西郷を征韓論者視してきた通説において、この「始末書」がまともに検討された形跡がないのは、不可解の極みであるといえよう。

この“始末書”を無視して、多くの歴史学者が西郷を征韓論者とする証拠としてきたのは、征韓論者であった板垣退助宛てに出した一通の私信です。

ここで西郷は、
「兵隊を先に出すのはいかがなものか」
と、自説を述べた後で、
「朝鮮側が使節を『暴殺』するのは必至なので、相手を討つ名分も立つ。自分が使節に立っても死ぬことくらいはできる」
と結んだのです。

西郷を征韓論者とする説は、
「自分が使節に立って殺されれば、名分が立つから、それから攻めたらどうか」
と、西郷が主張したと解するのです。

だから、結局は西郷は『征韓論者』だったと。

毛利教授は、この一節を強硬論者の板垣を使節派遣に説得するためのテクニックであると解します。

そして、西郷は実際に自分が行けば、朝鮮側を説得して日本との国交を開く事ができるとの自信があったのだと説きます。

たしかに西郷が説得に成功すれば、軍隊を送る口実は完全に失われます。

征韓論はこれで抑え込めます。

また、抑も本当に戦いを仕掛けたければ、使節派遣など余計な回り道をせず、直ぐに軍隊を送り込めばいい話です。

“始末書”という公的文書で、西郷の明らかな『遣韓論』が読み取れるのに、この私的な文書の僅か一節だけ取り出して、西郷を『征韓論者』と決めつけるには、どう見ても無理があります。

西郷の“平和的解決の可能性を模索”するやり方

毛利教授は、更に西郷の行動様式として、“表面では強硬態度を示しながらも平和的解決の可能性を模索し、かつ決定的時点で敵地にみずから乗り込んで話をつけたやり方”があり、今回もこの行動様式に出たのではないかと推量しています。

例えば、西郷は江戸城総攻撃の際に、官軍の実質的なリーダーでしたが、徳川方の嘆願を受け入れず、江戸を目前にした最後の最後に勝海舟との会見によって江戸無血開城に辿り着いています。

また、第一次長州征討でも、戊辰戦争における庄内藩の降伏でも同じ行動様式が見られます。

戦闘に至るかもしれない緊迫した中で、トップ同士が胸襟を開いて本音で話し合い、和平に辿り着く。

いかにも武人らしい真剣勝負なのです。

防備も持たずに始めから、
「平和、平和」
と口先だけで唱えている現代日本人は、直ぐに、『征韓論者』だと思い込んでしまうのかも知れませんが…。

西郷が朝鮮と交渉を急いだ理由

『征韓論』問題で、もう一つ理解しておくべきことは、この当時、なぜ“朝鮮へ出兵する征韓論が活発”になったのかということです。

ここで考えておくべきことは、ロシアの動きです。

文久元(1861)年、征韓論争の12年前に、ロシア軍艦ポサドニック号が難破して航行に耐えられないと、対馬尾崎浦に入港し、無断で上陸して兵舎、修理工場、練兵場の建設を始めました。

更に、制止する対馬藩の警備兵を射殺したり、近くの村を略奪したりしました。

事件はイギリスが幕府の了解を得て、軍艦2隻を対馬に派遣して威嚇し、これを見たロシア側が退去するという形で落着したのです。

1806年とその翌年にも、通商要求を断られて怒ったロシア艦船が樺太、択捉の日本側施設を襲撃した事件も記憶に残っていました。

また征韓論争の時点では、樺太の国境が明確でなく、日露両国民雑居の状態で、屡々しばしばトラブルが起きていました。

西郷は板垣に、兵を送るならロシア兵が“度々暴挙”している樺太の方が“朝鮮より先”ではないかという書簡を送っています。

西郷が旧庄内藩の藩士に、以下のことを語ったことが記録されています。

ロシアとの対決は必至であろうが、北海道を防衛するだけではロシァと対抗できないと思われるから、むしろ朝鮮問題を解決して日本が積極的に沿海州方面に進出し、「北地」を防衛するのが上策であり、さらに英露対立を念頭において日英提携してロシアにあたれば「魯国恐るに足らず」との世界戦略を示した。

松浦光修著『南洲翁遺訓』

まるで、日露戦争を予見していたようです。

日本は英国と日英同盟を結び、陸軍は朝鮮を経由して満州に進出し、ロシアと戦いました。

この戦略から見れば、朝鮮が早く目覚めて、近代的な同盟国になってくれれば最も望ましいのですが、最悪のケースは、朝鮮がロシアの支配下に入って、対馬の目と鼻の先で対峙しなければならないという事態でした。

しかし、日本との国交すら頑として開こうとしない朝鮮では、早晩、ロシアの餌食になるのが落ちでしょう。

西郷が自分を朝鮮に派遣してほしいと急いだ理由は、ここにあったようです。

今も続く朝鮮半島の地政学的問題

当時、朝鮮はロシアやその他列強の脅威など、どこ吹く風という態度でした。

江戸時代に朝鮮は、日本とは対馬藩経由の交易程度の近くて遠い関係を保っていました。

明治政府は、これを近代的な国交に刷新しようと、釜山に駐留していた対馬藩の役人を外務省派遣の係員に変更しました。

これに怒った朝鮮は、釜山で対馬藩に貸与していたの日本公館への生活物資の供給を止め、貿易活動そのものも停止させたのです。

更には、公館の前に掲示を出して、
「日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない。近頃の日本人の所為を見ると日本は『無法の国』」
などと訴えたのでした。

この事態に対して、閣議で検討された原案では、取り敢えず居留民保護のため“陸軍若干、軍艦幾隻”を派遣し、その武力を背景に“公道公理を以て、談判に及ぶべき”というものでした。

更に、最初に外交を求めて送った文書では、東書では、

清の冊封を受けていた朝鮮に対し、日本は、外交文書に、日本の君主をあらわす語として『皇』の文字を用いようとした

東京書籍『詳解歴史総合』

と、なにやら日本側が意図的に“皇”の字を使ったように書いていますが、抑も天皇の名で出される外交文書ですから、自国の呼称で“皇”の字を使うのは当たり前です。

そういえば、今でも朝鮮では“日王”と呼んでいますね。

中国皇帝以外が、“皇”の字を使うことは決して許さないという完璧な属国主義です。

しかも、日本政府は文書を書き改めたのに、それでも朝鮮政府は受け取らなかったのです。

このように頑なに清国への服属下で安逸を貪り、迫り来るロシアの脅威を見ようともしない朝鮮に対する日本の焦燥の下で議論されたのが征韓論争でした。

それでも、丸腰で礼を尽くして談判すべきという西郷の主張は、如何なる時も“正道”を踏み外さない高貴な武士道精神に溢れたものでした。

その後の歴史を見ると、日本は朝鮮を清国から独立させるために日清戦争を戦い、ロシアが朝鮮半島にまで迫ってくると日露戦争を戦わざるを得ませんでした。

朝鮮戦争ではアメリカが防波堤役を引き継いで、北朝鮮が引き入れた共産中国と戦いました。

現在でも、日本、韓国にアメリカ軍基地があるのもそのためです。

朝鮮の他力依存の民族性と、大陸国家が朝鮮半島経由で日本に迫ってくるという地政学的重要性の不幸な組み合わせは、極東和平の最大の問題です。

この問題は幕末から現在まで、ほぼ変わっていません。

そして、近年は中国の軍事的膨張で、日清戦争前の事態と瓜二つになりつつあります。

西郷が『征韓論者』であり『日本帝国主義』の提唱者であるとの歴史観は、
「日本が侵略の野心さえ起こさなければ平和は保てる」
との安易な思い込みに繋がります。

現代日本の危機を真剣に考えるためにも、同じ問題に悩み苦しんだ先人たちの歴史を精確に辿らなければならないのではないでしょうか。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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