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2022.8.26 『天皇』に秘められた聖徳太子の国際戦略

天皇はなぜ『天皇』というのでしょうか。

『天皇』という称号は、7世紀頃に使われ始めたとされます。

この称号について考える時、私たちは、当時の日本の巧みな国際戦略を伺い知ることができます。

『天皇』の称号が使われる以前、日本の君主は『オオキミ(又はオホキミ)』や『スメラミコト(又はスベラギ、スベロギ)』と呼ばれていました。

『オオキミ』は漢字で『大王』と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

一方、『スメラミコト』は格式ばった言い方で、『オオキミ』の神性を特別に表す呼び方でした。

謎めいて儀式的な響きのする『スメラミコト』が何を意味するのか、現在でもはっきりとしたことは分かっていませんが、幾つかの解釈があります。

その代表的なものが、“スメラ”は“べる”、つまり統治者を意味するという説です。

この他に、神聖さを表す“澄める”が転訛したとする説もあります。

“ミコト”の意味ははっきりしており、神聖な貴人を表します。

『スベラギ』や『スベロギ』は、“スメラ”と“キミ”の合成語ではないかと見る説があります。

では、『オオキミ(大王)』や『スメラミコト』が、『天皇』となったのはなぜか。

それは、608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝である煬帝に送った国書には、
<東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)>
と記されていました。

『日本書紀』にも、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、『天皇』の称号使用が確認される最初の例となっています。

遣隋使の小野妹子が遥々はるばる海を渡り、隋の都である大興城(現・西安)へ赴きました。

その時、携えていた有名な国書があります。

<日出處天子致書日沒處天子無恙云云
(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)>
の国書です。

この国書に対し、煬帝から返書があり、更に、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の『東天皇敬白西皇帝』の国書です。

日本が自らの君主を中国側が認めた“王”とせず、『天子』や『天皇』と明記して、国書を差し出したことには大きな意味があります。

当時、日本は中国から『倭』と呼ばれ、その君主の称号として『倭王』を授けられていました。

中国では、皇帝が最高の君臨者で、その下に複数の王たちがいました。

中国の王は、皇帝によって領土を与えられた地方の諸侯に過ぎません。

つまり、『倭王』は、中国皇帝に臣従する諸侯の一人という位置付けだったのです。

朝鮮半島諸国の王なども同様の扱いでした。

7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する“王”の称号を避け、『天皇』という新しい君主号を作り出しました。

皇国として、当時の中国に対し、互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。

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