見出し画像

2022.4.24 戦いを放棄したら命は救われる?㈠

ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、激しい攻防が続いています。

3月29日、ウクライナのゼレンスキー大統領は、北大西洋条約機構(NATO)加盟を断念する「中立化」の用意があると表明しました。

ただ、ロシアとの合意には第三国による保証が不可欠で、国民投票を行う必要もあると述べ、さらにゼレンスキー氏に代わる(親露)政権樹立を意味する「非ナチス化」や非軍事化については拒否する姿勢を崩していません。

プーチン氏は当初、圧倒的な軍事力を以て短期間で首都キエフを制圧し、ゼレンスキー政権を瓦解させ、同国の東部だけでなくウクライナを事実上ロシアの制御下に置くことを目論んだわけですが、今後停戦にウクライナ側からの条件が付けられるとすれば、それはウクライナがプーチン氏の目的を阻止し、主権国家として踏み止まったことを意味します。

ロシアの攻撃に対し、ウクライナ軍が抵抗を続けることで一般市民に犠牲が生じ、それが拡大にするにつれ、日本のマスメディアに発言の場を占める人々から、
「抵抗は無駄」
「ロシアと戦うより妥協を」
といったウクライナへの降伏勧告が唱えられています。

先月時点までの発言を拾ってみると、

「どこかでウクライナが退く以外に市民の死者が増えていくのは止められない」(3月4日放送 テレ朝系『モーニングショー』玉川徹)

「ウクライナ戦争が始まったとき、この日本ですら戦え!一色になった。それは戦闘員の視点。しかし国家の大部分は非戦闘員。戦争指導はとかく戦闘員の視点になりがちで今回の日本の風潮もそうだったが、戦争指導は非戦闘員の視点も超重要。それが戦う一択ではないという意味。日本でもそうなりつつある」(3月14日 Twitter 橋下徹)

「戦術核の利用もあり得るという前提で、もう政治的妥協の局面だと思います。」(3月21日放送 フジテレビ系『めざまし8』 橋下徹)

また、ウクライナはこの戦争に負けると断言した上で、
「勝ち目のない戦いを続けるとウクライナの市民はプーチンによって『無駄死』させられる」と主張したのがテリー伊藤です(3月14日放送 ニッポン放送「垣花正 あなたとハッピー」)。

さて、私たちがまず認識しておくべきことは、ロシアのウクライナ侵略は、明白な国際法違反だということです。

「ウクライナは元々旧ソ連の版図であり、緩衝地帯である。したがってNATOに接近したウクライナに問題がある」
といったロシア側の危機意識を汲むべきだという意見も見られますが、主権国家であるウクライナには独自の外交政策をとる自由が認められるべきで、そのためにウクライナはロシアに“抵抗”し、“戦う”ことを選択したのです。

橋下徹やテリー伊藤らは、
「市民の命が何より大事」
だと考えて発言したのでしょう。

しかし、ウクライナが国家としての抵抗を止めたとして、その後“市民の命”をロシアがどの程度保証するかは分かりません。

逆に、敗者は蹂躙しても構わないとなるかも知れません。

戦後日本の少なからざる人々は、未だに戦うことそのものを悪の領域に入れ、無抵抗、非武装に徹すれば、どこからも侵されることはないと信じ込んでいます。

日本国憲法前文に掲げられた
<平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>
結果の思考停止です。

橋下徹は、3月17日のTwitterで、
「多くの者が勘違いしたのは、安全保障の枠組みがなかった時代の旧ソ連の蛮行などを引っ張り出して、ウクライナは戦うしかない!!の一択。今は安全保障の枠組みがある。それを最大限に活用するのが政治の知恵。再度のロシアの侵攻を止めるにも結局ヨーロッパの安全保障の枠組みが必要。戦う一択ではない〉
とも述べていますが、
「安全保障の枠組みがなかった時代の旧ソ連の蛮行」
とは何を指しているのか?

日本にとっての“旧ソ連の蛮行”は、大東亜戦争末期、有効だった日ソ中立条約を破って侵攻してきたこと、ポツダム宣言受諾後も戦闘を停止せず、軍人のみならず一般市民を殺傷し続けたこと、シベリアに多くの日本人を連行し、過酷な環境下で死に至らしめたこと等などがあります。

橋下徹の発言は法律家とは思えないもので、中立条約は安全保障の枠組みの中には入らないのか。

さらに指摘しなければならないのは、
「ウクライナは戦うしかない!!の一択」
とは誰が言っているのか?

「この日本ですら戦え!一色」
とは、本当に日本はそんな状態になっているか。

ウクライナは国家として戦う決意をし、日本政府はそれを支援することにした。
日本国民の多くがそれを支持しているけれども、橋下徹が括ってみせたような激越な“一択”も、単純な“一色”もない。

ジョージア国出身の慶応義塾大学SFC研究所上席所員ダヴィド・ゴギナシュヴィリ氏が、2022年3月31日号の『週刊新潮』でこう語っています。

<ジョージアは2008年、領土の一部の南オセチア自治州をロシアに侵略されました。
「ウクライナがロシアよりも先に手を挙げて、はい、戦争止めますと言ったって、それで平和が得られるわけではないと思います」
理由は明白だ。
「南オセチアで何が起きたか見てください。我々は国際社会の仲介で、 ロシアと停戦合意をしました。合意案には、ロシア軍の撤退が明記されていたのに、あの国は約束を破り、そのまま居座ってしまったのです」
結果は案の定だった。
「南オセチアは非常に悲惨な状況に置かれています。統治が行き届いておらず、街のいたるところで麻薬が売買され、誘拐も頻発している。毎日のように人権が蹂躙されているのです。平和とはほど遠い状況です」>

戦いを放棄しさえすれば犠牲は極小化されるのか——。
ここで本質的なことを考えるならば、『秘録東京裁判』の中で、東京裁判で弁護団副団長を務めた清瀬一郎がこう語ったのを思い出します。

<トルーマンにしろ、スチムソンにしろ、ないしはグルーにしろ、当時は戦争末期であって、日本を憎む気持はいっぱいであったにちがいない。したがって天皇ご一家に同情してこの行為(ポツダム宣言が日本の国体護持を認めたこと)に出たものではなく、日本人の性格、ことに南方戦線または沖縄戦線において日本軍の抵抗がいかにも強烈で、日本本土作戦を実行すれば、どんなことが起こるかもわからぬとの心配から、国内の世論を心配しつつ、徹底的な無条件降伏、天皇排斥をなすことを得なかったのである。 そう考えてみると、今次戦争における戦没英霊は、わが国家の全滅を救い、不満足ではあるがポツダム宣言による条件降伏と、天皇制護持の結果を得せしめてくれたものと考えてしかるべきものであろう。真に、二百万英霊に感謝する。>

個人的に、この清瀬の指摘は正しいと思います。
戦場にたおれた同胞は決して無駄死、犬死ではありません。
戦後の日本の価値観がそれを認めなくとも、世界的に見た場合には、いざという時には何らかの形で祖国防衛に尽力するという考えは常識です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?