見出し画像

2021.9.29 庶民に愛された古代の天皇

早速ですが、皆さんは上の人物が誰であるか、ご存知でしょうか?

見慣れない人物かもしれませんが、実は戦前までは、小学生でも知っていたほど有名な『天皇』です。

この天皇に関するお話は、戦前教科書では必ず教えられ、『歴史の偉人』の代表格とも言える存在でした。

その偉業を称えるように、大阪には、この天皇が祀られる世界一巨大な古墳が存在しています。

ヒントは、下の写真です。

はい、もうお分かりになりましたよね。

そうです。

この人物は、第16代天皇の仁徳にんとく天皇です。

この仁徳天皇をお祀りされている「高津宮こうづぐう」という神社があります。

最近はご近所の方でも、仁徳天皇をお祀りする由緒ある神社だとは知らない方もいるようで…。

そこで、今回は、

・なぜ、仁徳天皇は国民の誰もが知るほど有名だったのか?

・なぜ、巨大な古墳が造られるほど、大きな影響力を持っていたのか?

仁徳天皇の足跡と共に、その知られざる理由を歴史的な名所である高津宮を通して紹介していきたいと思います。


『高津宮』は大阪市中央区の住居が立ち並ぶ場所にあります。

ご覧の通り、高津宮の鳥居はマンションの中に佇んでいます。

鳥居を潜り、参道に入ると一気に雰囲気が変わります。

参道から階段を登ると本殿が見えてきます。

高津宮の起源は古く、866年の平安時代初期に、清和天皇が社殿を創建したのが始まりとされています。

『高津宮』という名は、仁徳天皇が定められた都の名前『難波高津宮なにわたかつのみや」からきています。

仁徳天皇は丁度、今の大阪市に新たに『都』を築きました。

つまり、日本の大都市、大阪の繁栄の基盤を築き上げた初代リーダーは仁徳天皇だったのです。

その偉業を称えてか、昔からこの神社は地元大阪の住民の信仰が厚く、お祭りや年中行事を通して仁徳天皇を崇拝してきました。

神社本殿の前には、高津宮の昔の様子が分かる写真や絵が残されていて、昔からここを中心に街が賑わっていたことが伺えます。

そして、この神社の境内の中でも、最も注目したいポイントが下の建物です。

パッと見、休憩所?催し物をする場所?
と、一見よく分からない建物ですが、実は、ここにこそ、仁徳天皇の逸話が“記憶”として残されている場所なのです。

その逸話とは『民のかまど』と呼ばれる有名なお話です。

皆さんはご存知でしょうか?

<民のかまど>

仁徳天皇はいつも宮の高台に立ち、そこから国全体を見渡されるのを日課とされていました。

ある時期、民家のかまどから煙が立っていないことに気付かれました。

「国民は貧しい生活を強いられて炊くものがないのかもしれぬ…」

「都がこうだから、地方はなおひどいことであろう…」

そう天皇は心配され、なんと三年間、税金をゼロにされたのです。

その結果、税収は尽き果て、自分自身が住まわれる宮殿は傷み放題…。

屋根が破れて、星の光が破れた隙間から見えるという有様に…。

衣服の新調も我慢し、ボロボロになるまで使われたそうです…。

しかし、三年後、再び高台から国を見渡すと…、

今度は竈の煙が一面に立ち込めていたのです。

仁徳天皇は大変喜ばれ、
「朕すでに富めり」
と、仰せになりました。

そして、景気が回復した後、多くの国民が天皇に感謝の気持ちとして、誰の指図も受けることなく、自発的に宮殿を修理し、衣服をこしらえ、仁徳天皇にプレゼントしたそうです。

これが『民のかまど』の逸話です。

税金をなくして国民を豊かにする…。
現代の私たちにも突き刺さるお話です…。

この逸話はとても有名で、戦前までの歴史の授業では必ず教えられていました。

そして、この逸話を記憶として残している場所が、『絵馬殿』という建物です。

この建物は、仁徳天皇が国を一望したとされるその“高台”をイメージして造られました。

しかし、仁徳天皇が実際にいた場所ではありません。

神職さんによると、現在の大阪城付近が仁徳天皇の宮があった有力地だそうです。

今は高いビルやマンションが見えるだけですが、昭和30年頃まではここから大阪の市中を一望でき、良く晴れた日には大阪湾や六甲の山並を見ることができたそうです。

昔は多くの日本人がここを訪れ、
「仁徳天皇が“民のかまど”を見た場所」
として歴史を感じていたのでしょう。

神社には、このような形で歴史の記憶が残されているのです…。

学者や教科書というのは、ある時代を境に主張が180度変わってしまうことがあります。

「この人は凄かった」
「あの人は凄かった」
と言われた日本人は、戦後以降は、悉く歴史から姿を消しました。

ところが、神社だけはそうではありません。

神社における人物への評価、歴史に対する評価は変わることなく今に伝わっています。

重要なのは、歴史上の尺度が一貫して変わらないということです。

仁徳天皇は、まさにこれに該当します。

実際、戦後の歴史学会では、そもそも仁徳天皇が実在したのか疑わしいという論調が主流となり、歴史教科書では仁徳天皇陵は大仙古墳と名を変え、『民のかまど』の逸話については一言も書かれなくなってしまいました。

私自身、学校では古墳は仁徳天皇陵と習いましたが、『民のかまど』については記憶がありません…。

しかし、神社の中には仁徳天皇の逸話が記憶として、はっきりと残されています。

高津宮だけでなく櫻宮や富岡八幡宮、御狩野神社といった他の神社でも、仁徳天皇が主神として大事に祀られてきたのです。

つまり、本当に偉大なことをして人々から崇敬されていた人物は、たとえ時代の変化で教わらなくなったとしても、神社には記憶として残り続ける…。

事実、この『高津宮』は、第二次世界大戦で消失してしまいましたが、戦後、仁徳天皇を慕う人々の奉賛により再建されました。

神社を見れば、日本国民が一貫して崇敬してきた人物を知ることができます。

そして、建国以来2600年以上も日本の歴史を繋いでくれている『神社』を現代の日本人は、しっかりと守っていかなければいけないと強く感じます。

普段は何気なく通り過ぎたり、ただ参拝するだけになる神社も由緒や神社の境内を細かく調べてみると、学校では教わらない日本の歴史、その地域に伝わる知られざる歴史が浮かび上がることがあります。

ぜひ皆さんも、近所の神社について詳しく調べてみては如何でしょうか。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?