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2022.3.28 国宝金印はニセモノ?

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皆さんは、この金印をご存知でしょうか?
弥生時代初期に日本の王が中国の皇帝から受け取ったとされ、日本の国宝として指定されている印です。

これによって弥生時代の日本は中国の属国として、絶えず貢物を送っていたことが歴史の常識となりました。

学校の教科書でも必ず紹介されるので、皆さんもこの『金印』について習った記憶があるはずです…。

ところが…、実はこの金印には、歴史学者らが全く語ろうとしない“捏造疑惑”があることを皆さんはご存知でしょうか?

時は江戸時代の1784年。
福岡県の志賀島しかのしまという小さな島で、この一級史料は見つかりました。

農民の甚兵衛という人物が田んぼの農作業中に、偶然石の隙間から光る金印を掘り出したのです。

「これはただモノではない…」
そう思った甚兵衛は、これを福岡藩に提出…。

藩の学者だった亀井南冥なんめいという人物が、すぐさま鑑定に取り掛かりました。

亀井が注目したのは中国の後漢書と呼ばれる書物。
西暦57年。
中国の皇帝・光武帝が朝貢に来た倭の奴国の使者に印を与えたとあります。

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亀井は、これこそ金印のことであると断定しました…。
しかし、この金印は、本当に中国の皇帝が日本の王に与えたものなのでしょうか?

実は、この金印の発見については、あまりにもおかしな点が数多く確認されています。
今回の記事は、その謎を一つずつ解き明かしていこうと思います。

不可解な事実① なぜ金印が不自然なくらい綺麗なのか?

第一発見者である甚兵衛の記録によると、金印は田んぼの水が流れる部分で見つかったといいます…。
つまり、金印はずっと水に晒され続けていたことになります。

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ですが現在、福岡市博物館に常設展示されている実物の金印『漢委奴国王印かんのわのなのこくおういん』を見る限り、ほとんど傷の無い綺麗な状態で遺されています。

もし、この金印が中国の皇帝からもらった本物だとすれば、1700年もの間、圧力を加えられたり、石にぶつかったり、擦られたりしたことがなかったということになります…。
果たして、そんなことが起き得るのでしょうか。

金印の傷み具合から見ても、どこかの谷川を経由して転がってきたとは到底考えられません…。

となると、千数百年もの間、少ないとはいえ流れ続ける水に晒される場所にあり、移動していないということになります。

ですが、その間には大雨や台風が何百回もあったでしょう。

山から流れてくる水の勢いは、台風や大雨の時には相当に強かったと想像されます。

それでも流されることなく、ずっと一箇所に留まり続け、結果的に摩耗の跡がほとんど無い状態で見つかりました…。

果たしてこれは、単に偶然の出来事が重なっただけなのでしょうか?

不可解な事実② なぜ志賀島には金印以外の出土品が一切ないのか?

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不可解なのは、それだけではありません。
志賀島には、金印以外の当時代を推定できる出土品が一切ないのです。

本来、遺跡というものは土器や石器など、幾つかの出土品が連なって出土するのが普通です。

しかし、この志賀島には、なぜか金印しか出土していません…。

さらには、奴国と呼ばれる王権の本拠地がここにあり、王が住んでいたというような痕跡すらも見つかっていません。

もし、そのような王権があったとすれば、それは福岡市の何処かか、あるいは佐賀県の吉野ヶ里遺跡の辺りか。

いずれにしても、九州本土に拠点を置くのが自然ではないでしょうか?

そもそも、周囲11km程度で、原生林が島全体を覆い尽くす傾斜地ばかりの志賀島に、弥生時代に栄えた王権の中心が置かれること自体不可解です…。

つまり、確実なことも状況証拠もないことになります。
ただ金印だけが残っているだけです。

この不可解な謎は、どう考えれば良いのでしょうか。
本当にこんな場所に、かつて日本の王権が存在していたのでしょうか?

不可解な事実③ 彫り方が弥生時代の技術ではない?

そして、極め付けは、この金印に彫られた文字です。

実は、最新の考古学の研究によれば、この金印が彫られた“痕”を緻密に調べていくことで、作られた『年代』が分かるといいます。

それは、人間が歩いた足跡と同じ。
つまり、彫った痕を捉えることによって、過去の人間がどのようなことをしたのかが分かるのです。

下の図の紫部分を見て下さい。
真ん中が細く、端に向かってどんどんと太くなっているのがお分かりでしょうか。
これは、肥痩表現と呼ばれる技法です。

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実は、この技法は西暦57年に使われていた技術ではありません。
中国では明・清時代以降、日本では江戸時代以降の印章に見られる技法なのです。

一体なぜ、古代に作られたはずの金印に18世紀後半の技術の形跡が見られるのでしょうか?

この謎多き国宝の金印…、これは本当に古代中国から与えられたものだったのでしょうか…?

金印は偽造だったのか?

もし、今まで歴史教科書で教えられてきたように、
「古代日本は中国に朝貢していた」
「金印を授かったことで中国皇帝に認められた」

そのような通説を信じていたら、これらの金印にまつわる謎の答えは見つかりません。

しかし、中国の歴史書に書かれていることや、それに都合良く紐付けられた『出土品』などを鵜呑みにせず、一つひとつ史料の信憑性を分析していけば、これまでのイメージとは全く異なる古代日本の真実が浮かび上がります。

日本の大半の歴史家は、中国の歴史書を基に古代史を読み解こうとします。
しかし、そもそも中国の歴史書には捏造が多いこと。
それだけでなく、考古学的な出土物すらも捏造される可能性に気付いていないのです。
だから、この志賀島の金印も発見されるとすぐに飛びつき、その信憑性を論じることさえありませんでした。
この金印は明らかに捏造されたものだと言えます。

そして、実はこの時代も含め、絶えず日本の古代史は中国によって捏造されてきました。

例えば、魏志倭人伝が記す邪馬台国と卑弥呼について。

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魏志倭人伝には、邪馬台国の人々の暮らし方や風習について記されていますが、日本各地に残る遺跡や出土品から当時の様子を読み取っても、記述に合致するような地域は未だどこにも存在していません…。

さらには、魏の皇帝が卑弥呼に送ったとされる品が日本で出土しましたが、これを分析すると、当時の中国のモノとは全く関係ない日本で作られたモノだと判明するなど、これらのことから魏志倭人伝の記述は辻褄が合わない部分が多く、その多くが捏造に近いものばかりのようです…。

さらに古墳時代の倭の五王について

倭の五王について記された『宋書』倭国伝と呼ばれる書物。

ここには、倭の五王が絶えず中国の南宋に朝貢し、皇帝から位を貰ったと記されています。

しかし、古墳時代の日本が中国と交易していたような痕跡は一切見つかっていません。

もし日本が朝貢していたなら、何かしらの中国との関係を示す出土物が見つかっても良いはずですが、一体なぜなのでしょうか?

むしろこの時代は、世界一巨大な墓である前方後円墳が築かれ、朝鮮半島に果敢に攻め込むなど、ヤマト王権が栄華を極めており、私たちがイメージするよりも遥かに強大な軍事力を日本は持っていたのではないかと考えられています。

このように、日本に残された遺跡物と比較しながら中国の歴史書を読み解くと、明らかに辻褄が合わない矛盾した点が見えてくるのです。

私も学校の教科書が正しいと思っていた時期がありましたが、今は中国の歴史書を鵜呑みにはしません。
まず事実を見るようにしています。
つまり、中国の歴史書に対応する物、出土物や何かしらの痕跡が発見されているのかを知ることにしています。

そうすると、今まで教科書で習ったような歴史を裏付けるような証拠は出てきていないことが分かったのです。

そのような文献以外のものを丹念に調べていくと、古代日本が絶えず中国に朝貢していたという通説自体、虚構の歴史だということにも気付いたのです。

一方で、日本書紀を、読み解くと従来のイメージとは大きく異なる強大な国力を誇った古代日本の姿が見えてきます。

例えば、当時、中国から2000人規模の使節団が日本に派遣されていた事実が記されています。

これは、古代日本の高度な文化を学びに来ていた『遣日使』の存在を表しています。

また、巨大古墳の存在も重要な手掛かりです。
なぜ古墳は中国には一切存在していないのか?

これも中国の文化を日本が吸収していなかった証拠です。

これら古代日中の外交史を紐解くことで、古代日本が決して中国の属国などではなく、むしろ太古の昔から自立していた国を造り上げていたという、先人たちの歴史が浮かび上がってくるのです。

しかし、私たちはこのような歴史を知らされてはいません。
一体なぜか…?

それは、多くの歴史学者が、日本の正史である古事記や日本書紀を信用できないという理由で無視し、中国の歴史書から日本古代史を紐解こうとするためです。
ですが、このような歴史の見方は非常に危険です。

なぜなら、中国の歴史書は、当時の支配者の考え方が反映された主観的なものや明らかに記述が日本と合わない箇所が非常に多くみられるからです。

例えば、魏志倭人伝を見てみると、
<卑弥呼が鏡と金印を魏の皇帝からもらった>
<卑弥呼が魏から倭の王に任命された>
ことが書かれていますが、卑弥呼が受け取ったとされる鏡や金印はおろか、卑弥呼の実在性を示す遺跡や遺物すら見つかっていません。

上述した通り、中国の歴史書はそもそも信じるに値せず、捏造されたものが非常に多いのです。
今も大昔も、中国には捏造する文化が絶えず存在することを忘れてはいけません。

しかし、今の学会では中国のどの歴史書を読んだかが重要視され、そこに書かれていることが果たして正しいのかどうなのかを検証することなく、それを史実として扱っています。

このままでは、いつまでも教科書の内容はアップデートされず、
「日本は中国に朝貢していた」
ということは歴史の前提となり、まるで常に古代日本は中国の属国であったかのような歴史観が、ずっと通説のまま変わることはないでしょう。

さらには、学校で中国有りきの日本古代史を学び続けることで、
「昔の日本は中国の属国であり、何もかも遅れたちっぽけな国だった」

そのような考えが自然と子供の頃から定着し…、日本を受け継いでいく未来の子供や孫の代には、自分の国や先人たちを誇らしいと思えない、好きになれない。
そんな日本人が日に日に増えてしまうかもしれません…。

ですが、日中の外交史を正しく知れば、
「日本はちっぽけな国だった」
というような歴史の見方になることは、まず有り得ないはずです。

なぜなら、朝鮮半島やアジア周辺国が絶えず中国の侵略を受け、建国と滅亡を繰り返してきたのに対し、日本は太古の縄文時代から現代に至るまで一度も中国に侵略され征服されることなく、自立して国家を維持してきました。
これこそが何よりの証拠です。

教科書では教わらなかった日本と中国の本当の関係を知ることで、中国の歴史書に書かれたウソが分かるだけでなく、先人たちがどのようにして外国の脅威から国を守り続けてきたのかが分かり、古代日本という歴史の価値や重要性を改めて強く感じることができるでしょう。

今回は、
「中国有りきの古代日本だった」
という自虐史観から脱却し、本当の日本外交史を蘇らせたい…、正しい歴史を多くの日本人に知ってもらい、日本を誇らしく思える人が増えることで、それが子供や孫にも伝わり、結果的に日本全体が愛国心を持てるようになっていく…、そんな希望ある未来を創っていきたい…、そういった強い想いで書き綴らせてもらいました。

〔編集後記①〕古代中国人が信じた?佐賀県の不老不死の薬草

今から約2200年前。

史上初の中国統一を果たし、あらゆる権力と富を手にした秦の始皇帝。

しかし、絶対の権力者の彼でさえ、ままならなかったものがありました。

それは“老い”と“死”でした。

中国の歴史書『史記』によると、

始皇帝が不老不死を求めている中、臣下の一人だった徐福という人物が、始皇帝に、
「東方に不老不死の霊薬があるそうです」
と進言しました。

始皇帝は、すぐさま彼にその薬を持ってくるように命令。

始皇帝の命を受けた徐福は従者と共に船出…。

そして、一向は日本に辿り着いたと言われています。

その証拠に日本の各地には、徐福がやってきたという伝承が数多く残っています。

三重県、愛知県、青森県、秋田県…。

数え出すときりがありません。

その中でも特に面白いのが、佐賀県佐賀市の金立山きんりゅうさん
残る伝説です。

少しご紹介すると…、

<不老不死の薬を求めて、金立山の頂上付近までやってきた徐福は、釜で何かを湯がいている仙人に出会いました。
徐福は、この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、「薬草はどこにあるか?」
と尋ねました。
すると、仙人は
「釜の中を見ろ」
と答えました。

これこそが不老不死の薬で、
「私はこの薬草を飲んでいるから丈夫なのだ。薬草は谷間の大木の根に生えている。」
と言いました。
こうして徐福は、ついに薬草を手に入れたのでした。>

仙人が釜で湯がいていたのは、実は下の写真のフロフキという薬草でした。

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フロフキは金立山の山奥に今でも自生しており、煎じて飲めば腹痛や頭痛に
効果があるそうです。

またこの『フロフキ』と言う言葉は、『不老不死』の訛りだとも言われています。

重要なのは、彼らが日本に不老不死の薬があると信じてやって来たと言う点です。

このことは、太古の時代から中国人は日本に対して高い評価を持っていたことを推測させます。

徐福来日の他にも、古代の日中関係史を深堀していくと、
・中国から2000人規模の遣日使が日本に何度も来ていたこと
・儒教の始祖である孔子が日本行きたがっていたこと
等々、どういうわけか中国は日本に対して、強い信仰心のようなものをもっていたことが分かります。

〔編集後記②〕古代中国が派遣した2000人の遣日使

今からおよそ1250年前。

一人の高僧が、中国から日本にやってきました。

鑑真です。

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鑑真と言えば、国宝で乾漆木造の奈良の唐招提寺の坐像が有名です。

鑑真は、唐の時代でとても有名な高僧だったそうで、54歳の時、どういうわけか日本に来日することを決意します。

しかし当時は、天気予報もなければ、エンジンもありません。

帆はありますが、たくさんの水夫が漕ぐ人力の船です。

暴風雨でたくさんの船が難破し、3割の確率で命を落とす命懸けの旅でした...。

鑑真は船出から9年間、5度の渡航に挑戦して失敗し、ついに過労で病気に罹り失明までしてしまいます。

そして6度目の754年、ようやく屋久島に漂着し来日を果たします。

一体なぜ、鑑真はそこまでして日本に来ようとしたのでしょうか?

実は、鑑真だけでなく他の数多くの中国人も、絶えず日本にやってこようとしていたことが分かっています。

それらの人々は『遣日使』と呼ばれ、唐の時代になると、鑑真も含めた遣日使が頻繁に日本にやってきているのです。

当時の遣日使の人数がまた凄いのです。

例えば、天智天皇期の671年には、2000人もの一団が来日しています。

ほかにも、今の中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海ぼっかいという国がありましたが、ここからも33回来ているのです。

遣唐使よりも遣日使のほうが遥かに多かったのです。

一体、彼らは日本に何を求めてやってきたのでしょうか?

なぜ鑑真のように古代中国人は、命懸けで日本に来ようとしたのでしょうか?

〔編集後記③〕縄文時代から始まった稲作

今までの歴史観では、中国や朝鮮から進んだ文化が日本列島にもたらされ、古代日本が発展したと言われてきましたが、近年の研究で、実はそれがウソだということが判明し、今までの通説が大きく塗り替えられることになりました。

その例として挙げられるのが稲作です。

稲作は、紀元前5〜紀元前4世紀に中国の戦国時代の混乱のため、大陸や朝鮮半島から日本に渡った人たちによってもたらされたと考えられていました。

しかし、国立歴史民俗博物館研究グループの調査によると、北部九州から出土した32点の土器に付着した炭化物を最新の放射性炭素年代という年代測定法で分析した結果、日本における水田耕作の始まりが約500年早まり、紀元前1000年頃と推定されるようになったのです。

つまり、縄文時代に既に稲作が始まっており、水田耕作が行われた弥生時代は1000年以上続くことになります。

32点まとめて測定され、ばらつきが認められないとなると、これは確かなことと言わなければなりません。

今でも文化の発生は、常に大陸にあり、日本は大陸からの移入文化であるという先入観がありますが、決してそのようなことはありません。

金属器の文化についても同様のことが言えます。

弥生文化の最も大きな特徴は、鉄器や青銅器などの金属器の使用であるといわれています。

特に銅器はこの時代の象徴です。

朝鮮半島には青銅器の小さな鐘がありますが、日本の銅鐸はそれよりも遥かに大型で、祭器として使われていた点でも朝鮮半島のものとは異なる特徴をもっています。

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その表面には絵画が描かれ、当時の生活を彷彿させます。

さらに九州北部では銅剣、銅矛、銅などの武器形祭器が使われました。

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これらは実際の武器ではなく、それが祭器であったところに日本人特有の御霊信仰を感じることができます。

このことからも、古代日本の文化は、大陸の文化とは似ても似付かないのです。

にも関わらず残念なことに、これ以降の時代も、古代日本は絶えず大陸有りきの歴史だったかのように学校では教えられています。

・中国系・朝鮮系渡来人がより硬質な土器の作り方を伝えた
・朝鮮からきた渡来人によって巨大な古墳を築く技術が伝わった
・遣隋使、遣唐使が中国の進んだ文化を日本にもたらした
等々、なぜか大陸の文明の方が進んでいて、日本の文明の方が遅れていたかのように語られているのです。


今回はいつもより長くなりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。

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