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2021.9.8 東京裁判で突如止まった通訳

それは1946(昭和21)年5月14日、公判5日目のこと。 
ある異常事態が起こった。 

日本側の弁護人の1人、ブレイクニー弁護士が話し始めた途端、ピタリと通訳が止まった。 

当然、ブレイクニー弁護士がそれには気付かず、そのまま英語で“かなり熱の入った様子で”弁論を続けていた。 

新聞記者を含む、傍聴席に座る日本人にはそこで何が話されているのかは、分からなかった。 
その後の検察側の発言も日本語通訳はないまま…。

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ここで日本弁護団副団長の清瀬一郎弁護人が発言台に立ち、強い口調でこう抗議した。 

「法廷での裁判長の裁定や検察官、アメリカ弁護人の発言内容は、その場で日本語に通訳してもらわないと、被告たちには何が言われているのか判らない。条例には、『審問及びそれに関する手続きは、英語と被告の国語を以て行う』とある点に注意してもらいたい」 

“英語と日本語の同時通訳を行う”というのは、この裁判が始まるときに予め決められていた約束だった。 

それが守られないとなれば、“そもそも法廷の審理が成り立たない”一大事である。
清瀬弁護人はその当たり前のことを指摘した。
それに対し裁判長は、
「正確に翻訳をするために一旦保留をした」
と発言し、午前の審理は終わった。 

その後、午後の法廷はなぜか定刻より遅れて開廷された。 
どうやら休憩中、裁判官同士で“何か重大な話”が交わされたらしい。
 そして引き続き何らかの議論があったが、いずれも日本語に通訳されないまま、午後の休憩に入ってしまった。

* = * = * = * = *

法廷再開後、清瀬弁護人が再び立ち上がった。 

「法廷では、その都度通訳してもらいたい。先刻の中国検察官の弁論も何を云われているのか判らないので、被告は必要な異議申し立てもできない。休憩中、(中華民国代表の)向検察官の弁論は一体何だったのか、と疑念を持った者もいた。善い事も悪い事も、法廷での進行の内容が判らないのでは、フェア・トライアル(公正な裁判)とは云えない」
と再度抗議した。

これに対して裁判長は、
「必要な翻訳はできるだけ早い機会に提供する」
と答えて、この論争を打ち切った。 

その後になっても、いっこうに裁判長が約束したこの日の日本語訳が配られることはなかった…。
日本文速記録しか読んでいない者や英語力の乏しい日本人傍聴人には、その内容が何だったのか、ほとんど判らないままで終わってしまった。 

しかも当時の一般国民はGHQによって『プレスコード』と呼ばれる報道規制が敷かれていたことも知らない…。

当然、このような異常事態が起こっているということが新聞やマスコミから報じられることもなかった…。
あの時、東京裁判の法廷では何が議論されていたのであろうか…? 
その内容を一般国民が初めて知れるようになったのは、それから37年経った1985(昭和58)年…。
講談社企画・製作、東宝東和配給のドキュメンタリー映画『東京裁判』が公開されたときである…。

映像の中でのブレイクニー弁護人が放った言葉ーー。 

「国家の行為である戦争の個人責任を問う事は、法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。個人による戦争行為という新しい犯罪を、この法廷が裁くのは誤りである。 

(中略) 

真珠湾攻撃でキッド提督が亡くなったことが殺人罪(訴因39)になるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も、我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。それは、彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。 

何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる!その人たちが裁いている」 

これが、打ち切られた通訳の内容です。 

真珠湾攻撃が戦争犯罪なら、原爆投下も同じように戦争犯罪のはずだろう!という真っ当な正論でした。 

しかし、このことがGHQの占領下で公になることはありませんでした…。

たとえ法廷での論争であり、単なる一弁護士の意見にせよ、“正論”が日本人の間に知れ渡る事を恐れた連合国側は、通訳者に同時通訳の一時中止を命じた。

だからこそ、裁判長が清瀬弁護人に口では約束しながら、日本語訳は配布されないままに終わってしまったのです…。

そして正論をぶつけたブレイクニー弁護人が担当した東郷茂徳はA級戦犯の烙印を押され、禁錮20年の刑を受けて獄死。

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梅津美治郎もまたA級戦犯として終身禁錮刑を言い渡され、服役中に直腸癌により病没した。

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これがまかり通ったのが東京裁判でした…。

東京裁判の法廷の現場で行われた不正はこんなものではありません。

検察側資料は伝聞でも何でも証拠資料として採用するのに、弁護側資料はなんと7~8割方が却下

中国共産党に関する資料に至ってはなんと75点中74点が却下
(それらの証拠を見比べれば「満洲事変や盧溝橋事件が中国共産党の仕業だった」ということは明らかです)

パール判事は全員の無罪を主張した上で、
「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないというようなやり方は、国際正義の観念とは縁遠い。こんな“儀式化された復讐”は瞬時の満足感を得るだけのものであって、究極的には後悔を伴うこと必然である」
と強く非難しています…。

実際、アメリカのルーズベルト大統領は、
「それは彼らの犯罪的な、野蛮な指導者に対しては処罰を加え、報復を加えることを意味する」(1943年2月12日)
と、終戦前の段階から、予め日本に報復をすることを宣言しています…。

ですが、残念ながら、実際に法廷内でどのように事実が捻じ曲げられたかということは、学校が教えてくれることも、マスコミが報じてくれることもありません。 

なので、真実を学んでいる人とそうでない人で、そもそもの事実認識が異なっています。 
だから、有った無かったの水掛け論が戦後繰り返されているわけですが…。

皆さんもこれまであの戦争について聞いてきた話が、
「一方的に日本を悪者にしようとしている」
ということに薄々気づいているのではないでしょうか? 

そもそも、歴史の真実はこの東京裁判で論じることを封殺されたにも関わらず、その根本の事実が取り上げられることはまずありません…。
ですから、私たち一般人の目から見れば、本当は何が真実なのか分からないのも当然でしょう…。

そもそも日本の戦後における政治学は、敗戦利得者の政治学者たちによって築かれました。
日本のことを本当に考えていた学者たちが、公職追放に遭ってしまったからです。

だから、今の政治学や経済学、歴史学といった、本来なら日本のために弁明を行うべき学者たちは、その多くが敗戦利得者であり、決して日本の弁護はしません。

敗戦利得者たちは、日本の敗戦によって地位を得、収入を得ていた訳だから、戦前の日本の良さとか言い分を絶対に認めるはずがないのです。 

例えば、東大は秀才が非常に多いが、残念ながら、そこで日本を弁護するような発言をしている人は政治、経済、歴史関連の学部ではなく、英文科や独文科といった文学畑出身の先生です。

その理由は非常に簡単で、ドイツ文学や英文学などの先生たちは、ほぼ公職追放に遭っていないからです。ただそれだけの理由です。

つまり、いわゆる『自虐史観』というのは、戦後の日本を覆う根の深い問題なのです…。

私たちがよくテレビや新聞で、
「戦前の日本はしょうもなかった」
「アジアを侵略した悪い国だ」
「日本も欧米を見習うべきだ」
と目にするのも“敗戦利得者”が自分の保身のために言っていると言えるのではないでしょうか?

〔編集後記①〕

東京裁判の中で、ジョン・マギー牧師という人物が証言台に立つ回がありました。

彼は日本軍による南京事件(南京虐殺)についての証言を東京裁判で行なった人です。

南京事件は1937(昭和12)年、日本が中華民国国民政府の首都南京を占領した際に、民間人を含む多くの人を虐殺した事件として知られています。

この南京事件を広めた張本人が、マギー牧師です。

彼は証言台にて、百数十件の残虐な行為についての証言をしました。

当時それを耳にした国民は驚きます。

なぜなら、その証言の数々はどれも極めて残虐な話だったからです。

でも、東京裁判という場で言い立てられているのだから、根も葉もないことではないのだろう。

本当に日本がそんなことをしてしまったのか…、と憂鬱な気分に駆られました。

そこへ日本側の弁護人であるブルックス弁護士が反対尋問をします。

ブルックス弁護人が、
「あなたはそのような残虐な事件において、実際にいくつ目撃したのですか」
と問いました。

そして、帰ってきた答えは予想外のものでした。

マギー牧師は、
「1件しかありません」
と答えたのです。

じゃあ、それ以外の話はなんなのでしょうか?

実は、全て他所から聞いた話だったのです…。 

皆さんはこれをどう思いますか?

ほぼ全てが伝聞である『証言』が、日本人個人を裁くことなど常識的に考えて有り得ません。

しかし残念ながら、この裁判で日本は死刑者約1000人を出してしまいます。 

この裁判はフィクションではありません。
実際に世界史に刻まれている裁判です。

ご覧の通り、この裁判では扱う証拠の採否に大きな問題がありました。

日本側が提出した証拠の実に8割が却下されています。

他方、連合国側の用意する証拠は何でも採用されました。

先述した通り、本当にどんな証言でもです。

結果として連合国側は、日本政府に対する嫌悪感を日本国民に植え付けていくことになりました。  

しかし、皆さん、不思議ではありませんか?

国際的な裁判でありながら、一体どうしてこのようなことが可能だったのでしょうか?

そこには、連合国と裁判官がグルで働いた“3つの不正”がありました。

〔編集後記②〕

1945(昭和20)年8月14日。

日本はポツダム宣言を受諾し、9月2日に休戦協定に調印しました。

8月15日には、天皇の肉声によって日本は連合国に降伏し、戦争を終了する旨が全国民へ通知されます。

日本国民は敗戦という形での終戦を知らされました。

そして間もなく、連合国vs日本の国際的裁判が開かれます。

しかし、ここで異常ともいえる事態が起こります。

日本側の被告は、存在しない2つの罪で起訴されました。

日本側に押し付けられた2つの罪状は、『平和に対する罪』と『人道に対する罪』。

もちろん日本側は否定し続けました。
これはポツダム宣言に存在しなかったからです。

人道に対する罪とは何でしょうか?

それは、アメリカの原子爆弾投下は当てはまらないのか?

自国のことは棚に上げておきながら、我が国日本には、平和を犯した残虐な国として弾劾を行ないました。 

さらに、日本は、第二次世界大戦以前の出来事に対する責任も追及されることになります。

ポツダム宣言において決められていた罪に問われる範囲は、大東亜戦争まで。

つまり、それより以前のこと、例えば南京事件や満州事変、ロシアとの間に起きたノモンハン事件など、過去の事件についても罪が問われることになっていたのです。

これらの横暴とも言える行為に対して、日本は批判することすらできず、「残虐な国家」というレッテルを貼られてしまったのです…。

戦後間もなく、日本はGHQによるプレスコードとラジオコードで、言論の自由が奪われました。

検閲が行われ、占領政策についての批判をすることは一切できませんでした。

しかし、そもそも日本が占領政策を受けること自体おかしいとは思いませんか?  

なぜなら、日本が調印したのは立派な休戦協定であり、双方を拘束する義務を持つ国際的な条約なのですから。

それを無視して占領政策を行い、言論の自由を完全に取り締まり、本来問えるはずのない罪を押し付けたのが連合国側のやったことなのです。

そして、先述の通り、日本人の約1000人が死刑となってしまいました。

これはつまり、
「連合国は一方的に日本を悪者にしようとしている」

そう言われても仕方がないのではないでしょうか?

その証拠に、
①東京裁判で日本側が提出した弁護側資料は7〜8割方が却下
②日本の事実を証明する資料に到っては、なんと75点中74点が却下
③連合国に都合が悪い発言は翻訳を打ち切り

ですが、このような不正が行われながらも、連合国がどのように法廷内で事実を捻じ曲げていったかを学校が教えてくれることも、マスコミが報じてくれることもありません。

だから、歴史の真実を学んでいる人とそうでない人で、そもそもの事実認識が異なっています。

だから、有った無かったの水掛け論が戦後繰り返されているわけですが…。

皆さんもこれまで、あの戦争について聞いてきた話が、
「一方的に日本を悪者にしようとしている」
ということに薄々気づいているのではないでしょうか?

そこで今回、実際に裁判の法廷内で、どのように事実が捻じ曲げられたのかを本編で確認して頂きました。

〔編集後記③ 『武士道精神』は滅びず

西郷隆盛の死を評して内村鑑三は、
「武士の最大なるもの、また最後のと余輩の思うものが、世を去った」(『代表的日本人』)
と書いていますが、私はそうは思いません。

平安時代の末期から始まった長い『武士の歴史』は、『西南の役』をもって一応は終わったかのように見えます。

しかし、その後の日本から『武人』がいなくなったわけではありません。

それどころか、その後の日清・日露・大東亜戦争などの戦いで、わが国の将兵は大陸に、南海に、蒼海に、密林に正々堂々と勇気奮闘を続け、二百数十万もの方々が散華したのです。

苦難に満ちた近代日本の歴史の中には、『武士道精神』の発露という他ない場面が、満天の星空のように無数の美しい光を放っています。

それは、何も将兵の言動だけに留まるものではありません。

ある時は、その将兵の家族の言動として、またある時には『敵国』の言動にさえ見られます。

本編の内容から少し逸れますが、先の大戦中での『海外の武人』のお話を一つご紹介し、それを通じて、私を含め皆さんもお持ちの大切な心の姿勢を確かめつつ結びとしたいと思います。

オーストラリア海軍の『武士道』

1942(昭和17)年5月、日本海軍の小型潜航艇3隻は、鉄壁の守りで固められているオーストラリアのシドニー湾に決死の覚悟で攻め込みます。

1隻に2人の若者が乗り込んでいたので、この時6名の若者が散華しました。

その中の一人が、熊本出身の松尾敬宇大尉です。
時に25五歳。

交戦中にもかかわらず、シドニー地区海軍司令官ムアヘッド・グールド少将は2隻の潜航艇を引き上げ、4人の勇者を『海軍葬』の礼をもって丁重に葬ることにします。

『海軍葬』の様子は、ラジオでオーストラリア全土に中継され、4人の遺骨は日本に送り届けられました。

もちろん、
「交戦中の敵国の軍人に対して、何もそれほど礼を尽くす必要はない」
という声もありましたが、グールド少将は後にこう述べています。

「勇気は一民族の私有物でもなければ、伝統でもない。これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきものであり、一様に讃えられるべきものである。」

国のために一命を捧げた勇者に対して、人は古今を問わず、東西を問わず、こういう態度で臨むべきです。

ところが交戦中の敵国でさえ、日本の戦没者への『敬意』を捧げてくれたのに、なぜか戦後、当の日本人の多くが捧げようとしません。

それどころか、今も大手マスコミや教育の現場では、戦没者への『敬意』を捧げるどころか、まるで『冒瀆』するかのような言説が支配的です。

私には、『異常な言説』としか映らないのですが、皆さんの目にはどのように映っているのでしょうか。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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