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2021.12.9 縄文時代に存在した宗教

日本における縄文時代は、
『最も原初的な時代』
今までの通説では、このように言われてきました。

文字も無く、道具も粗末なもので土器、土偶も素朴な造形物であり、このような時代に宗教や思想を問うとすれば、『アニミズム(自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという信仰)』でしかない、というわけです。

文献資料も無いから、学問的にも宗教的な思想は裏付けられないと言われてきました。

確かに人口が少なく技術は劣っていましたが、この時代に精神文化までも低かったかどうかは分かりません。

むしろ、この時代につくられた造形物から立派に“宗教”につながる精神文化はあったのではと考えています。

それは、数多くの縄文時代の遺跡や土器から類推できることですが、特に1992年以降の三内丸山遺跡の発掘が起因となって、縄文時代にも“宗教”につながる精神文化があることが判ってきました。

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その発掘の成果も踏まえながら、この時代の様々な形象物の形の分析により、学問的に裏付けることが可能になったのです。

これは、東北大学の田中英道名誉教授の研究から、フォルモロジー的方法と呼ばれています。

それによって、日本の『縄文』『弥生』のような時代が決して単純な『原始時代』ではなく、高い宗教心を持った時代であり、ある意味では日本の基層文化としての原初の姿を宿していることが判ってきました。

三内丸山遺跡から分かった新事実

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それまでの縄文文化に関する認識を更新させる新たな新事実が、1992年以来の三内丸山遺跡の発掘調査で判明しました。

三内丸山遺跡では、墓地が大変重要な位置を示しています。

それは、集落内にあたかも生者の住居と同様に造られており、生者と死者の共存のような形を採っているかに見えます。

住居地の北に、総延長420mもの道路を挟んで墓地があるのです。

一方、最近の調査では集落の西側にも、330mにわたって墓が並んでいることが判りました。

そこでは、死者たちは生者と同じように、そこに住んでいるのです。

盛り土に近いところには子供の墓地が別に作られ、子供の頃に死んだ者たちが特別に供養されています。

さらに、墓が皆平等で、大きな墓や小さな墓の区別がないことは、集落があれば貧富の差ができて、支配・被支配の階級社会になるというマルクス主義の歴史家の幻想を砕くものでした。

元々人間の社会での区別は、階級ではなく役割分担なのです。

そして墓地が今日のように、郊外にあったり村の外れにあったりするのではなく、集落内にあることは死んだ人々が間近におり、
「その霊がまだ生きている」
という信仰が、今日よりも強かったことを示しているといえるでしょう。

墓を死者の家に見立てて、生者がそれを守っているということになるからです。

このことから、御霊信仰、祖霊信仰がこの世界にあったことは確かで、これが神道の御霊信仰と共通しています。

それはまた、日本の仏教が
「死ぬと仏になる」
という神道化にもつながっていくのです。

死体は動かないにしても、その御霊はそれと共に生きているという信仰は、当然、そこに精神の自立性を生み出していきます。

1500年も同じ土地に生きていた三内丸山の人々は、祖先の血が今も続いているという考えを持っていたのでしょう。

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