見出し画像

2021.9.11 鎌倉時代とバロック美術

フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』

カラヴァッジョ『キリストの埋葬』

などなど、16~18世紀の西洋で発展した『バロック美術』

均衡の取れたルネサンス美術とは対照的に、躍動感溢れる表現によって人々の心を魅了していきました。

ですが…、
その400年程前の日本では、既に西洋のバロック美術と遜色ない傑作が生まれていたことを皆さんはご存知でしょうか?

・源平の戦い
・蒙古襲来
・承久の乱

など、戦乱が続く鎌倉時代の日本において、西洋より遥かに進んだ文化史が育っていたのです。

今回は、教科書では語られない、もう1つの歴史を書き綴っていこうと思います。

12世紀、平安末期の時代。

当時、政務を行なっていた後白河法皇は突如、武士である平清盛のクーデターにより幽閉の身に…。

その後、清盛は皇室を裏で操り、事実上の独裁を開始した。

そして、全ての力を掌握した平氏の武士たちは奢り高ぶり、
「平氏でなければもはや人ではないわ!」
と叫びながら都中を歩き回っていた…。

源氏をはじめ各地の武士たちはこれに反発。
平氏打倒を掲げ、次々に軍事行動を起こすようになる。
後に『源平合戦』と呼ばれるこの戦乱の中で事件は起こった。

戦乱・飢饉・大災害
あなたが民衆を救うなら?
僅か4年で自国を再興させた後白河法皇の決断

歴代皇室の崇敬を受けてきた寺社勢力も平氏の独裁に対して反抗の態度を取った。
しかし、それを看過する平氏ではなかった…。

1180年12月28日、平重衡(たいらのしげひら)が率いる平氏軍が、政権に反抗的な仏教寺院を攻撃。
奈良の東大寺、興福寺がこれにより焼失。

いわゆる『東大寺大仏』と呼ばれる東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)もこのとき焼損を被ることに…。

民衆にとっての苦難はこれだけではなかった。
その翌年、西日本一体にわたる深刻な食糧不足が民衆を襲う。
急激な降水量低下による干ばつが原因となって生じたこの食糧不足は、『養和の大飢饉』として語られ、京都市内だけで、死者が42,300人出たと言われている。

今日の日本ですら、一都市で4万人の死者が出る災害はほとんど発生しないと考えると、当時の被害は計り知れないものだっただろう…。
この状況から、さらに民衆には負担がのしかかる。

東大寺焼き討ち以降、勢いを失いつつある平氏を追い打ちに行く源氏ら武士たちの食糧、いわゆる兵糧も民衆が支える必要があった。

武士にとっても、民衆にとっても食糧があまりにも足りない…。
そんな中、略奪行為が横行するのは当然の結果だった。
状況は最悪、『望み』が無いのである。

一方、戦乱の中、平氏の勢力が徐々に衰えていく中で、どうにか実権を取り戻した後白河法皇。
「民衆を救うために、私は何をすべきなのか…」
その惨状を目の当たりにした法皇は、頭を悩ませた。

「飢饉や平氏追い打ちのための兵糧など、庶民に強いている負担は膨大なものになっています。まずは庶民の恨みを除く政治が必要です。東大寺の再建はその後でも遅くないでしょう」
側近の右大臣はこのように進言。

確かに、民衆が飢饉で死んでしまっては元も子もない…。
誰の目から見ても、それは明らかであった。

しかし、そんな中、後白河法皇は周りの反対を押し切り、
「東大寺大仏の再建を最優先する」
と、決断した。

民衆への減税や今で言う給付など、他にも多くの選択肢がある中で、法皇はなぜか『大仏の再建』を選んだ…。
もちろん、それは一筋縄ではいかなかった。
民衆の悲惨な状況はなかなか改善される見込みもない。

寺社勢力と対立する平氏はもちろん、その勢いを抑えるのに必死な源氏も、再建を主体的に支援する余裕はなかった。
政治的・軍事的な後ろ盾を得ることは、当時の戦乱の中では不可能…。

中でも、大きな課題だったのが、
「いかに天平の古典美術を再現できるか」
ということだった。

現代では、ルネサンスにも匹敵すると言われる天平時代の代表仏師である国中連公麻呂(くになかのむらじ きみまろ)の技術が結集された東大寺。
当時の民衆の精神的支柱となっていた東大寺大仏のその究極的な美しさを損なうことなく再現するのは、単なる“修理”ではない、非常に難易度の高い挑戦だった。

その任務に白羽の矢が立ったのが『慶派』と呼ばれる仏師だった。
彼らは「運慶」を代表とする、当時世界でも一流レベルの仏教美術の数々を生み出していった巨匠たち。
「慶派なら、当時の傑出した美術作品を再現できる…」
そんな期待を込めて、大仏の再建は進められていった…。

そして、大仏の焼失から4年の月日が経った。
1184年8月28日、慶派の尽力やそれを寄付によって支えた民衆たちのお陰で東大寺大仏は再建される。

後白河法皇は、自ら開眼師の役割を買って出て、その儀式を全うした。
この瞬間、天平の芸術家が残し、およそ500年にわたり民衆の信仰を集め続けた大仏は、再び開眼の時を迎えた。

民衆の支えであった大仏の復活…、それに呼応するかのように翌年、源氏が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開府。
戦乱は少なからず鎮まり、民衆にとって平穏な日々が訪れた…。

このように、後白河法皇は、戦乱が続き飢饉などで民衆が苦痛を強いられている中、東大寺大仏の再建を何よりも優先させました。しかし、なぜ“最優先”が大仏の再建だったのでしょうか?

減税や給付による民衆の苦痛の緩和なども考えられる中で、なぜ建物の修復が一番重要だと考えたのでしょうか?

実は、その理由は450年前の聖武天皇のある言葉にありました…。
「もし東大寺が盛んになれば世の中も盛んになり、もし東大寺が衰えれば世の中も衰える」
728年、東大寺を創建した聖武天皇はその詔で、このように言いました。

事実、東大寺の焼失の翌年に深刻な飢饉が起こり、戦乱も終わることなく…、確かに世の中は最悪の状況でした。
後白河法皇はその状況を打開するため、先代の天皇のお言葉を信じて『東大寺再建』に踏み切ったということなのでしょう。

実際、後白河法皇は再建を民衆に告げる際の詔を、500年近く前の聖武天皇の『盧舎那大仏造営の詔』に倣い書かれていることが読み取れます。
※詔を出したのは安徳天皇ですが、当時3歳であり、実質的に後白河法皇の意志が込められていました。

このように、聖武天皇の想いをおよそ500年経った後でも受け継ぎ、民衆を救うという強い意志が込められていたのでした。

そして、中でも重要であったのが『天平最高レベルの美術品』が鎮座していた東大寺。
それを修復することは、非常に難しいことでした。
しかし、その大仕事を任された運慶ら慶派は天平の彫刻を探求し、先人たちの技量を学び取っていきます。

その結果、仏師たちは天平の古典的な美術技法に、鎌倉時代の厳しい戦乱のうねりを感じさせるダイナミックな動きを作品に落とし込むことができるようになっていきました。
そして完成したのが、西洋におよそ400年も先駆けた『バロック美術』でした。

鎌倉時代において、奈良・天平時代から受け継がれたのは聖武天皇の想いだけではなく、日本が世界に誇るべき美術作品だったのです…。

鎌倉時代といえば、「源平合戦」「蒙古襲来」など、武士が活躍した時代のような印象があるかもしれません。

しかし、政権の移り変わりや体外勢力との戦いで歴史を捉えるだけでなく、当時の人々が大切にしていた文化を通して歴史を見ていくことで、昔の日本人がどういう感性を持ち、何を大切にしていたのかがよく分かってきます。

なぜここまで日本人は大仏を強く信仰し、その中で美術のレベルをも高めていくことができたのでしょうか?

ド・ゴール政権下でのフランスの文部大臣アンドレ・マルローは、日本の『百済観音像』を
「世界の十大彫刻の一つに数えられる崇高な作品」
と評しました。

芸術の国フランスの文化省のトップが、日本の芸術レベルの高さを称賛しているわけです。
なぜ日本の美術は、世界的に見てもレベルが高いのでしょうか?

それは、政治史や経済史とは違う観点で歴史を紐解いていくことで明らかになっています。

たとえば・・・

仏像制作に従事する者を『仏師』と呼びますが、この言葉は、実は仏教を日本に伝えた大陸には存在しない日本固有の言葉でした。
中国にも朝鮮にもないこの『仏師』という言葉には、実は深い意味が込められていたのです…。

なぜ天平時代、鎌倉時代の日本人は、西洋にも劣らないレベルの美術作品を生み出すことができたのでしょうか?
実はその秘密には、日本の古来からの“自然信仰”が関係していました…。

ただの建築物と芸術作品には大きな違いがあります。
その中で、なぜか日本がアジアで最も初めに『芸術』という概念が生まれたといいます。
そして、そのきっかけは意外な出来事によるものでした…。

こういった観点で日本の歴史を見直していくことで、新たな歴史が浮かび上がってくると共に、日本人の感性や精神性を感じることができるのです。

しかし、これまでの日本の歴史教科書では、このような美術を始めとする文化史や文明史はコラムで扱われる程度。
日本人として重要なこれらの歴史が、全くと言っていいほど教えられてきませんでした。

その代わりに教科書では、権力争いと支配者交代の歴史が中心に教えられます。
結果として、私たちは当時の日本人がどんな感性を持ち、どういったものを大切にしていたかということを学ぶ機会がほとんどないわけです。

さらに、日本の伝統美術の保護や修復をする機関は、そういう教科書を作成する文部科学省の下部組織であるという現状。

イギリスは、国防省と財務省と同じ並びに『文化・メディア・スポーツ省』がありますし、中国、ドイツ、フランスも同じ同じような形式をとっています。

『文化省』ではなく『文化庁』になっている日本の国の文化の保存・修復などのために使われる“文化予算”に関して言えば、その予算は先進国7ヶ国中最下位…。

日本のトップが、先人たちが残した美術作品の重要性について認識できていないのです。

このような状況の中で、私たちは自国の文化を知る機会をほとんど持たなくなりました…。
私たちが知らないのですから、海外の人々が日本の美術を知らないのも仕方ありません。

世界で最も売れている美術史の本である美術史家ゴンブリッチの『美術の物語』では、中国の美術こそ語られていますが、日本の美術には一切触れられていません。

さらに、西洋美術の権威である美術史家ジャンソンの著書『美術の歴史』でも、日本の仏教彫刻に関しては触れられていないのです。

奈良時代から鎌倉時代にかけて、多くの美術家が世界レベルの仏像を作りました。そこには、当時のいろいろな出来事や思いが詰まっています。

それを知らずに参拝することは、日本人としてもったいないことではないでしょうか?

アジアの美術史は中国を学ぶだけで良しとされる現状をそのままにして、先人の誇り高き歴史を忘れてしまって良いのでしょうか?

人間はあくまで文化的な存在であり、そこから精神性のある文化を作り出していく存在です。
少なくとも、126代の天皇を抱く日本は文化が基本の社会なのです。

真に歴史を理解するためには、文字資料だけでなく、当時の人々が残した文化を見ていくことが大切です。

ましてや日本は縄文土器、大規模な古墳が示すように、古来から文字よりも形を重んじてきた国です。
その精神は、文字の使用が当たり前になった鎌倉時代にも受け継がれています。

そんな当時の日本美術を見ていけば、日本人とは何か、日本文明とは何かといった一貫した変わらぬ日本の歴史を感じることができ、決して中国や朝鮮よりも発展が遅れていなかったということ、西洋に負けずとも劣らない豊かな文明が日本にあるということが実感できるはずです。

教科書に書かれていない文化史を知ることで、皆さんにも本当の歴史の真実を知ってほしい、日本文明の素晴らしさを心から感じ、日本人であることに誇りを持ってほしい、そして子や孫の世代、あるいはもっと先の世代へ日本人の誇りを繋いでいってほしい、そのような思いで今回は記事にさせて頂きました。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?