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2022.12.28 1人vs200人…不死身の連隊長の死闘

最近、街で外国人の姿を目にする機会が多くなったと感じていませんか?

それもそのはず。

コロナによる入国規制が緩和され、歴史的な円安も手伝って日本を訪れる外国人の数は激増。

10月の統計では前年の同じ時期の22.5倍と言いますから驚きです。

そんな外国人観光客の多くが
「日本でどうしても見たい!!」
と、足を運ぶ場所があります。

実に、日本を訪れる外国人観光客の4割が訪れるという超人気スポット。

それがこちら、渋谷のスクランブル交差点です。

日本人にとっては当たり前の光景ですが、大勢の人が早足で行き交うにも関わらず、誰1人ぶつかることなく通り過ぎる姿には、
「まるで忍者だ!!」
と、多くの外国人がショックを受けると言います。

しかし、今回貴方にお読み頂きたいのは、この交差点や外国人のお話ではありません。

交差点の先に見える何の変哲もない小さな書店『大盛堂書店』に隠された逸話です。

そこには、戦後、『生きた英霊』と呼ばれた、“ある男”の知られざる想いが隠されていました。

是非最後までお読みください。


日本軍 最強の戦士

・どんな傷を負っても翌日には回復
・戦死と判断されるも3日後に蘇生
・1人で200人以上の米軍を殺傷

そんな脅威の生命力から、『不死身の連隊長』と呼ばれた日本兵がいたことを貴方はご存知でしょうか。

その超人的な戦果から、日本の公式な戦史『戦史叢書』に個人として名前が載る唯一の人物…。

彼の名は、船坂弘(最終階級:陸軍軍曹)。

非常に優れた陸軍人で射撃、剣道、居合道、銃剣道など、幅広い武道に精通していました。

特に、銃剣を用いた白兵戦闘において、彼に並ぶ攻撃力や生命力を持つ人間は、後にも先にも他にいないとまで言われる“日本軍最強の戦士”でした。

玉砕島アンガウル

彼の名を世に知らしめたのは1944年のアンガウルの戦いです。

舩坂は弱冠23歳にしてパラオ諸島のアンガウル島に、宇都宮歩兵第59連隊の軍曹として着任します。

米軍のB29による爆撃が始まり敗戦の色も濃くなり始めた頃、米軍はついに本土攻撃のための飛行場を作るため戦車50両、戦艦10隻、空母1隻、多数の航空機と水陸両用車で島全土に爆撃できる体制を整え、特殊部隊2万2000人の戦力でアンガウル島へ上陸しました。

対して、島を守る日本軍は1200人余…。

戦車も戦闘機も何もありませんでした。

日本軍は圧倒的な戦力を持つ20倍もの敵との凄まじい死闘を繰り広げ、多くの兵士が壮絶な最期を遂げることとなります。

これが後に『玉砕島』と呼ばれることとなる所以です。

不死身の連隊長

米軍は上陸するやいなや、艦砲、ナパーム弾、機関銃弾を一斉に打ち込んできます。

あらゆる砲弾の雨に、味方が次々と倒れていく中で、船坂軍曹は擲弾筒を絶え間なく米兵に打ち込みまくり、見事、足止めに成功します。

しかし、3日後、遂に船坂軍曹も瀕死の重傷を負ってしまいました。

敵の至近弾が炸裂し、左足の太腿がえぐれ、左腕は蜂の巣状態。

唯一動く右手で直接砲弾を投げ戦うも砲弾の重さに右腕を捻挫。

このように全身に傷を負い、大量出血と激痛で歩くこともままならない状態で敵兵3人と戦闘し、その上、負傷した部下を背に担ぎ、這って自軍陣地に帰還したのです。

その時の姿は、まさに血だるま。

そんな船坂軍曹を見た軍医が手渡したのは、薬でも包帯でもなく、ずしりと重く冷たい手榴弾でした。

「もはや、これまでか…。これで靖国に行けるのか…」

そんな自決の誘惑が、手榴弾を持つ手に力を入れさせました。

しかしそんな時、どこからともなく聞こえたのが、
「平常心を失うことなかれ」
という、幼い頃から学んだ剣道の教えでした。

「自分はまだ死ぬだけの条件を揃えていない。同じ死ぬのであれば、最後に一矢報いてからだ」

そして次の日、目覚めると、なんと出血が止まり、動けるようになっていたのです。

これには、軍医も部下も驚き言葉を無くします。

「人間、死ぬも生きるも気力だよ」

船坂軍曹はそう言い放ち、その後も戦い続けました。

そして最後には、米軍司令部に乗り込み自爆攻撃を仕掛けます。

しかし、手榴弾を起爆させる寸前、あと一歩のところで船坂軍曹は首を撃たれ“戦死”しました。

そして、その3日後…。
なんと、死体安置所で蘇生。

これには監視の米兵も、恐怖のあまり凍りつきました。

その後の尋問でも偽情報を伝えたり、飛行場を爆破しようとしたり、捕虜になった後も戦い続けました。

日本の復興のために

戦争が終わり、故郷に帰った船坂氏が始めにやらなければならなかったのは、新しく建てられた“自分の墓”を抜くことでした。

そして、次に何をしようかと考えた時に思いついたのが、書店を開くことだったのです。

「日本が復興し、豊かになるためには、進んだ知識を身に付けなくてはいけない」

こうした思いから、渋谷に一坪の書店を構えました。

これが、現在もスクランブル交差点にある『大盛堂書店』です。

そして、そこで得た収入でアンガウル、ペリリュー、グアムなどの日本のかつての激戦地を回り、 慰霊碑を立て、戦死者の遺骨を拾い続け、2006年、85年の人生に幕を下ろしました。

「まだ、死ねない…。まだ、島に仲間の骨が残っている。全員を日本へ連れて帰るまで、私は死ねない…」

これが、死を前にした船坂氏が最後に残した言葉でした。

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