見出し画像

2023.7.3 【全文無料(投げ銭記事)】教科書に載らない身近に潜む日本が直面した共産主義の脅威

今回は、久しぶりに歴史教科書の比較について書き綴っていこうと思います。
比較する場所は、今のロシアが大きく揺れ動いた時代『ロシア革命』辺りからを対象に見ていきます。

良い動機が必ずしも良い結果を生まない

東京書籍版(以下、東書版)の中学歴史教科書は、『ロシア革命』にまるまる2ページを割き、随分と意気込んだ記述をしています。

冒頭から、以下のような書き出しです。

<【ロシア革命】
社会主義は、資本主義がもたらした社会問題を解決しようとして生まれた思想でしたが、国境をこえた労働者の団結と理想社会を目指す運動になって、各国に広がりました。
ロシアでも、政府による弾圧にもかかわらず、社会主義は勢力を拡大していました。>

労働者階級の貧困を助けようという動機は立派ですが、ここから始まった社会主義や共産主義によって、世界全体で1億人とも言われる犠牲者が生まれ、今もその残滓が支那や北朝鮮に残って、日本を含めた周辺諸国を脅かしています。

良い動機が必ずしも良い結果を生まないという現実を学ぶことは、歴史教育の眼目の一つでしょう。

それを歴史から学ぶことで人類の文明も進歩してきました。

しかし、東書版の記述を見ると、この歴史の智恵を当の筆者等が学んでいるのか不安を感じるのです。

著者の過ちは、この教科書で歴史を学ぶ中学生にも受け継がれてしまうからです。

暴力革命

まず、ロシア革命の経過について、東書版は次のように記述しています。

<第一次世界大戦が総力戦として長引き、民衆の生活が苦しくなると、ロシアで戦争や皇帝の専制に対する不満が爆発しました。
1917(大正6)年に「パンと平和」を求める労働者のストライキや兵士の反乱が続き、かれらの代表会議(ソビエト)が各地に設けられました。
皇帝が退位して議会が主導する臨時政府ができましたが、政治は安定せず、社会主義者レーニンの指導の下、ソビエトに権力の基盤を置く新しい政府ができました(ロシア革命)。
この革命政府は、史上初の社会主義の政府でした。>

“皇帝の退位”に関しては、『ニコライ2世』と題した則注があり、
<革命の翌年に、家族とともに処刑されました>
とあります。

同じ部分を、育鵬社版はこう記述しています。

ソビエト政権の誕生までは、ほぼ同様の記述ですが、それからが異なります。

<ロシアの革命政府はドイツと講和を結び戦争を中止し、革命に反対する国内勢力との内戦に入りました。
退位したロシア皇帝やその家族は処刑され、資本家や地主知識人は捕らえられ、多数の人々が殺害されたり、シベリアに追放されたりしました。>

内戦、逮捕、殺害、追放などの記述は、東書版には全く登場しません。

東書版では、ロシア革命が『暴力革命』であることを学べないのです。

ソ連の計画経済の実態

次いで、革命政府がどのような経済政策をとったのか、育鵬社版は以下のように説明しています。

<ソビエトは世界初の共産主義社会の実現をめざす政府でした。
貧富の差を生むとして自由な生産活動を禁止し、土地や農場銀行、鉱山、鉄道などほとんどすべての企業を国有化し、国家が管理することになりました。
議会政治を否定し、共産党にすべての権力が集中する一党独裁政治が行われ、市民の自由はうばわれました。>

計画経済を導入しようとすれば、必ず人々の自由を奪い、議会政治を否定し独裁政治となります。

これが共産主義の常道であり、無数の悲劇もここから起こります。

育鵬社版の記述は簡潔かつ正確です。

東書版では『ソ連の計画経済』という3分の1ページものコラムを設け、その仕組みを詳しく説明します。

<社会主義を唱える人々は、資本主義の問題点が利益を目指す自由競争にあると考え、私有財産を制限して自由競争をなくし、国家が計画的に物を生産して、個人の必要に応じて分配する理想社会を作ろうと考えました。>

と、また理想論から説き始め、生産性向上のための『五ヵ年計画』が立てられたことを紹介して、その結果を以下のように総括します。

<最初の五か年計画は4年で達成され、次の五か年計画に移行するなど、世界恐慌で苦しんだ資本主義の国々とは対照的に、ソ連は順調に経済成長を達成し、国家建設が進むかに見えました。
しかし、第二次大戦後には、資本主義の国々に包囲された条件の中で、人々の自由な活動や個性は抑圧され、形式的な面ばかりが重視されるようになり、ソ連の社会は非効率になっていきました。>

ソ連の躍進を述べた後で、第二次大戦後には、
<ソ連の社会は非効率になっていきました>
と言います。

“非効率”どころか、計画経済の行き詰まりから社会主義体制が崩壊した事を語りません。

しかも、
<資本主義の国々に包囲された条件の中で>
と原因を他所に求めています。

世界中が社会主義になっていたら、上手く行っていたはずだとでも言いたいようです。

干渉戦争

皇帝を処刑し、国内の反対者を逮捕、処刑する暴力革命は欧米諸国や日本を震撼させました。

育鵬社版の記述では、

<ロシア革命の影響を警戒した欧米諸国は、シベリアに兵を送り、革命政府に圧力を加えました。
わが国も1918(大正7)年、アメリカなどとともにシベリア出兵を行い、共産系軍と戦いましたが、成果がないまま撤退しました。>

東書版は以下のように記述しています。

<ロシア革命は、資本主義に不満を持ち、戦争に反対する人々に支持され、各国で社会主義の運動が高まりました。
しかし、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは、革命政府の外交方針に反対し、また社会主義の影響の拡大をおそれて、ロシア革命への干渉戦争を起こし、シベリア出兵を行いました。
革命政府は労働者と農民を中心に軍隊を組織して干渉戦争に勝利し、国内の反革命派も鎮圧して、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。
しかしソ連はしばらくの間、国際社会から国として認められませんでした。>

愛国的なソ連の歴史学者が干渉戦争の勝利、反革命派の鎮圧を歌い上げているような筆致です。

文明への恐るべき脅威

シベリア出兵には、もう少し複雑な背景があります。

ドイツは革命政権との講和により東部戦線から西部戦線に兵力を集中し、英仏は苦戦に陥りました。

そこで、英仏はロシア帝国軍の一部として戦っていたチェコ軍を救出することを名目に、日本に出兵を求めたのです。

英仏としては、日本軍がシベリアに出兵することで、ドイツの目を再び東方に向けさせること、また反革命に立ち上がっていたロシア軍(白軍)との共同で、革命政権を打倒する事を狙いました。

日本としては、白軍がシベリアで反共産主義の自治領を樹立すれば、共産主義への防壁となるという防衛構想がありました。

これにアメリカも賛同し、日米を主力として英仏伊を加えた連合軍による共同出兵となりました。

シベリアでの内戦では60万人の共産軍(赤軍)に対し、白軍が40万人、それに日本軍7万3000人などの連合国が荷担しました。

1918(大正7)年11月にドイツが降伏し、また白軍政府も崩壊すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤退しました。

しかし、その矢先に起きたのが樺太の対岸、尼港(ニコライエフスク)で起きた虐殺事件でした。

これは共産軍が、白軍と日本軍が護っていたニコライエフスクを襲い、市民6000人と共に、駐留日本軍と在留邦人約730人を虐殺した事件です。

その残虐さに日本国民は激昂し、それがために撤兵も大幅に遅れたのです。

アメリカのラインシング国務長官は、日本のシベリア出兵に関して、日記にこう書いています。

<ボルシェビキ(共産主義過激派)が満鮮に浸透した場合の日本に対する危険を考へてみる時、過激派進出を阻止するため日本が十分な兵力を派遣することに反対すべきではない。
何故なら、極東へのボルシェビズムの蔓延は文明への恐るべき脅威だからである。>

東書版では則注で、
<特に日本は、シベリア領土を得ることも目的にして、大軍を派遣しました>
と書いていますが、シベリア出兵から共産主義の脅威という背景を隠してしまえば、こういう記述になってしまうのでしょう。

日本共産党はコミンテルン日本支部

実際に、革命政府はすぐに世界の共産化に乗り出しました。
その様を、育鵬社版は以下のように記述しています。

<1919年、世界に共産主義を広めるため、 コミンテルンとよばれる革命指導組織がつくられました。
各国の共産党はコミンテルンの支部として結成され、それぞれの国を共産化するための活動を始めました。>

さらに、この部分の則注として:

<ロシア革命の発生は、日本の社会主義者を強く刺激した。
彼らの一部は、コミンテルンの支援と指導を受けて、1922年、ひそかに日本共産党を結成した。>
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

日本共産党の正体は、コミンテルン日本支部なのです。

この点を東書版は次のように巧みにぼやかしています。

<ロシア革命を指導した政党は、将来の共産主義の実現をかかげていたので、名前を共産党に改めました。
共産党は他の国にも設立され、ソ連共産党を頂点とする国際的な機関も結成されましたが、ソ連以外では社会主義革命は実現しませんでした。>

日本共産党の幹部だった筆坂秀世氏は、
「活動資金までコミンテルンに依存していたこともあり、共産党はコミンテルンの歯車の一つだったに過ぎない」
と語っています。

また、コミンテルンの手先だった朝日新聞記者の尾崎秀實ほつみは、“ソ連を日本帝国主義から守る”ために、日本と蒋介石との戦いを煽っていました。

日本のシベリア出兵をソ連に対する“干渉”と言うなら、こうしたコミンテルンの工作も日本の内政に関する“干渉”なのです。

多くの犠牲者

レーニンの世界革命路線が失敗すると、後を継いだスターリンについて東書版は以下のように述べています。

<このためレーニンの後に指導者になったスターリンは、ソ連一国での共産主義化を優先し、1928(昭和3)年からは五か年計画を始めて、重工業の増強と農業の集団化を強行しました。
この計画経済によって、ソ連は国力をのばしました。
しかしその一方で、国の強硬な方針に批判的な人々は、追放されたり処刑されたりして、多くの犠牲者が出ました。>

最後の一文に至って、漸く<多くの犠牲者>が出てきます。

共産主義の犯罪を研究した『共産主義国書』では、ソ連の犠牲者数は2000万人とされています。

<多くの犠牲者>という表現から、こんな規模を思い浮かべる中学生はいないでしょう。

一方、育鵬社版は次のように総括しています。

<レーニンの死後、権力をにぎったスターリンは、農業の集団化をおし進めるとともに、工業国への転換をめざしました。
そのあいだ、スターリンは秘密警察による情報網をはりめぐらせ、共産党に反対する人々を摘発して収容所に送り、おびただしい数の犠牲者を出しました。>

東書版に比べ、<秘密警察>や<収容所>を出して、遥かに具体的ですが、<おびただしい数の犠牲者>でも、まだ規模のイメージは掴めません。

確定数字は出せないにしても、過去の主要な研究で幾つかの推定数字を出すだけでも、ロシア革命による犠牲者数は世界史上空前であることが分かるはずです。

育鵬社版は、この項を
<わが国は、北の国境で共産主義という新たな脅威と直面することになりました>
と結んでいます。

これだけの犠牲者を生み出す共産主義から、如何に国を護るか、これが20世紀に入ってからの我が国の重要な防衛課題となるのです。

そういう認識が、東書版には全くないように見えます。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
投げ銭して頂けますと、明日の投稿の励みになります!

ここから先は

0字

¥ 143

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?