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EPIC DRUMS 00s~ (part1)

2000年以降の楽曲のみを取り上げ、流行り廃りを超えた多角的なドラム/リズム分析を目指します(アーティスト名/曲名/リリース年、の順に表記)。一応ジャズ研OBという体は最低限守りつつも年代順不同、ジャンル不問。主観全開、批判は楽しく適量で。要するに単なる長文駄文。あえて音源掲載は行いません。気になったものだけコピペ方式で。

Ivan Lins/Daquilo Que Eu Sei/2007

1981年のオリジナル盤リリース以来語り継がれる不朽の名曲、いまやMPB第2世代の代名詞的存在となったIvan Lins。MPBは「ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ」の略称、いわゆるJ-POPのブラジル版表記みたいなものですね。豪華客演陣を迎えた再録作のオープニングを大胆なリアレンジで飾り、当日高校生だった主宰を衝撃の渦に巻き込みました。

近現代において、ブラジル音楽の魅力を一朝一夕で語ることはもはや不可能になりつつあります。他の追随を寄せ付けない涼やかなコード進行、物悲しくも人の心の機微に寄り添うメロディライン、そして色鮮やかなリズムセクション。これらを完璧な調合で鳴らしてみせたのが2007年版アレンジであるといえましょう。

一見もっさりと聞こえがちな冒頭のリフも、実はすべて裏打ち。つまりアウフタクト連発の実にフィジカルな音楽であるという点が最も衝撃的です。イントロは4拍目裏、Aメロは1・3拍目裏を起点にそれぞれキメとなるリズムが刻んであります。Bメロの解放感とともにいったん頭打ちに戻る。ここは是非音源と照らし合わせながら繰り返し聞いてみて下さい。

アタマノリにも取れそうな口ずさみやすいフレーズが、実際には精密機械の如く正確無比な「アタマをくう」リズムだった。ブラジル音楽の持つ底知れぬ闇(最大級の賛辞)がここに凝縮されています。主宰もこのからくりに気付くまでに数年単位の時間を要しました。文字情報だけで果たしてどこまでこの凄さが伝わるか。

何度数えてみても曲中で拍が裏返ってしまう。おかしいな、どうみても4拍子のままなのに。高校生の時分、そんな不思議な感覚を味わったのはこの曲を除いて他にはありませんでした。頭の中でパズルのピースがすべて揃えられた時の爽快感。皆様には何年かかって味わっていただけることでしょう。今なお鮮烈な印象が残る1曲です。

安藤裕子/Green Bird Finger./2006

「抑揚」のあるドラミングについての考え方やスタンスそのものを、根底から覆された名曲。あえて大袈裟に書いておきます。ドラマーは元Polaris坂田学。サックス奏者・坂田明を父に持つ音楽界屈指のサラブレッドです。近年では冨田ラボをはじめ多くの作品で、幅広いジャンルを取り込んだ彩り豊かなドラミングで名演を残し続けています。

曲の構成としてはAメロ→Bメロ→間奏部分→Aメロ…といったサイクルで進行していきます。途中ブリッジ的に裏サビを挟みながらも、転調後は同様の進行に戻っていく。つまりカギとなるサビが一切なく(メロ部分すべてがサビと捉えることもできます)疾走感はありながらも終始モーダルな印象。先に書いた「抑揚」をつけにくい非常にテクニカルな構成です。

ここで坂田氏は求められるドラミングを衝撃的切り口から表現してみせます。それは「スネア倍音」を自在にコントロールすることで曲に「抑揚」をつけたという点。絶対音感のある方にはさほど時間を要さず理解していただけると思います。AメロBメロ間奏部分、各セクション内でも局地的にスネアの倍音がまったく異なっている。あまりにも悪魔的思考。

そもそもスネアドラム、いわゆる小太鼓は叩く位置によって付随的に鳴る倍音のキーが変わります。甲高い音から、低音主体のサウンド、あるいは倍音を抑えたものまで。決して闇雲に叩いているわけではないと感じます。緻密に計算されたアットランダムともいえるでしょうか。かなり専門的な内容をカジュアルに書いています。正直ここらへんはスルー推奨。

たしかに一定のチューニング内で、曲の展開やコード進行に合わせ「スネアの倍音」を微調整し、音楽そのものに溶け込んでいこうとする姿勢はむしろ音楽的スタンスとして実に自然な流れともいえそうです。類稀な技術センスなくしてこうしたドラミングは生まれません。坂田氏のこれでもかという職人気質を目の当たりにする1曲でした。

Myele Manzanza/On The Move ft.Rachel Frazer/2012

16ビートとも違う、シャッフルビートとも違う「バウンス」した独特のノリ。これはヘタウマかあるいは。10年代のジャズ界に彗星の如く現れた新星Myele Manzanza。日本ではまだまだ知名度が低く、好事家に愛されるミュージシャンという域を脱しない感はありますがしかしそれでいて実に味のあるドラミングが魅力です。

音符では表現し切れないリズムというものが存在しているような気がします。前ノリ後ノリ、走るモタる、突っ込む反り返る等々さまざまに形容されるものがそれにあたるでしょう。ロックを感じるドラムだねえ、お前にはジャズを感じないんだよ等々もそうでしょうか。だんだん怨念じみてきましたね。他意はありません。先に進みましょう。

先述の「バウンス」したノリも楽譜では表しにくい。該当する音楽記号もすぐには思いつきません。例えばレゲエ音楽のもったりながらも着実に推進していくリズム、アフロキューバンに顕著な音価の長いねばっこいリズムにも通じる。彼の出身地ニュージーランドも近年ネオソウルの聖地として再評価を受け、多層的なルーツの一端をうかがい知れるところです。

懇切丁寧なのか、あるいはクラブミュージック的アプローチか。曲の終盤、自らの持つ「バウンス」感を見せつけるかの如くドラムサウンド一本勝負に転じる箇所があります。これはリズム/ドラム分析に主眼を置く当ブログにとって非常に資料的価値が高く、大きな加点ポイント。よって取り上げざるを得ない。まんまと乗せられた格好ですね。

こういったリズム感覚を養うためのもっともらしい方法論について考え、本稿の締めに代えます。端的に「学びは真似び」これに尽きると思います。曲を流し聞きしながら合わせて叩くこと、あるいは映像と照らし合わせながら、場合によっては再生速度を上げ下げして。つくづく便利な世の中になりました。ロック精神が足りねえよロック精神が。

The Hics/Whole Other/2014

Jose Jamesバンドで人気を不動のものとした感があります。Richard Spaven。日本が世界に誇る楽器メーカーYAMAHAの小口径セットと、トラッシーなサウンドが魅力なシンバルメーカーMeinlを操り、ジャズドラマーにありがちな細身ヒョロヒョロな出で立ち。ドラムショップの回しモンか?自分でもびっくりやわ。

彼のドラミングをズバリ「支点」「力点」「作用点」の3つで紐解きます。まず「支点」。これは彼のスティックの握り方を指します。実に特徴的。長く持つか短く持つかでもサウンドに大きな違いが生まれますが、彼の場合はもうきわっきわもきわっきわを持ち、時にアヒトイナザワを彷彿とさせるカマキリの手先のような折れ曲がった手先。頭痛が痛い。

そこから繰り出される「力点」を絶妙にずらしたビート。卑近な例でいえば行進曲の4拍子は大中小中の抑揚で演奏されるのが暗黙のお作法ですが、彼の場合は起承転結に合わせ大中小が自在に変化していきます。一瞬でも気を抜けば曲の頭拍を見失う、目印のない森に迷い込む。初見の方はそのくらいの感覚に襲われるはずです。ますます頭痛が痛い。

「力点」が動くことで「作用点」も変化します。Charlie Parkerのような曲の小節を跨ぐ文節の切れ目が見えにくいフレーズ感、Wayne Shorterのように不規則に微積分を繰り返す独特の浮遊感がそれに類するものでしょうか。ビートミュージックの文脈で語られがちなドラマーですが、基礎にはこうしたジャズの理念が着実に息づいているのだと感じます。

ドラマー人間工学。ぱっと見誇張表現でも、奏法やアプローチには必ずそこにたどり着いた経緯や理由が存在するもの。表面化した結果だけでなく、水面下の過程にも思いを巡らせること。音楽を点で捉えるだけではなく線で捉える姿勢の大切さ。言うは易しですが、主観的だってここまで考察が落とせるわけですからね。頭痛はすっかり収まりました。

Sam Crowe Group/Circles/2013

ポリリズム」。主宰の超得意分野が満を持しての登場です。ドラマーは泣く子も黙るMark Guiliana。故David Bowieの遺作に添い遂げたことで、世代ジャンルを超えて多くのリスナーを生みました。トランスクリプション不可能なほど細かいパッセージ、大胆不敵すぎる抑揚感から繰り出されるフレーズがどことなくポップに聞こえてしまう不思議。

イスラエルジャズを中心地として一気にメインストリームへと駆け上がった感のある「1拍5連符」的リズム。リリース時の2013年はまさにこの渦中にあり、作中でも惜しみなく取り入れられています。それまでの「ポリリズム」とはまったく毛色の違う、拍子で遊ぶ時代はもう終わった、これからは拍を細分化する時代なんだという新たな潮流。

JAZZ研の後輩に、拍子が取れない曲があるんですけど、とライブの幕間に声をかけられたことがきっかけでした。Ivan Linsの一件(前述)で要領を得た感があり、こういうことなんじゃない?と返してあげるとなんとも腑に落ちない表情で後輩はまたイヤホンを付けたのでした。愛の反対は無関心と申します。好奇心を忘れず歩んでまいりましょう。

一体なにを書いているんだ?大切な分析を忘れていました。この曲で採用されている「ポリリズム」はさらにその先を行く複層的なものです。かいつまんで説明しますと曲の前半は「1拍5連符」を駆使した5拍子、しかもSam Crowe(pf)のリズムを基軸に据えると4拍子にも聞こえるという細かな仕掛けが盛り込んであります。正直ポカンですよね、先に進みます。

さらに後半でドラムソロを挟むと曲は突如4拍子に変わります。イントロの伏線回収、これ以上ないほど理想的なサンドイッチ構造。ここがすごい。本当にすごい。語彙力を失うとはまさにこのことです。ちなみに日本でいち早くこれに似た手法を取り入れたのが菊地成孔氏率いるDCPRG。「構造Ⅰ」という曲が代表例です、是非聞き比べてみて下さい。

The Most Serene Republic/You’re Not An Astronaut/2006

音楽ことドラムにおける「波の押し引き」について考えてみたいと思います。蛇足ですが前置きとして、主宰は短命バンド、また在籍期間の短いミュージシャンほどこよなく愛してしまう特殊な趣味を持っています。すいません。The Most Serene Republicも解散こそしていないものの、比較的人の出入りが激しいバンドとして知られています。

ドラマーはAdam Nimmo。17年に及ぶバンド歴の中にあって、在籍期間わずか2年。もちろん諸々の事情があるのでしょうが、その後もサポートメンバー等を加えつつようやく現体制に落ち着いたというところに、活動継続の難しさや不安定さを感じずにはいられません。主宰にもいくらか思い当たる節があります。音楽は一筋縄ではいきません。

言い換えればそうしたファクターも音楽のエッセンスたり得るのだと思います。音楽における「押し波/引き波」はまた、バンドにおける波模様をも映し出す合わせ鏡です。前置きと言いつつふわっと本筋に入りつつありますよ。少なくとも関西JAZZ研界隈では、主宰が最もAdam Nimmoに惚れ込んでいたことでしょうからねムフフフフ。

イントロ16小節を聞いてアダムの虜になりました。あまりの傍若無人さに、5拍子であることも感じさせないほど。主宰クラスになるともはやアダム呼びです。それはともかくとして、金物類は突っ込み、太鼓類は後ノリといういにしえから続く名ドラマーの系譜に間違いなくアダムも連なっているのだろうと確信できました。なにしろ名前がアダムですからね。

冒頭記した「波の押し引き」の正体がこれです。無機質なクリック音に合わせて叩いているであろう4分間の中にも、非常に有機的な波を感じます。正直上手いか下手かの判別がつきません。おもわず飛び出してしまったアダム呼びも決して色物的扱いというわけではなく、10余年経った今でも新鮮な気持ちでこの楽曲に向き合える大きな要因なのだろうなと。

Nine Inch Nails/With Teeth/2005

「引き算で音楽する」というフレーズに馴染みがありますか。2枚組『Fragile』リリース後長い休養期間を経て待望の新作。馴染みのバンドメンバーに加え、Dave Grohlがドラマーとして参加したことでも大いに話題を集めました。バンド仲間の突然死を経験、また業界屈指のユーティリティプレーヤーでもある。なにかと共通項が多いこの2人。

この2人の長きにわたる関係性については、後刻、別記事で取り上げることとしまして。本稿では旧友Jerome Dillonが参加した最後の音源(※2020年時点)である当楽曲を被験対象に、スペーシーなドラミングが持つ無限の可能性について、暑苦しく暑苦しく語っていこうと思います。ドラムを叩かないことが、実は一番ドラムを叩いているということなのだと。

乗っけから拍感を失います。レコーディングルームの空気振動まで拾い集めたような繊細な音場。必要最低限の上モノしか鳴らさない、実にTrent Reznorらしいコンプの効かせ方、終始息苦しいほどの緊迫感。完成テイクに行き着くまでに、相当の試行錯誤があったのだろうと推察されますが、特にドラムパターンには強いこだわりがありそうです。

よくドラムセットの最小単位に数えられる3点セット。基準となる音作りはおそらくここかなと。8ビートあたりから叩き始めたでしょうか、途中で無駄な音が多いことに気付き、足し算の音楽から「引き算の音楽」に移行。極限まで贅肉を削ぎ落とした結果、金物をエフェクト的に、リズムマシーンを微かに鳴らすタム中心のパターンに落ち着いたと推理。

あるいは闇雲にリズムマシーンを鳴らしながら、肩肘ついて考え始めたのが出発点だったかもしれません。前述の「微かに」鳴っている音はその名残と解釈することもできそう。なにせTrent自身もドラマーですから、最初のビート選びがどれほど重要か痛いほどわかっているはず。「歯を食いしばって」というのはこういうところから来たのかも?

くるり/花の水鉄砲/2004

「時として主役を食う」を地で行くドラマーに出会ったのは、もう15年以上も前の出来事になります。Christpher McGuire。平成のJPOPドラム史に間違いなく刻まれる名前であることは疑いないところでしょう。多感な中学生の時分に、彼の衝撃はあまりにも大きすぎました。何から書き始めてよいかいまだに決めかねています。

彼を語ることはすなわちドラムという楽器を語ることと同義だといえそうです。名脇役、スーパーサブ、縁の下の力持ち。数え切れないほどのペットネームを与えられし神聖な楽器です。歌うドラムという節回しもあるほど。特に印象的なドラミングとして「ロックンロール」を挙げる方が多いのでは、との目算から今回あえてこちらの楽曲をチョイスしました。

静と動。陰と陽。起承転結。疾風怒涛。知っている単語すべて並べましたが、彼のドラミングを形容するには正直まだまだ足りないと思います。情動的であり冷笑的。機械的であり泥くさい。でももう書くスペースがない。とはいえ最も魅力的に映るのは、「時として主役を食う」にしたってあまりに度が過ぎてしまっているという点です。

ドラム/リズム分析を標榜しながら、ここまで具体論に欠けるのはさすがにやりすぎかと思いますが、致し方ありません。箸休めにこういうコラムも悪くないですよね。論より証拠、岸田氏の「『アンテナ』はクリストファーのアルバム」というあまりに有名な一説だけWikipediaから堂々剽窃しておきます。彼の功績を実に端的に言い表してみせました。

ともかく重要なことなので繰り返しますが、「時として主役を食う」ことができるからこそドラムは素晴らしいという基本方針がある。常日頃から俺が主役だ、では音楽が成り立たず独りよがりな印象がどうしても拭い切れない。ところがそれはあくまで基本方針にすぎないのであって、結果論、くるりというバンドすらも吞み込んでしまったということです。

AC Trio/Conception/2009

「シンバルレガートの妙」。ここまでスウィングジャズが1曲もないという異常事態。しびれを切らし突然のカットインです。ベーシストAnders Christensenが新旧の名手Aaron ParksPaul Motian2名を迎えた意欲作『Dear Someone』。非常に高い完成度に反して異様なまでのプレゼンスの低さ。絶対に埋もれてはいけないアルバムの1つです。

Paul Motianの独創性はリバーサイド4部作を聞くだにもはや証明不要、疑いようのないところでしょう。ジャズドラムにおいて独創性という言葉は彼の為だけにあるのかもしれません。2分4分8分音符を中心に独特のパルスで刻まれる「妙なシンバルレガート」。音を、敷き詰めるのではなく散りばめるというスタイルは本作でも健在です。

話し手と聞き手を自在に行き来する、名司会者的バランス感。独創的なスタイルはなかなか他プレイヤーと相容れない部分もあるものです。ところが彼のドラミングは決して一方通行にならず、むしろ多様性を引き立たせている。ありのままを表現し合えるハコ空間が自然と形成されていくさまは圧巻です。この空気感に得も言われぬ既視感がある。

先に挙げたリバーサイド4部作の空気感そのままです。ラファロの躍動感、エヴァンスのアイデアスケッチ。単なる焼き回しに終始しない、自分史の更新。共演した故人との思い出に浸るばかりではなく、世代間の融和を図り着実に未来に向かって歩を進めていく。人生が音楽を紡ぎます。これが人生か、これが音楽かと思わされる至福の時間です。

Geri AllenEtudes』やChick Corea『Further Explorations』といった盤でも、Paul Motianのこうした非凡な音楽性が随所にみられます。長年ファンを続けてきたが故の戯言シリーズですが、やはりピアノトリオというフォーマットが彼の持ち味を最大限まで引き出している要因ではなかろうかと推察します。

Brad Mehldau/Into The City/2010

「一回性」を突き詰めていくということ。ストーリー性豊かな2枚組の傑作『Highway Rider』は、ソロ作を経由しさらにジャンル横断的に発展してきたBrad Mehldauの音楽を、漏れなくダブりなく集大成的にパッケージングすることに成功したアルバムであるといえます。ドラマーはJeff Ballard。ゲストにJoshua Redmanも参加しています。

人力ドラムンベース。主宰が思うJeffの真骨頂です。RadioheadKnives Out」のカバーや、Kurt RosenwinkelMinor Blues」でのプレーに代表されるようなパーカッシブなレガートは唯一無二。中心市街地の網目を車が縫うように、猛スピードで駆け抜けていくイメージでしょうか。疾走感と緊迫感のコントラストが本当に見事です。

主宰目線、ほぼほぼワンテイクでの録音だったのではと推察します。その証拠に、曲の中間部分でおもわず拍がひっくり返りそうになっている箇所が生々しく記録されています。「一回性」が魅力のJAZZですら、こうした部分を消去/編集加工して製品化するケースは少なくないはずです。ところが、あえて糸のほつれを残したところがなんとも粋。

拍が裏返ろうが、構成に不備があろうが、最後まで音楽を止めない。ハプニングが起こってこその音楽ということかもしれません。意図せず生まれたライブ感をスタジオ音源としてパッケージに残す。再現性ではなく「一回性」を突き詰める。神は細部にこそ宿るといいます。ちょっとした神様のいたずらだったのかもしれません。

学生時代、ビルボードライブでこの曲の演奏に触れる機会がありました。スタジオ版に劣らぬ実験精神に溢れた、それでいてどこか抽象画の世界に踏み込んでいくような不思議な感覚に襲われました。演奏を重ねることで、バンドとしての一体感は増していく。ところが一度として同じ演奏は生まれてこない。

やけのはら/CITY LIGHTS/2013

多種多様なリズムがこれでもかと凝縮された、世の打楽器奏者たちをおもわず唸らせる名曲。当コラム初となる打ち込み形式の楽曲を取り上げます。2013年リリース『SUNNY NEW LIFE』からのリードトラック。ゲストキーボーディストはDORIANLUVRAWとKJのヴォーカルが曲に絶妙なアクセントを加えています。

打ち込みのビートに限らず、シンセサイザーなど楽曲中に登場するありとあらゆる音が混ざり合うことで、複雑で多面的なリズムが形成されていきます。つまりすべてがリズム楽器になっている。鍵盤楽器も広義に解釈すれば「打楽器」に分類されますからね、とても理にかなっているといえるわけです。

「どこ」から始まるやけ氏のリリックが纏う小気味良いリズム感は、楽曲の駆動系にあたるとても重要な部分です。本当に心地良い。フレーズのアタマ部分がカギとなっていますので、都合FF車という設定にしておいて話を進めていきましょうか。歴史あるお着物のよに、リズムがここまで華麗に、幾重にも織り込まれた楽曲を他に知りません。大袈裟でなく。

頭ノリのリズムもあれば、裏打ちのリズムもある。あるいはその中間択も。つまり1つの楽曲という「道路」の中をFF車、FR車、4WD車それぞれが自由意思で走り回っている。様々な方向から、対角線状にあるいは放射状に。「CITY LIGHTS」というタイトルからもわかるように、それが街明かりを連想させるというストーリーなのだと主催は解釈しました。

実に小説的。実に映画的。名は体を表すといいますが、ここまで壮大なギミックが隠されていたとは正直驚きました。といっても主観全開なんですけれども。音階楽器と打楽器、といういにしえより伝わる分類方法には些か限界があるのかもしれませんね。すべてがリズム楽器になり得るのだというこれ以上ない実証例です。

Otis Brown III/The Way (Truth & Life)/2014

「奇数拍子」ここに極まれり、の一言。新進気鋭のドラマーOtis Brown IIIが名門ブルーノートレーベルから放つ問題作。Derrick Hodgeプロデュース、John EllisRobert Glasperといった豪華客演陣が英知を結集させ、老若男女問わず異様な盛り上がりを見せつつある現代シーンの温度感をそのまま閉じ込めたような作風となっています。

「奇数拍子」といえばDave BrubeckTake Five」が長く頂点に君臨し続けてきた印象でしょうか。その牙城を揺るがしかねない新たな名曲だと感じます。ぱっと聞きだけでは、ああコンテンポラリーだな、今っぽいなで終わってしまう。それはあまりにも。シンコペーションアウフタクトを駆使し細部まで計算され尽くした新時代の7拍子。紐解いてまいります。

ベースBen Williamsの特徴的なリフはアウフタクト入り、つまり「アタマをくっている」形。時間を置いてGlasperとOtisが加わってきますがここもアウフタクト。管楽器が合流しようやく全員集合、しかしここもやはりアウフタクト。カラオケにガイドメロディがあるように、裏打ち主体の楽曲では表打ちのリズムがガイドとして配置されていそうなものですが。

特にガイドらしいガイドもなく、妙な浮遊感を持ったままするするっと曲が進行していく。7拍子であるという正体を悟られまいと交通標識もない道を奔走していく。「Truth & Life」なんて仰々しい曲名が付いていますが、掴もうとすればするほど逃げていく、理解しようとすればするほど袋小路に迷い込む、そんな人生を暗喩しているとでもいうのでしょうか。

一定のパルスであることは主宰もすぐに聞き分けられました。ただ問題は拍子数。頭打ちのガイドのない特徴的なリズムに相当手を焼きましたが、晴れて7拍子であるという確証を得ましたのでここに堂々情報解禁。なんとなーくかっこいいなで終わらせずに、かっこよさを徹底的に解明すること、克明に記録すること。仕事依頼はこちらのフォームまで。

Laura David/Pensativa/2016

こちらは「鋭意解明中」。前代未聞、分析途中の資料をどどんと掲載です。終わってないんかい。Bandcampで人知れず出会い、リリースから早4年が経過しました。それでも尽きることのない探求心。ってか誰か詳しい方いたら教えて下さいよーこの複雑高度なメカニズム。ホンマ謎なんすよー。

体操種目に例えるならば段違い平行棒ですね。つまりリズムが複数段構成になっている。段組みが細かく分けられ、パート別に順序良く繰り出されてくる。個々の拍子およびリズム感の分析にはそれほどの時間を要しません。ところが問題なのは移行過程。ポケモンが進化する時ってなんかこう、うっすら前後の姿が比較できるじゃないですか。あれが一切ない。

Gretchen Parlatoを彷彿とさせるショートカット美女のジャケ写。収録内容は聞く前からそれなりに予想できました。事実、ほぼその予想の範疇で進行していきます。ディスっているわけじゃないですよ、スタンダード曲リハモコンテンポラリーな雰囲気そのどれもが味わい深い。謎を謎のまま解決し切らないところにもGretchenのイズムが垣間見られた。

ところが返す返すも難曲「Pensativa」の全容解明には依然至っておりません。曲の中で拍子が変わるというのは20世紀にもよく起こったことで、さほど物珍しさを感じる時代でもなくなったのかなという印象。それでもなおリズム感/拍子感の進化は止まりません。枯れた技術の水平思考?典型的ないたちごっこになり始めています。

メインストリームとこうしたニッチな線の違いってどこらへんにあるのでしょうね。売れている音楽=良い音楽、などというつもりは毛頭ありませんがLaura Davidがやや不当な評価を受けつつある現状を嘆かずにはいられません。だってもう4年も聞いているんですよ、4年聞いてもなお新たな発見がみられる音楽。きっと素晴らしい音楽に違いないですから。

Branford Marsalis/In The Crease/2000

これが20世紀最晩年のJAZZサウンドだったという事実、驚かずにはいられないですね。「拍子数を足し算していく」というあまりない手法が用いられた楽曲を紹介。テナーの名手Branford MarsalisとサイドマンJoey CalderazzoEric RevisJeff Wattsによるカルテット盤。ズバリ『Contemporary Jazz』というタイトルを掲げた記念碑的作品からひとつかみ。

この楽曲の譜面ファイルをネット検索すると、本当に膨大な数のデータが出てきます。見る方によっては誤差の範囲に映るやもわかりません。しかしながらリズムや拍子の解釈に違いがみられ、音楽に正解はないこと、理解よりも感受していこうとする姿勢こそが勝るのだということが紛れもなく証明されたな、と心底感じました。主宰の解釈は以下の通りです。

法学部卒っぽく見せるために通説、近時有力説の二派に分けて解説。通説の立場は「In The Crease」という題名そのまま、要するに「拍子数を足し算していく」ことに主眼を置いた構成が組まれているとする立場。主宰もこの立場を採用しています。他方、20年近い研究の中で新たに「4拍子のまま突っ切れる」可能性を示唆したのが近時有力説。これが興味深い。

たしかに小節数の勘定問題というだけなら「4拍子のまま突っ切れる」ようです。さらっと検証済み。Branfordの手元にある正式な譜面の中には、果たしてどちらのパターンで記載されているのでしょうね。つまびらかにしてしまいたいような、したくないような。どこまでも深読みができてしまう奏者なだけに、ゲスの感繰りは止まりません。

近時有力説が生まれてしまうのが音楽の一番面白いところです。つまり時代が変われば聞き方も変化する。知らなかった音楽が当たり前の音楽に変容する。リテラシーが向上する。心の贅肉がおもわぬアイデアを生む。リズムに強い若者が近年増加傾向にあるという事実。20年代の音楽界からますます目が離せませんね。

Lonnie Plaxico Group/Ancestral Devotion/2009

前述のBranford Marsalis「In The Crease」と是非聞き比べていただきたい1曲です。正真正銘「4拍子のまま突っ切れる」ナンバーとなっております。ある意味こちらの方が衝撃度が高いかもしれません。いまやM-BASEの代名詞となったLonnie Plaxicoのクインテット編成でリリースされたアルバムよりタイトルチューンをどうぞ。

業界随一のツンデレとして知られるLonnieですので、おいそれと4拍子だよー、なんて態度は見せてくれません。いや。正確にはツンデレらしく時折見せてくれてはいる。シンコペーションを多用しリスナーの拍感を絶妙に狂わせたところで、すかさず次のギミックを挟み込み軸をずらす。サル捕獲ゲーサルゲッチュ、とでも言いたげな終始逃げまくる音楽性。

掴みどころのないそれでいてどこかキャッチーなメロディ。調性があるようなないような釈然としないそれでいて癖になるコード進行。甲高いチューニングが時にパーカッシブにストレートアヘッドに刺さってくるドラムサウンド。人を選ぶ音楽ですね。強烈にハマる人、強烈に飽きが来る人。大きく二分されそうな予感がしております。

古くはGreg OsbySteve Colemanから続く非常に歴史ある、息の長いジャンルです。詳しくはWikipediaをご覧下さい、Steveの掲げるコンセプト等事細かに記載されています。妙に投げやりだな?主宰も実のところ、実態を把握し切れぬまま聞いているジャンルの1つです。見識は深めたい、でも理解し切ることはおそらく不可能。その狭間で揺れています。

文武両道、なんていえば聞こえは良いですが。体育会系のフィジカルの強さも求められつつ、勘定に強く高い情報処理スキルが要求されるという点では理系の音楽ということもできる。これぞハイブリッドですね。ジャンル横断的、時代を超えた音楽がヒットチャートを賑わせる時代になりましたが、その源流を作った1人と呼んで差し支えないかもしれません。

BOOM BOOM SATELLITES/FOGBOUND/2000

「再現不可能なリズム」日本が世界に誇るバンドの代表曲を取り上げ解説していきます。惜しくも2017年、川島道行氏逝去後のラストライブで27年に及んだ音楽活動に終止符を打ちました。ロックバンドという括りに決して縛られないジャンルレスな音楽性は今なお唯一無二の存在感を放ち続けています。無論、主宰も直撃世代です。

PS2と同時リリースの専用ソフト「Ridge Racer V」のオープニング曲として起用され、2000年当時大きな反響を呼びました。ある意味、国内外問わず彼らのプレゼンスを一気に高めたナンバーといっても過言ではないでしょう。2001年UMBRA』には別アレンジとして収録されており聞き比べてみると非常に面白いのではないかと思います。

さて本題です。初期BBSサウンドの大きな特徴として、ドラム音源を大胆にカットペーストすることで生まれる複雑なリズムが挙げられます。波形を細かく切り刻んでは編集し、人力では再現不可能なビートに再構築。4つ打ち色が強まっていく活動後期までこのフォーマットは続きますが、特に2000年前後の作品で特にこのアプローチが際立っています。

サンプリングとはまた違ったニュアンス。ドラマー・平井直樹氏の功績が光る。アナログとデジタルの狭間を揺れ動きながら、リアルタイムで刻々と変化していく世界観。打ち込みとドラムサウンドの同期という今でこそ当たり前のスタイルも、当時かなり物珍しく映ったものでした。ライブの度に生まれ変わる印象。20年前から常に最先端をひた走り続けたBBS。

AIと人間が共存共栄していく世の中がもうすぐそこまできています。教科書的に書くとすれば「FOGBOUND」はそれを20年前からすでに予期していたということに他なりません。時代がようやく彼らに追いついてきた。リスナー世代のバンドマンを巻き込んで波はさらに日々大きくなるばかりです。

Underworld/Twist/2002

Darren Emerson脱退後、2人体制での初リリースとなった『A Hundred Days Off』。アナログながらもデジタル、ミニマルながらもアンセミックな傑作。とりわけ3曲目に収録されたこの楽曲が主宰目線、特に民族音楽色の強い「制作風景が思い浮かぶ」非常に映像美ある音楽に仕上がっていますのでご紹介します。

ダンスミュージック全体を見渡しても、2000年代付近は大変革期だったと断言できます。電気グルーヴから砂原良徳氏が脱退、Massive AttackからDaddy Gが離脱していたのもちょうどこの時期。世紀末感あったんですかねえ。ともかくユニットの人間模様のみならず音楽性の氾濫も同時発生的に続いていた時代。ここまでが後述内容の前段です。

そんな中にあって、生き生きとした軽やかに聞けるアルバム。歌モノすぎずインストすぎない。過不足のなさとバラエティ豊富な楽曲群。あととにかくですね、Karl Hydeがコンソール前で踊りながら作曲活動する画が浮かぶ。両手に民族楽器を抱えながらRick Smithが横でツマミを静かにいじっている。ダンサブルなアットホーム感。

1曲目の「Mo Move」からサウンド自体は非常にシリアスで内省的な印象。シングルカットされた2曲目「Two Months Off」はこれぞKarl Hyde劇場というアッパーチューンですが、そこから再び精神世界に戻ってくる3曲目。この辺りのコントラストも絶妙です。テンションメーターが振り切れてしまわずに、きちんとニュートラルに帰結する。

ダンスアルバムならではの無調感も相まって。音楽の系譜としてはJAZZの孫世代に位置するのがダンスミュージックです。さらに小さな枝が伸び、細かく分化しては成長を続けています。アルバムリリースからぼちぼち20年、そろそろルーツを見つめ直すべきタイミングなのかなと思い筆を執った次第であります。

Lianne La Havas/What You Don’t Do/2015

一端のドラマーらしく教則本的に、個々の拍子にもスポットライトを当てその魅力を深堀りしてみましょう。今回は王道「ハチロク(6/8拍子)」編、当ブログに事あるごとに登場するでお馴染みのディーバ・Lianne La Havas。耳タコの超が付くほどの名盤『Blood』に収録されております、実にクラシカルな「ハチロク」ナンバーより。

大きな見せ場こそありません。言い換えれば、最初から最後までクライマックスたり得るというのが「ハチロク」フォーマット最大の音楽的武器。名曲確定演出とまで言い切りましょう。それだけ神聖な領域であるため必然的に難易度も高まります。音楽界のエベレスト。どこらへんが難しいか、ズバリ大きな見せ場がないという点です。

この、一見ただの循環論法にしか見えない部分こそが「ハチロク」の底なし沼的魅力に繋がっている。まーだ話がグルグル回ってますね。こんな調子で一定のパルスを刻みながら曲が一歩一歩進行していく音楽。足取りは軽くしかしずっしりとしている、この酸いも甘いも嚙み分ける雰囲気こそが「ハチロク」。解説のようで解説になっていない感。

リズムの重心をどこに置くかに関しては諸説あると思います。ここはフレキシブルに。こと楽曲内では「バスドラム」が一つの目印になっていそう。Aメロでの比較的大きな円運動が、サビ付近ではより細かい円運動に変わっていくのがわかります。大きくはこの二段構成。見せ場なしとは言いつつもなだらかに着実に音の濃淡を積み上げては崩しの繰り返し。

「ハチロク」の何たるかを心得たLianne La Havasならではの世界観。弱冠20代にしてこの貫禄。あえて金物の鳴りを最小限に抑えたドラミングもおそらくオーダー通り、70年代サウンドを踏襲する音作りによるものでしょう。どこまでも確信犯的、これを聞けば「ハチロク」のすべてがわかる。音楽の教科書に載せるべき名曲です。

尾崎由香/僕のタイムマシン/2018

ドラムにおける「ブランディング」について考えます。TWEEDEES(清浦夏実・沖井礼二)の全面プロデュースで制作された1曲。ざっくり20年周期といわれる音楽業界のリバイバルブームに乗っかって近年、渋谷系の再評価も加速度的に進んでいます。往年の「沖井サウンド」は健在。時代を超えて愛される普遍的音楽であることを証明しました。

ドラムサウンドに関しては全編打ち込みですが、Cymbals矢野博康氏のテイストが今もなおしっかりと根を張っている印象。細かい連符の応酬、鳴りやまないトップシンバル、ややオーバーフロー気味なハイファイ寄りのミックスダウン。どこから切り口を入れてもやはりきれいさっぱり「沖井サウンド」という仕上がりになりますね。

これこそが本稿のテーマ「ブランディング」という部分に繋がってきます。例えばクリエイターに冨田ラボこと冨田恵一氏がいますが、彼もマルチに楽器を操り一人で全トラックを制作してしまいます。ドラムサウンドにも主となるサンプル音源がしっかり存在しており、そこに着色を加えることで楽曲の色付けの仕方も細かく変化させています。

沖井礼二氏にもそれに似たオーラを感じる瞬間があります。他クリエーターとの明確な差別化。渋谷系というジャンルに飽き足らず「沖井サウンド」というそれまでにないまったく新しい音楽を生み出した時代の寵児。模倣するだけでは新しい価値が生まれないこと。解釈こねくり回すだけでは浅瀬で終わること。身もつまされる思いです。

例えばDJイベントとして競合他社と差別化を図ること。独自の「ブランディング」を深化させていくこと。ある意味では勝ち負けや優劣を超越していくこと。ドラムにおいても同じことがいえそうです。ごまんといますからドラマーなんて。相対評価だけでは埋もれてしまう。One Of Themにはなりたくない。かといって奇をてらうだけでは面白くない。

Efterklang/Swarming/2004

一端のドラマーらしく教則本的に、個々の拍子にもスポットライトを当てその魅力を深堀りしてみましょう企画の第2弾。「9拍子」にまいります。デンマーク語で「記録」「影響」を意味するEfterklang。管弦を交えた9人編成という大所帯から奏でられる音楽はまさかのエレクトロニカ。すべてが規格外。これぞ先鋭的な北欧デザイン

一口に「9拍子」といってもなかなか奥深いものですよ。たとえば3+3+3という3小節周期で演奏される「9拍子」もあれば、4+5あるいは5+4というハンパに残すスタイルの「9拍子」もある。この曲における解釈も意見が分かれそうですが、主宰目線は後者に近い立場、もっと踏み込めば4+4+1という変則系ではないかと考えています。

通常通りいけば4拍子のまま進行しても十分すぎるほどのトランス感を得られそうな音場、そこにあえてプラスワンすることで独特の突き放す感覚、猛烈な異物感に襲われる。それを程よく浄化してくれるストリングスライン。アクの強さと自浄作用を併せ持つEfterklangの恐るべきバランス感覚がここに凝縮されています。

例えば5拍子では3+2あるいは2+3という素因数分解が主流なのではという実感がありますが、あるいは4+1という考え方も数字の上では可能ということです。ハンパに1残す。あまり聞いたことのない形ですよね、面白そう。そうやって拍子を細分化する発想は、リズム楽器のみならず音階楽器にもかなり生かせそうです。

拍子数を変えずに、分解する単位を変えながら曲が展開していくようなフォーマットも面白くていいかもしれませんね。例示すると、同じ7拍子なのに4+3と3+4という割り振りで交互に演奏されるリズム。かなり実験音楽的領域に入ってきますが、ポップソングでアウトプットすることも十分可能ではないかと思います。誰がやるのか知りませんが。

阿部芙蓉美/trip -うちへかえろ-/2008

「擬態する」という作業について得意の抽象論を展開。ピクサー配給作品の日本語版イメージソング、CDTVのマンスリーソングにも採用された知る人ぞ知るSSW阿部芙蓉美の逸作。作曲・谷本新。Aメロから始まるブラシワークに注目していただくと、電車に揺られながら帰路に就く主人公の様子がすぐさま映像で浮かんでくるはずです。

クラシック曲の歴史を振り返ると、例えば「オリエント急行」における曲冒頭のブラシ表現がそれに近いフィールを感じますね。列車が走り出す瞬間。ドラムあるいは打楽器を用いて何かに「擬態する」という作業は、闇雲に何かを「表現する」といった段階とは違う、一歩も二歩も踏み込んだより上層的な考え方であるといえそうです。

草原を駆けるように、バンド全体を麻布でやさしく包み込むように、刃物のように尖った音色で。具体性があるようでいて実は抽象論に終始してしまう、そんなバンド指導に直面する場面は少なからず経験があります。精神世界を具象化できるのが芸事の醍醐味ではあります。しかし抽象世界ばかりに逃げていられるわけではない。難しい話になってきました。

草原駆けたことねえし。とぶっきらぼうに返すのもそれはそれでロックですが、一度駆けてみる姿勢も悪くはないのかも。主宰も行進曲の指導を受け、恥ずかしながら実践した経験があります。しかしそれは単なる辱めばかりではなく、いや正確には辱めメインですが、「擬態する」ための重要な1ステップだったのだと。

「擬態する」のにも具体的イメージが必要なのだという経験則。具体化するための具体策。なぜ?を繰り返していくと本質にたどり着くと噂のあの忌まわしき就活セミナーを思い出して下さい。催眠的要素も多分にありながら、なるほど痛い部分を突いてくる考え方でもあるのかもしれません。阪急電車に揺られながら本稿を閉じたいと思います。

Alice Smith/The One/2013

フィルイン」に関する極私的新機軸。2013年R&B大豊作の年であったことは好事家にはもはやお馴染みの事実だと思います。主宰自身、人生の愛聴盤になるであろう数々のアルバムに出会った1年でした。中でも際立って印象的だったドラムサウンドをご紹介します。1978年生まれ、遅咲きの新人Alice Smithが世に放つキラーチューン。

これもやはり70年代王道サウンドの継承者という感じ。トップシンバルはおろかタムも一切鳴ることなく、モーダルに進行していきます。場面転換に用いられる「フィルイン」も実にシンプル。バスドラム2打。スネア1発。といった調子。非常に男前で、肝が据わっている。長年の下積みがついに実を結ぶ瞬間に立ち会えたでしょうか。

「フィルイン」に本来求められているラインというのは、せいぜいここらあたりなのだろうとわかります。つまりドラマーが自己顕示欲を満たすためのポイントではなく、あくまで舞台転換のための「マーカー」代わりなのだということ。無論、ド派手な展開を演出するのにある程度のダイナミクス/手数は求められそうなものではありますが。

繰り返しになりますが、せいぜいここらあたりなのだという塩加減を理解すること。形式美を貴ぶジェントルなR&Bでは特にセンシティブな部分といえそうです。必要なラインをわきまえつつ、最低保証的スタンスでフレーズを紡いでいく姿勢。キッズにはわかるまい。自他共に認めるおじドラマーの年齢に、最近足を踏み入れたばかりでもあります。

末尾になりますが、前述した2013年発売のクラシックから補足的にもう1曲ご紹介します。それがEmily Kingの「Distance」。同様のわびさびドラミング、様式美アリと映りました。限りなく必要十分を貫き通すリズム構成で、出音一つ一つがヴォーカルと混ざり合い溶け合っていく感覚はまさに国宝級、感涙モノです。

Keith Jarrett Trio/Oleo/2007

記念すべき?20稿目になるようです。Keith JarrettOleoと聞いただけではアルバムの判別も演奏年代の判別もつきませんよね。タイトルは『My Foolish Heart』、2001年7月のモントルージャズフェスティバルでの演奏を抜粋しパッケージ化した2007年の作品になります。Keith復帰直後の時期にあたり、未発表音源のストックも多いとの噂です。

端的に、トリオ演奏として内容の出来はいまひとつであると言わざるを得ません。超暴論。ファンの間でも低評価が目立つ作品ではあります。ではなぜ取り上げたのか?批判を差し置いてなおJack DeJohnetteのドラミングが素晴らしいからです。特に当楽曲でのプレーは言い換えるなら煮えたぎった鍋、執拗なまでのあおり運転。とかく一級品です。

Keith、Gary両氏が決して本調子とはいえない状況下において、際立って光り輝いている印象。ある意味皮肉な話ではあります。Tony WilliamsやJack DeJohnetteに代表される特徴的なレガート。極めて硬質なシグネイチャーモデルシンバルから繰り出される、強烈なバックビートでありながら縦割りにも取れるビートの連続。

ツインペダルを踏んでいるのかと錯覚させるようなバスドラムの乱れ打ちにダブルストロークタム回しが絡み合う。ここ一番のポイントで休符が飛び出す緊張感。彼にしか表現できないワンアンドオンリーなアーティキュレーション。トリオ不調の境地を2人から託され(半ば丸投げ?され)たかのような音場に、おもわず息を吞みます。

アルバム単位では名盤とされるものが比較的ファンの間で似通ってきている節がありますが。主宰目線、曲単位で選ぶのであれば間違いなくナンバーワンに推すのがこのテイク。他プレイヤーと明らかに温度感の違う、別次元のドラミング。「トータルバランス」的には調整が保たれた形でしょうか。是非、珍盤奇盤のひとつとしてコレクションに加えてみては。


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