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【短編小説】てのひらの春

このジャンケンに勝ちたい。

祈る思いで、握った右手を左の手のひらで包み込んだ。

目の前では久嶋くしまさんが両手を組んで腕をくるりと回転させ、手の中をのぞいている。なにを出せば勝てるのかを探っているのだろう。

彼女も勝ちたいのだ。
あの言葉を言う権利を獲得するために。

「くっしーには似合わないじゃん、あきらめろよー」
クラスメイトの男子が久嶋さんをからかう。
「うるさいよ、そこー!」
久嶋さんが男子を指差していつも通り適当にかわすと、教室全体から笑い声があがった。

誰とでも分けへだてなく話し、ノリがいい。そんなおおらかなところが、彼女がみんなに好かれている理由の一つなのだろう。

そんなことを考えていたらジャンケンが始まった。

教卓の目の前の席のわたしと、窓ぎわの前から三列目の席の久嶋さん。
少し離れたそれぞれの席に立ち、勝負に挑む。

わたしと久嶋さんの手のひらに、三十人のクラスメイトと担任の越谷こしがや先生の視線が集まった。

緊張で激しく咳き込みそうになるのを必死で我慢する。久嶋さんの「ジャーンケーン」の声に合わせて、選びぬいた一手を振り下ろした。

次の瞬間、驚きの声、笑い声、がっかりする声、それを静まらせようとする先生の声。

「だから似合わねーって言ってやったのにー」
さっきの男子が、またも久嶋さんに絡んでいる。
「忠告ありがとう」と変顔で返す久嶋さんにクラス中から笑いが起こった。

盛り上がる教室。
その中でわたしは、さっき出したグーを胸の前で握りしめて、誰にも分からないように小さくガッツポーズを作った。
えある勝者はわたしだった。


「勝ててよかったねー、ふみちゃん」
学校からの帰り道、舞菜華まなかちゃんが笑顔を見せた。
家が近所でいわゆる幼なじみの彼女は、さっきのジャンケンでわたしが勝つことを祈ってくれた数少ない味方だ。
「うん。あの言葉、どうしても言いたかったんだ。よかった……」
わたしも舞菜華ちゃんに笑顔を向け、三月の空を見上げた。

三週間後にある卒業式。
式の中でわたしたち六年生は「呼びかけ」を披露する。あらかじめ決められた感謝の言葉を、卒業生全員がそのシナリオ通りに一部分ずつ担当して順に言うのだ。先生や在校生、両親や学校への感謝の気持ちを伝える。

先週、呼びかけの全文が書かれたプリントを配りながら越谷先生が言った。
「はい、みんな注目してー!
1組の担当は、冒頭の「春」という言葉から三枚目の六行目までです。誰がどの言葉を言うかを来週決めるから、これを読んで、言いたい言葉を決めておくこと!立候補で希望者が一名ならその人に決定。複数いる場合はジャンケンで決めます!」

クラス全体がどよめいた。
「どれにする?」と早速まわりの子に探りを入れている声があちこちから聞こえた。

呼びかけの言葉には、全員で声を合わせて言う部分もあれば、一人で発声する部分もある。

一人で発声する言葉には、長いもの、短いもの、かっこいいものなど色々あった。「春」とだけ言う人もいれば、「みんなで力を合わせて頑張った運動会」などと、ちょっと目立つ言葉を言う人もいる。

それらの言葉の中で、わたしはひとつの言葉にかれた。


『家庭科で袋作りのとき、
 教えてくださった先生の手のぬくもり』


家庭科の時間の思い出を語ったこの言葉。
一目見て「これだ」と思った。

「あの言葉、ふみちゃんにぴったりだよ。ふみちゃん、越谷先生と仲いいもんね」
「仲いいと言うのかは分からないけど、越谷先生にはいっぱい相談にのってもらって本当に感謝してるよ」

担任の越谷先生は、となりの2組の家庭科も受け持つくらい家庭科が得意な先生だ。
そしてわたしが所属する手芸部の顧問でもある。

「ふみちゃんは手芸部の部長だから越谷先生といっぱい思い出あるでしょ」

舞菜華ちゃんが嬉しそうにわたしを見る。
すごいねと言わんばかりの視線が申し訳なくて、苦笑いしながら言い訳のように答えた。

「手芸部の部長は、同じ学年に他に部員がいなくて仕方なくなっただけだから……」

今年手芸部は人気がなく、六年生の部員はわたし一人だけだった。
他の部員は全員下級生の五年生だった。
だからどうしても自分が部長になるしかなかったわけで、決してわたしのリーダーシップが認められてなったわけではなかった。

慣れないリーダー職は、わたしには悩みごとの連続だった。
五年生が好き勝手なことをする。言うことをきかない。自分より手芸がうまい子がいて自分の能力に落ち込む。

そんなとき、手芸部顧問であり担任でもある越谷先生が話をきいてくれたのだ。誰にもどこにも相談できない悩みごとを、先生は一つ一つ解決するために助言してくれた。おかげで手芸部部長の仕事を最後までやりとげることができた。

先生とわたしにはそんな絆がある。
だから卒業式で家庭科に関係するあの言葉を担当して、先生に感謝の気持ちを伝えたかったのだ。

「あの言葉はふみちゃんのためにあるようなもんだよ。越谷先生もきっと喜んでるよ」
「そうかな……そうだったらいいなぁ」
わたしはうつむいてほほえんだ。

「あの言葉ってさ、長いし、女子っぽい言葉だから呼びかけの中でも特に目立つでしょ? 久嶋さんはさ、目立ちたいだけなんだよ」
「え?」

舞菜華ちゃんの突拍子もない久嶋さん批判に驚きを隠せなかったわたしは顔を上げた。
久嶋さんもわたしと同じ言葉に立候補をし、さっきのジャンケン大会となったのだ。

「だって久嶋さんには悪いけどさ、男子が言ってた通り、あの言葉は久嶋さんには似合わないもん。いっつも男子と騒いでて、がさつだし、平気で変顔とかするし。嫌いじゃないけど、あたしは久嶋さんて苦手だなぁ」
返す言葉も出てこずスルーした。
「それにさ、二学期に家庭科の授業で実際に手提げ袋を作ったじゃん」
「あぁ、作ったね、そういえば……」
「あのとき、久嶋さんの手提げ袋、すごく上手に出来てたの。ありえないでしょ、普段あんなにがさつなのに。あれ絶対誰かに手伝ってもらったんだよ」

ピンク色の持ち物が多く、フリルやレースのついた洋服を好む舞菜華ちゃんは、たしかに久嶋さんとは合いそうにない。久嶋さんは、たくさんの色があればきっとピンク以外を選ぶだろう。

正直、久嶋さんがどんな子なのか、この一年では分からなかった。
休み時間には女子とのおしゃべりに花を咲かせるよりも、男子とのドッジボールで運動場に出る子だというイメージだけはあるけれど。

ずいぶん前にクラスの女子から「一緒にお手洗いに行こう」と休み時間に誘われたときも、「ごめん、さっきの休み時間に行っちゃった。また今度ね」と笑顔で遠回しに断っていた。
言った女子も特に悪い気分にはならなかったようで、笑顔で手を振って去っていった。
わたしだったらさっきの休み時間に行ったとしても、きっと付き合いで行ってしまうだろう。

久嶋さんは自分の気持ちに正直だし、人をイヤな気持ちにさせないので男子にも女子にも好かれている。そんな久嶋さんと群れたくて近づこうとする女子は多いけど、誰とも群れず、女子の一匹狼的な存在を貫いている。
舞菜華ちゃんのような女子のお手本みたいな女の子には、一匹狼の習性は理解しづらいのかもしれない。

そんなことを考えていると、わたしの家が見えてきた。
バイバーイと手を振って舞菜華ちゃんと別れる。
三月とはいえ、まだ空気は肌寒い。急いで玄関の門扉もんぴを開ける。
吹く風が「早く入りなさいよ」と言っているかのように、わたしを玄関へと押しこんだ。


「ねぇねぇ覚えてきた? 自分の言葉」
そんなささやきが周囲から聞こえる。
今日は五時間目と六時間目を使って、六年生だけで卒業式の予行演習をする。
体育館には一週間後の卒業式のために四人掛けの長椅子がいくつも並べられていた。各クラス、名簿順に横並びで整列して座る。
普段は縦並びの背の順だから、なんだかかしこまった気分になった。

「くっしー、覚えてきたー?」
「当然でしょ!」
前の列の男子の問いかけに答える左どなりの声。
そうだ、名簿順のわたしの前は久嶋さんだった。
わたしは笹森ささもりふみ。だから席がとなりなのだ。

「『この春ー』て言うだけだもんな! 覚えるのラクでよかったなー」
久嶋さんにかまってほしい男子が、またちょっかいを出して笑っている。
「いいでしょー、うらやましいでしょー」
と変顔で返す久嶋さん。相変わらず適当にあしらうのが上手い。

あの言葉をわたしがジャンケンで獲得したあと、残っていたのは短い言葉ばかりで、久嶋さんはやむを得ず「この春」という四文字だけを言うことになった。それをネタにしているのだ。

呼びかけの練習が始まり、久嶋さんは序盤で「この春」と言うだけで出番が終わった。あとは全員で声を合わせて言う部分だけを言っている。

一方わたしは、もうすぐやって来る自分の出番に心臓が高鳴っていた。

緊張する。
言い間違えたらどうしよう。
変な声になったらどうしよう。
みんなに注目されたらどうしよう。
考えれば考えるほど緊張してきた。
手のひらが汗ばんでいる。
あと少しで出番。
次の次の次。
次の次。

そのとき一つせきが出た。

緊張からだろうか。
そういえばジャンケンでクラス中から注目された時も、緊張して咳き込みそうになるのを必死で抑えていた。

一つ咳が出ると止まらない。

わたしの言う番がやってきた。
けれど咳が止まらず話すことができない。
みんなから注目される中、涙目になりながらひたすら咳き込んでしまった。

呼びかけの練習はいったんそこで途絶えた。
六年生全員がいる中で失敗してしまった。
恥ずかしさと咳き込んだ苦しさで顔が真っ赤になっているのがわかる。

越谷先生が心配して「笹森さん、大丈夫? 続けられる?」と声を掛けに来た。
「大丈夫です……」と答えると、越谷先生が権藤ごんどう先生に腕で大きくマルを作った。2組の担任で、怖いと噂の権藤先生が、眉間にシワを寄せて迷惑そうにわたしを見ていた。すぐに練習が再開された。

わたしの言葉から始まる。
今度は言えた。

呼びかけの練習は、覚えていない子がいたり、言うタイミングを間違える子がいたりで、ところどころ止まりながらも無事に終わった。

その後も卒業式の予行演習は続いていたが、大勢の中で失敗してしまったことにわたしはショックを受けていた。
予行演習でこんなに緊張するのに、本番でちゃんと言えるのだろうか。
もともと人前でなにかを発表したり、目立ったりすることが苦手だ。
意気揚々とこの言葉に立候補したけど、長い文章はわたしには無理だったのではないか……

不安ばかりが募る。
卒業証書をもらう段取りを説明している先生の声が耳に入ってこない。

「大丈夫?」

そのとき左どなりからひっそりと声が聞こえた。

顔を上げると久嶋さんが心配そうにこちらを見ていた。
「あ、うん……」
わたしが答えると、久嶋さんが自分のズボンのポケットをごそごそとかき回したかと思うと「これ」と言ってわたしのほうへ握った右手を下に向けて差し出した。
反射的にその下に手を出すと久嶋さんが手を開いた。
わたしの手のひらに、小さな袋に入ったキャンディが乗っていた。
女子に人気の「すみっこずまい」の淡い色使いのかわいい袋だ。
ヨーグルト味と書いてある。
久嶋さんのキャラとは正反対だ。意外だった。

「先生に見つからないようにこっそり食べて。のどの調子が悪いとき、あたしいつもこれ舐めてるんだー」
久嶋さんがひそひそ声で言って笑った。
「あ、ありがとう……」
驚きながらそう言ったとき、前の方から大きな声が聞こえた。
「こら、久嶋ー! 今なにを渡した! 笹森もなにをもらったー!」

予行演習を進行していた権藤先生がこちらに近づいてくる。
わたしは思わず自分のスカートのポケットにキャンディを入れた。

みんなが久嶋さんとわたしに注目している。
「やだなぁ先生、何も渡してませんよー。ほら、ね?」
久嶋さんが両手を広げる。
「ほんとか? 笹森も両手広げてみろ!」
「は、はい」
わたしも久嶋さんと同じように両手を広げて見せた。
何も持っていないことが確認された。

「もうすぐ中学生なんだからな! 集団行動を乱すようなことはするな!」
「はーい」
久嶋さんがのんびり返事をすると権藤先生は去っていき、予行演習が再開された。前の席の男子がちらちらとこちらを見てニヤニヤ笑っている。

わたしはほっとして、うつむいた。
すると視界の左下に親指を立てた右手が見えた。
「いいね」とか「グッジョブ」のハンドサインだ。
顔を上げると、にっこり笑った久嶋さんがそこにいた。


一階の家庭科室の窓からは、座っていても運動場の様子がよく見えた。
運動場の真ん中、久嶋さんが男子に混ざってドッジボールをしているのが見える。
男子にボールをあてて笑顔満開の彼女。こういう時間が楽しくて仕方ないのだろう。

「さっきは散々だったね。ちょっと緊張しちゃった?」
放課後、わたしは手芸部で作りかけてた毛糸のコースターの編み方で分からないところがあり、職員室の越谷先生を訪ねた。
先生は「空き教室があるからそこで教えるよ」と言い、二人で家庭科室に来ていた。

「緊張しました……わたしには大役だったのかもしれません……」
しょんぼりしながらそう言うと、越谷先生は「大丈夫、大丈夫! 手芸部の部長もやってたんだからできるって!」と励ましてくれた。
「権藤先生からの注意も大変だったね。見つからなくてよかったね」
越谷先生がにっこり笑う。
「アメのやりとりしてたでしょ?」
「えっ、気づいてたんですか?!」
「うん、後ろから見てたもん」
女子大生かと思うような口ぶりで先生が答えた。

「久嶋さん、あぁ見えていいとこあるのよねー」
手に持ったコースターの網目を数えながら先生が言った。
「はい、びっくりしました。色々と……」
久嶋さんと一対一で話したのは今日が初めてだった。
「すみっこずまい」のキャンディは、まだ食べずにスカートのポケットにある。

「あの子、いつも男子とふざけてて大雑把に見えるけど、すごく気遣いができるし頑張り屋なところもあるのよ」
「そうなんですか?」
わたしが不思議そうに言うと、越谷先生が手元にあった編み物の本をめくった。
「二学期に家庭科で手提げ袋を作る授業があったじゃない?」
「はい。ありましたけど……」
「彼女、不器用でうまく波縫なみぬいができなくて、困った末に私の所へ来たのよ」
「えっ」
その話どこかで聞いたことがある。
そうだ。舞菜華ちゃんが久嶋さんを疑ってた、あの話だ。
手提げ袋作りで誰かに手伝ってもらったんじゃないかって。
久嶋さんにしては綺麗に出来ていたからおかしいって。

……もしかして先生に手伝ってもらったのだろうか。

「『どうしても女子っぽいことがうまくできないから特訓してください!』って放課後に私を訪ねて職員室に来たのよ。特訓だって。女子っぽいことだって。面白いよね」
先生が笑う。
「特訓、したんですか?」
「うん、したよ。ひたすら波縫いだけを手取り足取り教えたわ」
愛おしいものでも見るかのような眼差しを、先生は窓の外へと向けた。
相変わらず久嶋さんがドッジボールで動き回っていた。
「特訓してから必死で練習したみたい。その甲斐あって、手提げ袋はとても綺麗に縫いあがってた」

誰も見ていないところでそんなふうに頑張ってたんだ……

わたしは、舞菜華ちゃんの発した言葉を否定しなかった自分を恥じた。

「いつも男子と騒いでるけど、本当は女子っぽいものに憧れる優しい子なのよ。彩成さいせい女学院に進学するのも分かるなぁ」
「え?」
「あ、いけない。うっかり個人情報を……これ内緒ね」
越谷先生が痛そうな顔で「しまったー」とつぶやいている。
窓の外を見ると、ドッジボールは終わったらしく、男子達も久嶋さんもいつのまにかいなくなっていた。


「彩成女学院に進学するのもわかるなぁ」
学校からの帰り道、先生の言葉が何度も頭の中を駆けめぐっていた。

久嶋さん、地元の公立中学には進学しないのか……
彩成女学院といえば、この辺りでは名門とよばれている私立の女子中学校だ。
一緒の学校で同じクラスになることはもうないんだな……
卒業式が終われば会うこともなくなる……

相変わらず冷たく吹く風に、羽織ったカーディガンのすそがパタパタと揺れた。うつむいたまま、ランドセルの肩ひも部分をしっかりと握りしめて歩いた。



卒業の日は朝から太陽が顔を出していて、歩き慣れた廊下にも陽が射しこんでいた。
「あー今日で卒業なんて信じられない!」
そんな声があちこちから聞こえる。

もうすぐ卒業式が始まる。
体育館へ入場するため、わたしたちは各クラス名簿順に廊下に並んでいた。

廊下でざわつく六年生は、全員進学先の中学校の制服に身を包んでいる。
わたしの進学先である地元の公立中学の制服は、紺色のブレザーに同じ色の地味なプリーツスカートだ。男子も女子もほとんどの子が同じ紺色に包まれていた。
けれど、目の前には深い緑色のセーラー服の背中が見える。
彩成女学院の制服だ。
これまでジーンズなどのズボン姿の久嶋さんしか見たことがなかったため、スカートなのは新鮮だった。彼女のトレードマークであるショートカットの髪型も深緑の制服によく似合っている。

当然それを見た男子が「今日って仮装大会だっけ?」とからかっている。
「わたし優勝でしょ?」と返す久嶋さん。

「久嶋さん制服かわい~」
「いいな~セーラー服~、あたしも彩女さいじょにすればよかった~」
たくさんの女子が久嶋さんに声をかけている。
「ありがとう。ブレザーもかわいいじゃん」
背筋を伸ばして綺麗に立っている久嶋さんが、今日はなんだかかっこよく見えた。

並んだ列が動き出す。
先頭で歩く越谷先生も、今日は黒いワンピースに普段見たことのないお洒落なジャケットを羽織っている。ジャケットには銀色の花のコサージュがついていた。何もかもがいつもと違う光景に、今日が特別な日なんだと思えた。

先生に引率され、そのまま体育館へと足を踏み入れた。
すでに入場して待っていた五年生や保護者達の拍手に迎えられて自分の席に着いた。

ピアノの伴奏が流れ、校歌を歌う。
この歌を歌うのもこれが最後だ。
校歌斉唱が終わると、卒業証書の授与が始まった。担任の先生に名前を呼ばれ、一人ずつ順にステージに上がり、校長先生から卒業証書をもらう。緊張で足がもつれそうになったが無事受けとることができた。

卒業式は粛々と進行した。
段々と気持ちがそわそわしてきた。
もうすぐ呼びかけが始まるのだ。
緊張の波が押し寄せてきた。

「次は卒業生による呼びかけをおこないます。卒業生全員起立! まわれ右!」
権藤先生のかけ声で、わたしたちは五年生や保護者の座る体育館後方を向いて立つ。
たくさんの顔がこちらを見ている。
動画を撮影しているのだろうか。カメラを向け続けている保護者の姿も見える。
予行演習とは比べものにならない緊張がすぐそこまできていた。


「この春ー!」
右どなりから元気な四文字が聞こえた。

久嶋さんが出番を終えたようだ。
クラスメイトが次々に自分の出番を終えていく。

遠くからわたしたちを見つめる越谷先生が見えた。
全員が間違えずに言えるようにと、先生もきっと祈る思いでいるんだろうな……


家庭科で袋作りのとき、
教えてくださった先生の手のぬくもり

家庭科で袋作りのとき、
教えてくださった先生の手のぬくもり……


わたしは心の中で何度も繰り返した。

わたしが言うこの言葉、先生は喜んでくれるかな。

手芸は得意だから、手提げ袋作りの時に先生に助けてもらうことはなかったけど、感謝の気持ちは伝わるかな……



……あれ?


ちょっと待って。



いま気づいた。


この言葉、
わたしよりも言うのがふさわしい人が他にいるんじゃないの……?


わたしはとなりにいる久嶋さんを横目で見た。

先生と話したあの日の会話を思い出す。
「特訓、したんですか?」
「うん、したよ。ひたすら波縫いだけを手取り足取り教えたわ」

久嶋さんは、呼びかけのあの言葉通り、教えてくれた先生の手のぬくもりを感じたのではないだろうか。
だからあの言葉を言いたいと思ったのではないだろうか。
目立ちたいから、とかではなくて。

その時、周囲がざわついた。
久嶋さんがわたしの右腕をすごい速さでトントンと叩いている。
気がつくとわたしの番になっていた。
急いであの言葉を言う。

「家庭科でー」

けれどわたしは、そこで方向転換することを決めた。

「袋作りのときー」

そこまで言って急に咳き込んだ。

「えっ」という顔で久嶋さんが慌てて覗き込む。


今だ!

開いた右手を久嶋さんの方へ出すと、久嶋さんが反射的に左の手のひらを上げた。
わたしが久嶋さんの手にタッチする。
咳き込みながら。

驚いた様子の久嶋さんもすぐに分かったようだ。

これがバトンタッチであることを。


体育館全体が静寂に包まれていた。
全員がわたしたちに注目しているのを肌で感じる。


「教えてくださったー
 先生の手のぬくもりー」


言えた。

言ってくれた。久嶋さんが。

心配そうにこちらを見ている越谷先生が視界に入った。

わたしたちの想い、先生に届いたかな……

先生を見つめていたら、右どなりから下向きに握った左手が伸びてきた。
反射的にその下に手を出すと、手のひらの上に「すみっこずまい」のキャンディが落ちた。今回のも淡い色使いのかわいいキャラクターが描かれている。のどを潤せということだろう。受け取った。


でもこれはあとで返すべきかな。

嘘ついてごめん、って言いながら。

いや、言わない方がいいのかな。


呼びかけが終わりステージの方に向き直ると、仰げば尊しのピアノ伴奏が流れ始めた。

まわりの子達の涙をぬぐう仕草が見え、鼻をすする音が聞こえ始めた。
わたしは手のひらのキャンディを握りしめる。


あの言葉通りに先生の手のぬくもりを感じることはできなかった。

けれど久嶋さんにバトンタッチをした、あの一瞬の手のぬくもりはきっと忘れないだろう。


学校は離れてもどうか元気でいて。

素敵な女子になってね。


涙がひとすじ、わたしの頬を伝って手のひらに落ちた。
もうすぐ卒業式が終わる。

(了)


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