フェミニストの「マジョリティ/マイノリティ」に関する欺瞞
フェミニストがまたもや卑劣な手段を用いてセクシズムを世の中に振りまこうとしている。その手段とは概念の乗っ取りである。マジョリティあるいはマイノリティの概念に対して我々が持っているイメージを利用し、「男性は権力に近いがために特権を持っていて生きやすく、女性は権力から遠いがために特権と持っておらず生きにくい」との男性悪玉論の認識枠組みを社会的通念として構築しようとしている。そして、その目論見はメディアを通して実現されようとしている。
そんなフェミニストの不公正かつ不正義な行為が行われているのが以下の記事である。
■フェミニストは造語が好きな連中の筈だが?
この記事の核心的な部分は以下の「マジョリティとマイノリティの用語のフェミニストによる特殊な定義」である。記事中でインタヴューを受ける出口氏が「社会的公正教育の文脈では」などと謳うものの、彼女をはじめとするフェミニストによる既存概念に対する恣意的な定義は、社会的でもなければ公正でもなく教育としても不適切とさえ言えるものだ。
上記の引用においてフェミニストの特殊な定義を出口氏は示しているが、「マジョリティ/マイノリティ」とはあくまでも「全体でみると多数派集団/全体でみると少数派集団」という意味に過ぎない。また、そのように定義されているからこそ有用な対概念になっている。そして、マジョリティとマイノリティの概念内容を当該記事において出口氏が示す以下の内容に変えたとき、「全体でみると多数派集団/全体でみると少数派集団」という従来通りの意味内容のみを持つ対象を、適切に示す用語が無くなってしまう。
「より権力にアクセスしやすい立場」「権力から遠い立場」といった権力へのアクセスの遠近関係を言い表す言葉が欲しいのであればフェミニストはその概念内容をもつ新語・新概念を作ればいいのだ。例えば「近権力性/遠権力性」・「優権力性/劣権力性」・「優先権力/劣後権力」・「権力優勢/権力劣勢」等の新語を提示すればよい。例示したものに限らず自分が伝えたい概念内容を示す用語を新たにつくり出せばよい。それに対してフェミニストに反対する(マトモな)人間は居ない。そもそもフェミニストは新たな言葉をつくることが大好きではないか。"マンスプレイニング"だの"マネル"だのフェミニズム発祥の新語は数多くある。今更、そんな用語が一つ二つ増えた所で驚きもしない。なぜ「より権力にアクセスしやすい立場」「権力から遠い立場」を示す新たな用語を造らないのか。
そこには、フェミニストの邪悪な思惑が存在している。既存の言葉が持つイメージを利用し、その言葉が本来指し示す対象への社会の配慮を横取りし、さらには認識枠組みの書き換えも行おうとしているのだ。
■フェミニストの欺瞞に気づく人達と気づかない人達
空恐ろしいことに卑劣なフェミニストの仕掛けに気づく人は、ごく少数のようだ。当該記事に対して好意的コメントを残す人も多い。また、批判的なコメントであっても、当該記事における非常に重要なポイントである、フェミニストが行う既存概念への恣意的な定義の不公正さを問題視していない。ただ、当該記事がyahoo!ニュースに転載された際につけられたコメント(および返信欄でのやり取り)の中に、問題点を的確に指摘しているものがあったので引用しよう。
とはいえ、neo氏やeib氏のコメントには低評価を示す「うーん」のポイントのほうが高評価のものよりも多かった。記事におけるフェミニストの言動の問題点を的確に指摘したコメントを読んでも、それに気づけないのはフェミニズムの毒が回り切っている。
既存概念を自分達の都合の良いように塗り替えようとしているフェミニストの言説を、「これからの社会が目指すべき正しさを述べた言説」であるとしてメディアが好意を持って取り上げている事態を見るにつけ、「アンタらは、メディアという第四の権力に近いじゃないか。どこが女性という属性は権力から遠いんだい?」との感想を抱かざるを得ない。
■一般的な「マイノリティ/マジョリティ」の定義
以前に私が書いたnote記事においても確認した「マイノリティ/マジョリティ」の一般的意味を本稿でも確認しておこう(註1)。
そして、先のnote記事で「マジョリティ/マイノリティ」の概念とは何か」について論じた箇所も引用しよう。
上に挙げた辞書の説明を読めば分かる通り、既存概念としての「マジョリティ/マイノリティ」の対概念は大して難しくはない。また、私が以前のnote記事でも補足したように、全体に占める割合こそがマジョリティあるいはマイノリティであることを決定する。
しかし、以上の説明を読んでもなお、フェミニストの妄言に惑わされる人間がいるかもしれない。そこで「マジョリティ/マイノリティ」とはどういう関係を示す概念であるのか図で示し、それを用いて説明しよう。
では上で図の解説を通して既存概念としてのマジョリティとマイノリティの意味を確認しよう。
全体が「全体Ⅰ」である場合、属性Aを持つ人々がマイノリティであり、属性Bを持つ人々がマジョリティだ。全体に占める割合でみて属性Aの人は少数派集団に属し、属性Bの人は多数派集団に属するからである。そして、マイノリティとマジョリティの言葉はそれ以上の意味を持っていない。
全体が「全体Ⅲ」であった場合をみてみよう。今度は逆に、属性Bを持つ人々がマイノリティであり、属性Aを持つ人々がマジョリティだ。全体に占める割合でみて属性Bの人は少数派集団に属し、属性Aの人は多数派集団に属するからである。
全体が「全体Ⅱ」であった場合を見よう。この場合は属性Aを持つ人々も属性Bを持つ人々もマジョリティでもなければマイノリティでもない。全体に占める割合が拮抗しているとき、どちらの属性を持つ人々もマジョリティでもなければマイノリティでもない。
また、上図の表現においては属性Bを持つ人間の数を変えていない。その属性Bを持つ人々に関して、全体集団がⅠ・Ⅱ・Ⅲと変化すると「マジョリティ性」「非マジョリティ性かつ非マイノリティ性」「マイノリティ性」を持つように変化する。このことからも明らかなように、特定の属性を持つ同一集団であっても全体集団が変化すれば、マイノリティ性やマジョリティ性を獲得したり喪失したりする。
以上から理解できると思うが、属性A・Bを持つ集団それぞれはマジョリティとなる場合もあればマイノリティとなる場合もある。逆に、属性A・Bを持つ集団が必然的にマイノリティとなることもなければ、属性A・Bを持つ集団が必然的にマジョリティとなることもない。そして、性質を示す概念として「マジョリティ性/マイノリティ性」に変えたとしても、マジョリティ性は属性A・Bと固定的関係を持たず、同様に、マイノリティ性もまた属性A・Bと固定的関係を持たない。
マイノリティとマジョリティの関係は全体に占める割合で定義される関係であって、「全体が何なのか」抜きに定義できるものではない。つまり、特定の属性を持つ集団が全体集団に占める割合抜きに考えた、特定の属性に関する固定的性質を示す概念ではないのだ。
■フェミニストの奇妙なマジョリティとマイノリティに対する認識
前節で既存概念としての「マジョリティとマイノリティ」の関係を示した通り、マイノリティ性やマジョリティ性は特定の属性と固定的な関係にはない。したがって、記事の以下のようなリストは「マイノリティ/マジョリティ」の一般的意味において妥当性に欠ける認識になる。
男性・異性愛者・シスジェンダー・高学歴者・高所得者・健常者といった属性がマジョリティ性を持つ属性として挙げられ、女性・同性愛者等・トランスジェンダー等・低学歴者・低所得者・障害者がマイノリティ性を持つ属性として挙げられている。しかし何度も言うように、マジョリティ性やマイノリティ性というものは特定の属性に固定的関係を持たない。つまり、上のチェックリストや以下に引用する記事の箇所に表れる考え方は妥当ではない。
記事においては、これらの箇所から各人の様々な属性に対して固定的関係がある性質としてマジョリティ性やマイノリティ性が捉えられていることが理解できるだろう。リストに倣うならば「男性・同性愛者・シスジェンダー・低学歴・高所得・障害者」という属性を持つ個人は「マジョリティ性・マイノリティ性・マジョリティ性・マイノリティ性・マジョリティ性・マイノリティ性・マジョリティ性・マイノリティ性」を固定的に持つという訳だ。
この出口氏をはじめとするフェミニストの考え方を抽象化して捉え直すために、以下の箇所にも注目しよう。
さて、チェックリストやチェックリストに言及した引用箇所と上の引用で示される考え方を併せて抽象的に示せば、次のような考え方となる。
チェックリストを始めとする表現から、出口氏をはじめとするフェミニストの考え方を抽象化して示すと以上になる。
ところが皮肉なことに、上記で示したような「特定の属性とマジョリティ性やマイノリティ性が固定的に結びついている」との考えを、本当に井口氏をはじめとするフェミニストは厳密に採用しているのか言えば、実はそんなことは無い。とりわけ、井口氏は「マジョリティ性やマイノリティ性というものは特定の属性に固定的関係を持たない」という当たり前の話をキチンと理解した上で、詭弁を弄していることが明らかなのだ。
このことを示すのが記事のリストの始めに挙げられた「人種・民族」の属性である。「白人(アメリカ)」「日本人(日本)」という属性のマジョリティ性は、アメリカや日本という全体集団の想定の下でマジョリティ性を指摘している。そして、本文にも以下の記述がある。
「環境や文脈が変わる」とマジョリティ性やマイノリティ性は変わるという訳だ。すなわち、特定の属性とマジョリティ性やマイノリティ性との間には固定的関係は無いと述べている。
しかし一方で、特定の属性に対してマジョリティ性やマイノリティ性が固定的であるとする以下の主張を出口氏は行う。以下に引用する箇所が典型的だ。
上記での出口氏の主張において、性別という属性で女性ならばマイノリティ性をもつことは固定的であるとの考えが示されている。その考えは別の箇所でも具体的に示されている。
「環境や文脈が変わるとマジョリティ性とマイノリティ性は変化する」という普通一般で用いられているマジョリティ性とマイノリティ性に関する考え方と、「特定の属性と固定的関係をもつマジョリティ性やマイノリティ性」という特殊なフェミニストの考え方とを、フェミニストらしくご都合主義的に使い分けている様子を示すのが、以下の記述である。
この箇所から分かるように出口氏が詭弁を弄している。「(男子学生は教室の中では)少数派に属する」「(男子学生は社会の中では)マイノリティではない」という表現は実に狡猾だ。出口氏が詭弁を弄そうとしないのであれば、なぜ以下のように表現しないのか。
男子学生は教室の中ではマイノリティである
男子学生は社会の中ではマイノリティではない
上のように表現してしまうとリストで挙げた特定の属性とマジョリティ性・マイノリティ性の固定的関係に関する反例となってしまうからだろう。すなわち、男性という属性がマジョリティ性を固定的に持ち、女性という属性がマイノリティ性を固定的に持つとした、出口氏をはじめとするフェミニストの主張に反してしまう。
当たり前の話だが、想定する全体集団というものは状況によって流動的である。「上智大学の英語学科」に関する状況で考えるならば、上智大学の英語学科の学生集団が全体集団である。したがって、その全体集団に占める男性集団や女性集団の割合によって、男性集団のマイノリティ性ないしはマジョリティ性が決定され、同様に、女性集団のマジョリティ性ないしはマイノリティ性が決定される。記事の記述から「上智大学の英語学科では女子学生が約7割を占め、男子学生は約3割です」とのことなので、上智大学の英語学科において男性集団はマイノリティ性を持ち、女性集団はマジョリティ性を持つ。
このことは、記事中の性別という属性とマジョリティ性・マイノリティ性の固定的関係についての主張は虚偽であるを示している。言い換えると、男性どいう属性がマジョリティ性を持つことや女性という属性がマイノリティ性を持つことは固定的ではなく流動的という訳だ。
出口氏の言動の内部的整合性を見てみれば、全く整合的ではなく詭弁やゴマカシに満ちている。
しかし「いやいや、そうじゃないんだ。全体集団との割合でマジョリティとマイノリティが決まるわけじゃないんだ。マジョリティ特権という特権が存在していて、その特権を持つ属性がマジョリティ性を持つと考えるのだ」とのフェミニストの反論があるかもしれない。既存概念としてのマジョリティとマイノリティにはそんな奇怪な概念規定はない。しかし、頭ごなしに否定するのも公平でないだろう。そこで、フェミニストが重視しているマジョリティ特権というものを次に明らかにしよう。
■マジョリティ特権とは
出口氏をはじめとするフェミニストは既存概念である「マジョリティとマイノリティ」が持つ意味内容を捻じ曲げて使用しようとする。この捻じ曲げた使用法において、「マジョリティ特権」というものが重要である。そこでマジョリティの集団における優位性とは何かを考察しよう。
まずは、出口氏が言うところの「マジョリティ特権」の大枠を見てみよう。ここで"大枠"としたのは、フェミニスト達は直ぐにご都合主義を発揮して概念の意味内容を自分の都合の良いようにコロコロ変化させるので、あまり細かい意味で考えると無駄になるからだ。
では、「マジョリティ特権」の意味について井口氏が述べた箇所を引用しよう。
さて、確かにマジョリティにはマイノリティにない集団における有利さが存在している。マジョリティが属する全体集団は、多くの場合に様々なものがマジョリティ向けになっている。
このマジョリティにはマイノリティにない有利さが非常によく分かる例として、「利き手」に関するマジョリティ性・マイノリティ性がある。
因みに、世界的にみて多数派の人間は「右利き」であり、少数派の人間は「左利き」である。因みに、日本では大体「右利きと左利き」の比率は9:1である。
さて、社会には右利きが多くて左利きが少ない。このことから様々なものが「右利き用」につくられている。鋏が典型なのだが、鋏は右手で使用するように作られており、右手ではスイスイ切れても左手では切れ味が悪い。注ぎ口のついたお玉などもそうである。汁物を食器につぐにあたって、お玉を右手で持つとつぎやすい。また、野球のグローブなどのスポーツ備品なども右利き用は多数用意されていても左利き用は準備されていない事もある。左隣が右利きの人間であるときの大人数での会食において、テーブルが狭い時など左利きは右利きの人間と手がぶつかることが多い。更には、書道における「字の形」もまた右利き用である。漢字にせよカタカナにせよ、多くは「右手で書くと美しく書ける」ような作りになっている。例えば、部首「しんにょう」は右手で書けば「筆を引く」という書き方になるので美しく書けるが、左手で書くと「筆を押し出す」という書き方になるために美しくならない。あるいは左手の手首をねじって引く書き方をしても不自然な力の入り方をするためにやはり美しくならない。また、たとえ左利きが右手で筆を持って、右利きの人間と同じように書いたとしても、右手は利き手でないだけに不器用になる。これは「ひらがな」であっても「右から左」の線があるひらがなは全て同じである。そして、「出自のよさ・育ちのよさ・丁寧な性格」等の表れとして「字の綺麗さ」を解釈する認識枠組みも存在するために、左利きは非常に不利である。
右利きの人間は左利きの人間が味わう以上のような不都合を味うことは無い。なぜなら「社会が右利きに合わせて様々なものがつくっている」からである。これが左利き人間にはない右利き人間の「労なくして得られる優位性」「自動的に受ける恩恵」というヤツである。
あるいは使用言語で考えても良い。
フェミニストはジェンダー平等の視点から日本の後進性をあげつらうことが多いので、フェミニストが大好きなジェンダー先進国の北欧諸国で考えても見ても良い。フィンランドでもノルウェーでもスウェーデンでもどこでもいい。今回はフィンランドで考えよう。
さて、フィンランド社会においてマジョリティ=多数派はフィンランド語話者だ。そのほか公用語としてフィンランド語とともにスウェーデン語やサーミ語が採用されている地域もある。しかし、日本語や朝鮮語あるいは中国語が公用語となる地域はない。フィンランド社会において日本語や韓国語あるいは中国語が通じることの方が稀だろう。フィンランド社会に属する人で日本語や韓国語あるいは中国語を話せる人は少ない。それゆえ、マジョリティ=多数派であるフィンランド語が母語である話者よりもマイノリティ=少数派である日本語や韓国語あるいは中国語が母語である話者は社会的に不利である。
フィンランド社会は母語がフィンランド語である話者がマジョリティであるが故にフィンランド語で主にコミュニケーションがなされている。それが故にマジョリティであるフィンランド語が母語である話者は「労なくして得られる優位性」「自動的に受ける恩恵」を持っている。これがフィンランド社会においてフィンランド語話者集団が持つマジョリティ特権の正体である。
以上のことから理解できると思うが、多数派=マジョリティの人間が持つ「労なくして得られる優位性」「自動的に受ける恩恵」とは「社会における大抵のものが、少数派=マイノリティ用ではなく、多数派=マジョリティ用につくっている」ことによって生じている。社会のリソースが限られているとき、あるいはどちらか一方に合わせざるを得ないとき、社会的効率を考えたならば多数派に合わせることが合理的であるから、そのようになっている。これが所謂マジョリティ特権である。
■「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズム
「マジョリティ性とマイノリティ性」および「恩恵と居心地の悪さ」、言い換えると「マジョリティ性とマイノリティ性」と「生きやすさ/生きづらさ」に関して述べられた記事の箇所を引用しよう。
また、前節でみた「マジョリティ特権」について、先の引用箇所を続く箇所も併せて再び見てみよう。
以上の引用箇所で述べられた「マイノリティ特権」「マイノリティ性」「マジョリティ性」そして「マジョリティの恩恵」「マイノリティの居心地の悪さ」を理解するために、二組の「対になる集団」の「生きやすさ/生きづらさ」を考察する。そのことによって、井口氏をはじめとするフェミニストの詭弁を明らかにする準備としよう。
原則的に多数派集団は生きやすく、少数派集団は生きにくい
原則的に権力に近い集団は生きやすく、権力から遠い集団は生きにくい
井口氏をはじめとするフェミニストはわざと上記の二つを混同させようとするが、この二つの生きやすさと生きにくさの発生メカニズムは異なる。もちろん、多数派集団であることによって政治力が生まれて権力を掌握するケースもある。つまり、多数派集団であるが故に権力者集団となることはある。しかし、全ての場合に当てはまると考えることは当然ながらできない。反例を挙げよう。「労働者/資本家」という階級で集団を考えれば、前者は多数派集団だが権力集団とは言い難く、また後者は少数派集団だが権力集団だ。このことは多数派集団であれば必然的に権力集団となることなどないことを示している。
さて、「多数派集団は生きやすく、少数派集団は生きにくい」という事態は実際に発生している。しかし、その生きやすさや生きづらさは必ずしも権力と結びついていない。このことを先にも例に出した、権力とは関係の無い多数派集団と少数派集団の典型である「右利き集団/左利き集団」から具体的に見てみよう。
右利き集団は多数派であるが故に左利き集団よりも原則的に生きやすい。なぜなら「社会が様々なものを右利きに合わせている」からである。先に挙げた具体例「文字の形:基本的に右手で書くことを想定している」「片方に注ぎ口がついているお玉:右手に持って注ぐことを想定している」を想起すれば容易に理解できる。右利きの人間は左利きの人間が味わうこの種類の不都合を味うことは無い。これが左利き人間にはない右利き人間の「労なくして得られる優位性」「自動的に受ける恩恵」である。
このとき当たり前の話であるが、この右利き集団が政治力を発揮して「社会における様々なものを右利きに合わせてつくらせている」わけではない。つまり、社会のリソースが限られているとき、あるいはどちらか一方に合わせることしか選択し得ないとき、社会的効率を考えたならば多数派に合わせることが合理的である。そして、そのことによって生じる「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムが、多数派集団と少数派集団の「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムである。
一方、権力に近い集団と権力から遠い集団の「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムは、権力によって集団に対する便宜を引き出せる可能性の高低により生じる。権力に近ければ便宜を図って貰い易く、権力から遠ければ便宜を図って貰いにくい。
具体例として「式典における来賓と一般客」を挙げよう。来賓と一般客では来場したときの駐車スペースからして異なる。来賓の駐車スペースは会場から至近のスペースであり、一般客は遠近さまざまな駐車スペースが割り当てられる。会場で用意される席も来賓は基本的に最も良い席が用意され、一般客には良い悪い様々な席が充てられる。アテンダントが付く場合も、来賓には付くが一般客には付かないこともザラにある。そして、式典における来賓と一般客の人数を想起すれば明白だが、来客集団という全体集団でみたとき、来賓集団は少数派集団であり、一般客集団は多数派集団である。すなわち、来賓集団が保有する「権力からの距離の近さ」は来賓集団の多数性に起因すると考えることはできない。また、一般客集団の「権力からの距離の遠さ」もまた一般客集団の全体に占める割合から説明することもできない。
具体例による説明から理解できるように、権力との距離の遠近によって生じる「生きやすさ/生きづらさ」は、その集団が全体に占める割合と絶対的あるいは必然的には結びついていない。その発生メカニズムは「その集団に対する配慮」によって生じているのだ(もちろん、多数派であることで「その集団に対する配慮」が生じることもある)。
以上から、多数派集団と少数派集団の「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムと権力に近い集団と権力から遠い集団の「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムが異なることが明らかになったと思われる。この結果を踏まえて、井口氏をはじめとするフェミニストの詭弁を見ていこう。
■フェミニストは「本当の中に嘘を混ぜる」ことで人々を騙す
yahoo!ニュースに転載された記事についたコメントにおいて、eib氏が指摘しているように「わざわざ既存の言葉を使うってことはその言葉が持つイメージを利用して自分の主張を正当化したいっていう姑息な小細工」がフェミニストの思惑に存在している。それは「本当の中に嘘を混ぜる」という悪徳商法で詐欺師が用いる手法そのままのやり方である。
「本当の中に嘘を混ぜる」という詐欺師が用いる同じ手法をフェミニストが使用していることをシッカリを押さえた上で、記事にある「マジョリティ性とマイノリティ性のチェックリスト」とやらをもう一度詳しく考察してみよう。
さて、普通一般の人が抱く、何となくイメージされた全体である日本社会において多数派集団と少数派集団となる「健常者と障害者」「異性愛者と同性愛者等」「シスジェンダーとトランスジェンダー」をリストに挙げる。例示された「健常者と障害者」「異性愛者と同性愛者等」「シスジェンダーとトランスジェンダー」といった集団の組み合わせに関して、日本社会において基本的に前者は生きやすく後者は生きにくい状況にある。それぞれの多数派集団に合わせて社会が作られている要因があり、また、「異性愛者と同性愛者等」に関するパートナーについてのマッチングが典型だが、人数の多寡が構造的に関係する要因があるからだ。これらの前者と後者の"生きやすさ"あるいは"生きづらさ"を、音の連なりとしての「マイノリティとマジョリティ」の言葉の組の、"前者の生きやすさ"と"後者の生きづらさ"に結びつける。
また、権力に対する距離から明確に「近い集団/遠い集団」と判断できる「高所得者と低所得者」や「高学歴者と低学歴者」を挙げる。当然、「高所得者と低所得者」や「高学歴者と低学歴者」は、それぞれ特有の権力からの距離による"生きやすさ"あるいは"生きづらさ"を持っている。
「"日本社会全体"という全体集団における多数派集団と少数派集団」となる組み合わせと「権力に対する距離に関して明確に近い集団と明確に遠い集団」を交ぜて、「マジョリティ性あるいはマイノリティ性を持つ集団の組み合わせ」としてリストアップすることによって、何となく「生き易い集団/生きづらい集団」という形でグルーピングできるように印象付ける。
ここで注意を促しておくが、当たり前のことながら通常一般的意味において「多数派集団/少数派集団」は直接的に「生きやすい集団/生きづらい集団」を意味するわけではない。また、「権力に近い集団/権力から遠い集団」もまた直接的に「生きやすい集団/生きづらい集団」を意味する集団ではない。
話を戻すが、典型的な「多数派集団/少数派集団」である「異性愛者と同性愛者」や「健常者と障害者」等と、典型的な「権力に近い集団/権力から遠い集団」である「高所得者と低所得者」や「高学歴者と低学歴者」等とを、何となく「生きやすい集団/生きづらい集団」という形でグルーピングすることによって、「マジョリティ/マイノリティ」の言葉が指している「多数派/少数派」の意味を「権力に近い集団/権力から遠い集団」にすり替えるのだ。
そして、シレっと「マジョリティ/マイノリティ」として「男性/女性」を加える。そのことによって「男性/女性」に関して「権力に近い集団/権力から遠い集団」であるとの認識枠組みを一般的な人々に刷り込むのだ。
■既存概念についてのフェミニストの恣意的な定義とご都合主義の議論
井口氏をはじめとするフェミニストは、既存概念に関して彼女らの業界での特殊な定義を人々に「これが正しいのだ!」と言って押し付ける。実はその行為自体も手続的正義に欠ける不公正な行為なのだが、一先ずその不公正さは措いておこう。
さて、フェミニストは「マジョリティ/マイノリティ」という既存概念に対して押し付けた彼女らの業界での特殊な定義すら厳密に適用せずに、フェミニストのご都合主義から自分達の都合の良いときは、従来通りの一般的定義での解釈をしてのける。つまり、自分が言い出した定義による概念の使用法すら遵守しないのだ。状況や場合あるいは相手に合わせて融通無碍に、自分に有利になる定義に切り替える。全くもってフェミニストは言論人としてみても屑である。
このフェミニストの「自分達で勝手に言い出した特殊な定義すらキチンと取り扱わない不公正さ」をこれから見ていこう。その有様は以下の引用箇所と先に挙げたチェックリストからみることができる。
上記の引用部のポイントを抜き出そう。
1'.現状の社会はマジョリティに合わせて設計
2'.決定権が権力に結びついており、ある集団が不利な立場になる
先の節での説明と同様に、抜き出した「1'.と2'.」の事情によって生じる集団間の「生きやすさ/生きづらさ」の発生メカニズムは本質的に別物である。しかし、どちらの事情によっても「生きやすさ/生きづらさ」自体は生じている。
「生きやすさ/生きづらさ」という現象の認識に関して、「マジョリティ/マイノリティ」という音の連なりをもつ言葉によって、多数派または少数派であることに起因する「生きやすさ/生きづらさ」に対しても「マジョリティであるから生きやすい」「マイノリティであるから生きにくい」と認識させる。このことはフェミニストの特殊な定義を受け入れるならば妥当ではない認識である。なぜなら、権力からの距離に起因する「生きやすさ/生きづらさ」こそが、フェミニストの特殊な定義からの「マジョリティである生きやすさ」「マイノリティである生きにくさ」であるからである。
多数派または少数派であることに起因する「生きやすさ/生きづらさ」は、「マジョリティ=より権力にアクセスしやすい立場」「マイノリティ=権力から遠い立場」とのフェミニストの特殊な定義によれば、権力との関係性が明らかでない限り「マジョリティによる生きさすさ」や「マイノリティによる生きにくさ」であるとは判断できないのだ。
この事態は、次の「言葉遊び」で譬えれば理解できるだろううか。
回転寿司の店に連れてきた子供が「今からサーモンのお寿司は『マグロのお寿司』と言う、タコのお寿司は『イカのお寿司』と言う、言葉遊びをします!」との宣言をしたとしよう。この言葉遊びは言語学でいうところの「シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)」を別々にする遊びだ。
この言葉遊びにおいて、サーモンの寿司を食べて「マグロ美味しいね」と感想を言い、タコの寿司を食べたいとき「イカのお寿司を注文して」と頼むこと自体は言葉遊びルール通りであるから然したる問題はない。
しかし、マグロの寿司を食べてマグロの寿司の感想を言いたいとき、あるいは、イカの寿司が食べたくてイカの寿司を注文してもらおうとするとき、なんと言えばいいだろうか。もちろん、このとき「マグロ美味しいね」あるいは「イカのお寿司を注文して」と言葉に出すこと自体は言葉遊びのルール上は間違いではない。だが、誰かが「マグロ美味しいね」との感想を述べたとき、言葉遊びの言い換えルールに則った「サーモン美味しい」との意味内容を持つ感想だったのか、言葉遊びのルールでは触れられていない「"マグロ"の音の連なりは鮪を指す」という本来の意味での「マグロ」なのか判然としない。「いやいや、直前に鮪を食べていたなら、"マグロ"の音の連なりの言葉は鮪を指しているし、直前にサーモンを食べていたなら"マグロ"の音の連なりの言葉はサーモンを指すんだよ」と反論されるかもしれない。しかし、そういった状況が分からない場合はどうなるだろうか。例えば、言葉遊びに参加している、タコもイカも好きな人から「イカのお寿司を注文して」と頼まれたとき、その人は言葉遊びのルールに則った言い換えによってタコを頼もうとしているのか、それとも本来の意味通りに烏賊を頼んでいるのかどちらだろうか。
このシニフィアンとシニフィエを別々にする言葉遊びと同じことを、フェミニストはやっているのだ。更に言えば、フェミニストは上記の譬えで示せば言葉遊び中に次のように意地悪をする子供と同じである。
蛸と烏賊の寿司を交互に口にした後「イカのお寿司の方が美味しかった。じゃあ、僕は右の皿と左の皿のどっちのお皿に載ったお寿司を美味しいと言ったのでしょうか。当てて下さい」とクイズを出してきた。右の烏賊の皿を指して「こっちが美味しかったんじゃない?」と回答すると「ブブー、ハズレ!(蛸の皿を指しつつ)言葉遊びルールでコッチを"イカ"って言うって決めたじゃん」と囃し立てる。逆に、左の蛸の皿を指したときは「ブブー、ハズレ!『イカのお寿司の方が美味しかった』って言ってるんだから烏賊に決まってるじゃん」とニヤリと笑う。
以上の譬え話から理解できると思うが、フェミニストは「マジョリティ/マイノリティ」というシニフィアンに関して、「生きやすい集団/生きづらい集団」という共通項を経由して、フェミニストの都合の良いようにシニフィエを適宜、「多数派集団/少数派集団」と「権力に近い集団/権力から遠い集団」で切り替える。
「マジョリティ/マイノリティ」の「生きやすさ/生きづらさ」が生じる現象の紹介においては、「権力との遠近関係によって生じる生きやすさや生きづらさ」と「社会における多数派集団であることや少数派集団であることに起因する生きやすさ又は生きづらさ」をごちゃ混ぜにして提示する。フェミニストの主張にとって「マジョリティ/マイノリティ」の言葉が全体集団に占める割合によって定義される言葉であると不都合なときは、「マジョリティは権力と結びついているから生きやすく、マイノリティは権力と結びついていないから生きにくい」と言い出すのだ。
フェミニストは実に卑劣である。「権力からの距離でマジョリティとマイノリティを定義したい」というならば、そのフェミニストの特殊な用語法に百歩譲って従ってもいい。しかし、その場合は、従来の用語法である「全体集団に占める割合で定義されるマジョリティとマイノリティ」のイメージが強い具体例を出すべきではない。例えば先に引用した以下の例示は行うべきではないのだ。
また、以下の部分も「多数派集団と少数派集団」としての「マジョリティとマイノリティ」の例示である。
これらの例示から窺える「マジョリティ集団とマイノリティ集団」は、従来通りの「多数派集団と少数派集団」のイメージになる。「マジョリティとマイノリティは権力からの距離で定義される」としたいのであれば、上記のようなものを具体例として出すべきではない。
その一方で、「権力に近い集団/権力から遠い集団」という意味内容で「マジョリティ/マイノリティ」の語を用いる。
特殊な形の「マジョリティ/マイノリティ」のシニフィアンと「権力に近い集団/権力から遠い集団」のシニフィエをセットにしたいというならば、ご都合主義的にシニフィエの切り替えをすべきではない。たとえフェミニストに最大限譲歩してフェミニストの恣意的な「マジョリティとマイノリティ」の定義を許容したとしても、「女性に有利なように適宜、マジョリティとマイノリティの意味内容を切り替える」というフェミニストの態度は公正ではない態度であると言えるのだ。
■「社会的公正教育」とは『1984年』に登場するダブルスピークなのか?
既存概念の恣意的な定義は「マグロをサーモンと、タコをイカと言い換える言葉遊び」の譬え話から分かるように、言葉遊びのルールを勝手に相手に押し付けることだ。譬え話の言葉遊びでさえ、参加者がそのルールを受け入れるという手続的正義を満たしている。
一方、フェミニストの「アタシ達の中ではこうなんですぅ」という「社会公正教育という文脈」での「マジョリティ/マイノリティ」の用語法はそんな手続的正義すら満たしていない。フェミニスト界隈以外で「多数派/少数派」という意味で、ごくごく真っ当に、そして有用な概念として運用されている概念に対して、「『社会公正教育という文脈』ではこうだから!」と一方的に押し付ける行為は、他の分野で「マジョリティ/マイノリティ」を用いている人々の表現行為を蔑ろにしている。フェミニストは自分達の都合のみで、他の分野の人々が守っている「これこれの言葉はかくかくしかじかとの意味で用いる」というコミュニケーション上のルールを捻じ曲げようとしている。そんな横紙破りをしておきながら、「社会的公正」とは笑わせる話である。
もちろん、ある概念に関して一般的に流通している意味内容から専門領域においてその意味内容が逸脱することが必ず不正となるとなるわけではない。
有名な所で言えば、法学の「善意・悪意」の概念がそうだろう。法学における善意・悪意の意味は「(争点となっている事柄に関して)知らなかった」「(争点となっている事柄に関して)知っていた」との意味である。
法学において「知らなかった・知っていた」との意味での「善意・悪意」の用語法が確立する前に、日本の法律体系として「善意・悪意」の単語を法律の条文に最初に入れたときから、「知らなかった・知っていた」との意味で「善意・悪意」の単語を用いようとしていたかどうかは、法制史に詳しくないので私は知らない。しかし、法律を実際に運用していく中で、「知らなかった・知っていた」との意味で「善意・悪意」の単語を用いなければ様々な不都合が生じてきたから、条文の中にある「善意・悪意」の文言は「知らなかった・知っていた」との意味で解釈するとの用語法が法学で確立したのだろう。
そして、重要な事なのだが、「条文の善意・悪意の文言の意味は世間一般の意味と異なっており、決して混同してはならないこと」を法学教育において口が酸っぱくなるほど注意される。わざわざ、混同しがちな具体例も挙げつつ「善意・悪意の単語の一般的用法」と「善意・悪意の文言の法学における用法」の相違点を説明するのだ。「絶対に間違うなよ!」との注意をすることはあっても、世間一般の用法と法学における用法との区別がつかなくような説明や教育はしないのだ。
また別の例を挙げれば経済学の「公共財」のテクニカルタームもそうだろう。経済学のテクニカルタームとしての公共財は、「非排除性と非競合性を持つ財・サービス」という意味である。すなわち、世間一般の意味である「政府の財や共同体の財などといった公共の財」という意味とは異なる。
経済学が公共財の意味を「非排除性と非競合性を持つ財・サービス」という意味に変えたのは、そのように定義した方が厳密に議論が出来るようになるからである。政府や共同体が所有・供給している多くの財・サービスを経済学で研究していくにつれて、その性質が明らかになっていった。そして、「公共財」の言葉を「非排除性と非競合性を持つ財・サービス」として定義した方が、「政府の財や共同体の財などといった公共の財」と定義するよりも、議論上のズレが生じなくなった。それゆえ、「経済学での議論」という場合において「公共財とは非排除性と非競合性を持つ財・サービス」と定義したのである。
さらに、経済学教育においては法学教育と同様に、「世間一般の意味としての公共財」と「経済学のテクニカルタームとしての公共財」の相違点を示して経済学上の議論において混同させないようにしている。また、法学教育と同様に経済学教育でも具体例も挙げて、「世間一般の意味としての公共財」と「経済学のテクニカルタームとしての公共財」の違いを理解させるのだ。経済学教育においても当然ながら、世間一般の用法と経済学における用法との区別がつかなくような説明や教育はしない。
詳しく例示した法学教育や経済学教育だけでなく他の学問領域においてもある話だ。例えば会計学でも「取引」という用語なども世間一般の意味とは異なる部分を持っている。
しかし、それらの学問領域において用いられている用語が、世間一般でも用いられている言葉と意味が異なるときは、その学問領域での議論におけるコミュニケーションの齟齬を防止して厳密に議論する目的を持っている。そして、コミュニケーションの齟齬の防止が目的なのだから、テクニカルタームとしての意味と世間一般での意味の違いを境界事例の提示を交えて説明する等の工夫をして混同の防止に努める。つまり、その学問領域における議論に限定してさえ、世間一般の意味とは異なる特殊な意味内容で言葉を用いようとするときは公正さ・手続的正義を満たす議論となるよう、努力しているのだ。
それらの他の学問と比較して社会的公正教育はどうか。
「社会的公正教育という文脈での議論において『マジョリティ・マイノリティ』の単語を用いるときは、世間一般の意味とは意味内容が異なるのです」とフェミニストが言いたいのであれば、それ自体は許容できない話ではない。
しかし、それらの社会的公正領域の議論において用いられている「マジョリティとマイノリティ」の用語の意味が、世間一般で用いる際の意味と異なるとき、その領域での議論におけるコミュニケーションの齟齬を防止して厳密に議論をするという目的を持っているのか。そして、コミュニケーションの齟齬の防止のために、テクニカルタームとしての意味と世間一般での意味の違いを境界事例の提示を交えて説明する等の工夫をして混同の防止に努めているのか。
残念ながら、出口氏をはじめとするフェミニストの議論において「マジョリティとマイノリティ」の用語が登場するとき、議論におけるコミュニケーションの齟齬を防止して厳密に議論をする目的も、そのための工夫や努力も感じられない。むしろ、コミュニケーションにおいて齟齬を生じさせ、その齟齬を積極的に利用して自らの集団に対する利益誘導を図っているとしか思えない。
もう一度、neo氏の的確なコメントを振り返っておこう。
全くもって、フェミニストのご都合主義の用語法は、恰も、ジョージ・オーウェル『1984年』におけるダブルスピーク――プロパガンダを担当する省庁を真理省、軍を統括するのが平和省とする用語法―—と同じである。社会的でなく、全く公正ではなく、教育的にも望ましくない文脈を「社会的公正教育の文脈」などとフェミニストは呼ぶのだ。
註
註1 フェミニストの「マジョリティ/マイノリティ」に関する特殊な定義を批判した私のnote記事は以下である。
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