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何でも女性差別にする歪んだ認知

 政治分野において女性進出が遅れている。このこと自体は事実その通りであると思う。また、政治家社会は一般社会よりも年齢層が高いため、政治家社会のジェンダーに関する価値観は一世代以上前であるようにも見受けられる。また、個人的に色々と漏れ聞くところのエピソードでも旧時代的な性別役割分業社会の価値観そのままなケースもよくある。とはいえ、女性議員が「政治における女性差別」と主張する事柄に関し、首をひねらざるを得ない場合も少なくない。今回のnote記事ではそのような女性議員の認知の歪みを取り上げたい。問題にしたいのは、yahoo!ニュースに転載された以下の記事に現れている認知の歪みである。

 では、具体的に見ていこう。

 まず、記事の女性議員は「選挙活動の常識」に関して、それが常識であることについて議会が男性中心であるゆえと考えているようだ。しかし、選挙活動は基本的に有権者に合わせて行うものである。政治家が当選に向けて努力する政治信条以外の部分の行動は、自分に有権者を合わせるのではなく、有権者に自分を合わせる。したがって、議会が男性中心だからなのではなく有権者がそのような存在であるから選挙活動の常識がそうなっているのだ。

 このことが書かれている記事の箇所を引用しよう。

 選挙活動中から違和感を抱いたと語ったのは、芸術写真家の藪さんだ。政治とは無縁の生活を送っていたため、知り合いの「選挙のプロ」の男性に相談した。すると「握手の数しか票は入らない。髪の毛を振り乱しても行け」などと助言され、戸惑った。「選挙の時だけ必死感を演じるのは、あざとくないか。うそっぽい」。結局、握手は求められた時以外は、自分からはしなかった。

ハラスメントにヤジ……、女性議員が語る男性中心議会の「常識」
佐々木雅彦 2023/11/26 毎日新聞

 ここから読み取れる選挙活動の常識とは、以下の二つの要素が有権者の投票行動に強く影響するというものだ。

・握手の数
・議員の必死感

 では、この二つの要素は議会が男性中心であるから有権者の投票行動に影響を及ぼしているのだろうか?

 いやいや、まさか。

 「手を握ってお願いされたら」「必死の形相でお願いされたら」叶えなければならない気になってしまうというのは、議員の性別とは何の関係も無い、陳腐でさえある感情的反応ではないか。

 そんなシーンは映画やテレビドラマで腐るほど見ているはずだ。必死になって差し出される手を握って危機一髪の状況を救い出すのはアクション映画のクリシェだ。幾多の映画やドラマで使い古されようと「必死の形相で伸ばされた手を握るシーン」が未だに用いられ続けられているのは、それが我々の感情に強く訴えかける力を持っているからに他ならない。

 そして、そんな映画のシーンにおいて手を伸ばしているのは男性だけか?

 そんなことはあるまい。男性だけでなく女性も高齢者も子供も、様々な人間が手を伸ばしている。そんな手を握る側も老若男女問わない。

 結局のところ、そんなシーンに有権者が弱いのだ。そんな風に頼まれると特段の政治信条が有権者側に無ければ「手を握った相手を助けてやろう」「必死になっている奴を応援してやろう」と思ってしまうのだ。そして、その有権者の心理を政治家は選挙活動に利用しているのである。つまり、有権者の投票行動から政治家は合理的に振る舞っているに過ぎないのだ。

 したがって、「男性議員は当選意欲が強く、女性議員は当選意欲が弱い」というのでない限り、議会が男性中心であるが故に生まれた選挙活動の常識なのではなく、男女どちらが議員になろうと選挙活動の常識となるものなのだ。

 引用文中の藪氏が上記のような選挙活動の常識に違和感を持ったのは、単に有権者の心理や投票行動に関する無知から来ているに過ぎない。自分が知らない分野における単純な行為に対して人間は「それは下らないことだ」と考えがちである。

 例えば、ネットにおいて「現場猫」という形で揶揄されている現場作業の指差し確認は一見バカバカしい取り組みのように見えるが、指差し確認の有無は事故率の高低に大きく影響する。あるいは、コンタクトスポーツにおける試合終了時の礼・握手・ハグもバカバカしく思える決まりだ。しかし、あの行為は試合の遺恨を(なるべく)残さないようにする工夫なのだ。

 そういった門外漢にとっては意味不明の些細な行為に見える、重大な影響を持つ行為というものは様々な分野において存在する。

 選挙においてはそれが「握手」であり「必死さの演出」なのだ。藪氏はこれまで政治とは無縁の生活を送っていたためにそれを知らなかっただけの話である。

 もちろん、「握手」や「必死さの演出」によって投票先を決めてしまう有権者の行動は望ましいとは言えないだろう。有権者は政治家のビジョン・公約・政策、あるは政治力や"自分達の想いを代弁する力"などによって投票先を決めるべきだ。

 しかし、そのことは議会が男性中心でなくなれば達成できるという種類の話ではない。有権者のレベルが上がることによってはじめて達成できる問題であって、議員の性別の偏りというものは関係が無い。つまり、「ジェンダー差別」や「男性中心の政治文化」といった文脈で選挙活動の問題を捉えるのは、認知にフェミニズムによって生じた大きな歪みがあるとしかいえない。







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