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☆【小説】「龍と空色の歌」第1話【創作大賞2024・応募作】

第一話 二〇一X年 ──風

 地下鉄の駅。ホームには熱気が吹き抜けている。
 列車が猛烈なスピードで走り去る毎に起こる風。
 八月の酷暑の熱が地上からこの地下の空間にまで来ている。それは旋風となって圧倒的な勢いで襲いかかり頬をなでる。
 墨絵《すみえ》は前髪を直し次の訪問先の所在地を確かめようとホームのベンチに腰を下ろした。
 今日はもう三社目だ。
 午前中に二社。いずれも一時間程の打ち合わせをして午後を迎えた。
 二年前にもこんなことをしていたな、と思った。就職活動の頃である。リクルートスーツに身を固め会社を回った。
 前髪を眉毛に少しかかる位に切りそろえている。前髪は大事だ。とても。
 髪の生え際と眉毛の雰囲気が父親にそっくりなのだ。親戚にそっくりだねと言われたのを鏡を見る度に思い出す。
 子供の頃は嬉しい気もしたが、今は嫌なだけだ。なので前髪を少しかけた眉毛にして印象を和らげる方法を見つけ出し、それをしっかりと守っている。自分のベストセッテイングだ。
 墨絵という名前も微妙だ。もっとカラフルな名前が良かった。
 父親からは日本画の持つ端正で清楚な印象の女性になって欲しいと祖父がつけた、と聞かされた。墨絵にとっては灰色の印象しかない。
 なんで白黒の世界なのよ。自分の娘なんだから自分の意見を持ってつければ良いのに。もっとカラフルな名前、例えば「花菜」とか。使う文字も純粋な絵、「純絵」とかにすれば良かったのにと思う。それに、荒々しい「墨絵」もあるんじゃないのか。
 いずれにしても画数も多いので子供の頃から面倒ばかりだ。
 試験の時に氏名を最初に記入するのに時間がかかり問題になかなかたどり着けない。周りのライバルたちは第一問に取り組んでいるのに毎回「墨絵」をかいているのだ。
 タイムマシンで過去に戻って、命名の紙に筆で書こうとしてる祖父の腕を握って止めたいくらいだ。「おじいちゃん、将来、孫はがっかりしてますよ」って叫びたい。
 そのためか、子供の頃から同年代の他の子と比べて、人生の課題に取り組むのが何かと遅れる気がしてならない。就活も出遅れまいと頑張った。でも、面接の自己紹介で「墨絵」の由来をどうしても説明することになりアピールする時間が無くなった。面接官がスルーしてくれない。
 人の名前をいじるのは最低だと思う。
──ちょっとあんた、時間は大丈夫?── 私の中の『客観的な墨絵』だ。
 しまった。妄想空間へのダイブ。バックと仕事道具の入った鞄を抱え直し墨絵は我に返った。
 子供の頃から妄想に耽る癖があった。
 白いクマのぬいぐるみが私のお供で一緒に何処へでも冒険の旅に出かけるのだ。中学性になった頃、クマさんから『客観的な墨絵』に変わった。
 客観的なもう一人の墨絵が頭の中にいて、周囲の景色を一緒に眺めている。そして、リアルな墨絵に客観的なコメントをしてくるのだ。これを『客観的な墨絵』と呼んでいる。結構、突っ込んでくるのだ。
 文房具メーカーに就職した墨絵は仕事でデザイン会社を訪問して回っている。新しい商品のデザインを依頼するためだ。新製品として開発するノートのコンペの企画を任されていて、全部で十社近くの応募を集めなくてはならない。
 残業で深夜まで会社に残り、自分ではちょっと不本意だと思う仕事をしている時も会社訪問をしていた頃を思い出す。この仕事、自分に合っているのか、この会社で良かったのか、と思う。そんな時にも客観的な墨絵が突っ込んでくるのだ。「そんなことしていると、時間の無駄よ、無駄。あなたのキャリアに何のプラスになるの、今のその仕事。あなたの本当にやりたいことなの?」と言ってきたりする。
 その度に墨絵はこの苦労がきっと役に立つ、と思うようにして来た。そんな自分を真面目にやっている人間だと墨絵は思う。
 私は地道だ。
 幼い時から文房具が好きだった。名前の画数が多いからかもしれない。筆記具で丁寧に名前を書く作業は嫌いじゃない。文房具を作ってみたかったかどうかは自分でも明確にはわからない。それでも採用面接では「自分らしい、お客様に寄り添い、支える文房具や、買っていただいた方の人生のターニングポイントになるような文房具を作ってみたいです」と返答した。
 でも自分らしい文房具って何だろう。文房具で人生を転換することってそんなにあるのだろうか。
 人を支えるって何だろう。そして文房具を作ることを職業にする意味とは何なのだろう。誰かに喜んでもらえると嬉しい。そう言うことなのだと思うのだけど、自分らしい文房具が人に喜んでもらえるものなのか。そんなことが今一つわからない墨絵だった。 
 おっと、また妄想空間だ。いやいや、これは人生を沈思黙考する崇高な思考タイムなのだ。客観的な墨絵を追い払いながら墨絵は自分に言い聞かした。

 サングラスをかけた男が列車からホームに降り立つ。夏の暑いこの季節にダークスーツを着込んで、明らかに周囲から浮いた雰囲気を醸し出している。
 妄想を膨らませている墨絵の隣のベンチに座り、男は上着の内ポケットから扇子を取り出すと顔面に向かって慌ただしく扇ぎ始めた。結構な扇ぎっぷりで風が墨絵のところにまで届く勢いだった。
 周囲には数人の客がいて、男に視線を時折向けている。
 男はそれだけの異様な雰囲気を醸し出しているのだから仕方がない。きっと客観的な墨絵が観たら、あんた、何ぼんやりと座ってんのよ、逃げなさいよ、というだろう。
 そうとは気付かない墨絵は鞄から取り出した書類を見つめていた。
 なんだか風が強い。
 スマートフォンの画面では目的地への地図が小さくて見間違え易い。紙に印刷をして持ち歩いている。同年代の同僚からはオヤジみたいだとか、スマートフォンで見れば済むのに、とか言われるが、自分らしい真面目な仕事のやり方だと思っている。屋外では太陽光線でスマートフォンの画面が見づらい。道に迷ってしまうと時間のロスになるので墨絵はそうしているのだ。これは墨絵のちょっとしたルールだ。
 駅前に出て少し歩かなくてはならないようだ。通りに面したビルの十四階にオフィスを構えるデザイン事務所を訪ねる予定だ。午後の一時過ぎに約束している。
 あと二十分はあるので今から向かうと早すぎる。
 資料を鞄に戻し「ガスパラ・スタンパ」のバックからヘッドフォンを取り出し耳につけようとした。ノイズキャンセリング機能のあるヘッドフォンで音楽を聴いて休憩だ。電源を入れると無音になっていく。この感覚が墨絵は好きだ。別の世界に移行する感じがする。
 そのとき、隣の男が立ち上がる。
 立ち上がっただけではない。
 男は墨絵の右手首を掴んだのだ。なんだか手首を捻るように回し、手の平を男の顔に近づけるように引っ張る。
 ちょっと何するのよ。ヘンタイ?!手の平フェチ?
 墨絵は反射的に男の手を振り払おうとした。
 男がこちらを見つめて、とはいえ、サングラス越しなので眼差しは確認できない。ダークスーツにサングラス?この暑いのにネクタイまでしている。うーんと、ショウワ、そう昭和だ。


「行こう、時間だ」男は言う。
 びっくりして脳が痺れそうになった。なぜか危険を感じるよりこの男がどこへ行こうとしているのかが気になった。
 男の低く響くその声が何かを訴えているように感じた。
 いずれにしても「驚いた表情、恐怖心抜き」の表情で男の顔を睨んだ。
 正確には睨もうとしたのだが墨絵の癖が出る。こんな時でも愛想が良いのだ。
 睨んだつもりでも『あんた呆然と男の顔を見ていたわよ』と客観的な墨絵が見ている始末だ。
 男につられて墨絵も立ち上がった形となり、促されるままに歩き出した。
 ちょっと待って、私は会社の用事で訪問先の会社に行くんじゃなかったのか。このままでは上司に叱られてしまう。
 墨絵は足を止める。
 男は墨絵の顔を見て「どうして立ち止まるんだ」と聞く。
 語気が荒い。
 どうして?って、あんたはどうして私の手を引っ張ってんのよ。
 訊きたいのはこっちだよ。思いとは別に墨絵は言葉を発する。


「あなた、だ、誰ですか」ここで敬語かいっ、と客観的な墨絵だ。普通「あんた誰?!」でしょ。驚いた表情で男はつかんでいた手を解いた。
 力を入れていた墨絵の手は宙に舞う。

「櫻能《さくらのう》墨絵さん、ですよね」 
 げ、でもなんで私のフルネームを知っているの?
 さっき私が見ていた印刷したメールか何かを盗み見たのだろうか。でも、冷静なトーンで、とてもいい声だ。
 でもでも、いやいや、ただの変態かストーカー? それに手の平フェチだし。どこからつけてきたの? 会社から? ひょっとして家から?
 墨絵の頭の中を思考が千切れて断片となり駆け巡る。

 男はちょっと考える表情をした後、墨絵の耳元近くで囁いた。
「レモカ・デザインの柏木です。申し遅れました」
 え、ちょっと待って、なんで私の訪問先を知っているのよ。
 で、柏木って、あなた、ホントに……
 アポをとったメールの相手は確かにレモカ・デザインの柏木美樹だ。でも美樹って男だったの? でもでも、なんて失礼な。
 客観的な墨絵が、ありがちー、美樹っていったら、男の名前にもあるよね。


 男は少しだけ笑顔になった、ような気がした。
 サングラスを外す。あ、結構、綺麗な目、端正な顔立ちの人だ。ちょっと私ったら何を考えているんだろう。ただの変態ストーカーかもしれないのに。
 あ、そうか、もはや変態ストーカーじゃない。訪問先の会社の人だ。

「そうですよね。自己紹介が遅れました、改めまして。私、レモカ・デザインで渉外・人事担当をしている柏木です」
 失礼だけど結構紳士的な、えっと失礼だったら紳士じゃないわ。と、リアルな墨絵と客観的な墨絵の対話。この人は誰? 私は誰? 私は私。それは間違いない。
 混乱の極みだ。
「ちょっと事情がありまして、お知らせしていた場所ではなく、別のオフィスで打合せをしなくてはならない状況でして、一緒に来ていただけませんか」
 流暢な言葉で男は墨絵に告げる。
 最初からそう言ってくれればいいのに、なんでいきなり腕を掴むのよ。失礼ね、全く。
 それに、なんでサングラスなんてしてるのよ。印象悪いじゃない。心の中でつぶやく墨絵。
「すみません。角膜が弱いので外を歩くときにはこうしているんです」
 え、しゃべっていないのに。私、独り言でも漏らしたのだろうか。
「まずは、私について来ていただけますか。ここは駅のホームなので落ち着いて話が出来ない」
 そりゃそうよ、あなた。駅員に突き出してもいいのよ。
 男は墨絵に正対し改まった話し方になった。
「さっきは腕を掴んで申し訳ありませんでした。本人確認できたらすぐにお連れしないといけないと社長から言われているもので」
 本人確認と腕を掴むの順序が逆ね。客観的な墨絵がコメントする。客観的な墨絵はいつも冷静だ。


 社長? そんなに私が依頼する仕事っていいのかしら。墨絵は驚いた。社長と直接、話をする仕事になるなんて。入社二年程の墨絵は他の会社を回っても大抵、若い社員が対応し、直ぐに上に話が通らないことばっかりだ。
 だってレモカ・デザインはちっちゃなデザイン会社よ。あんたの会社は大手の文房具メーカー。そりゃ、社長が会うって言うに決まってるじゃない。客観的な墨絵が見解を述べる。それもそうね。
「そうです。いずれにしても、来ていただけますか」男は墨絵に告げる。
 

違和感だ。
 まるで墨絵と客観的な墨絵の会話を聞いていたかのような自然な『そうです』から話し始める男を見つめ直した。
 状況からは男を睨みつけるのが自然なところだ。ところが墨絵はなぜか男の顔をただ見つめ直すだけだった。
 何が起きているんだろう。小さな会社だからちょっと変わっているのか。
 仕事の用事で来ているんだし、社長さんが会いたいと言っているんなら仕方がないわね。墨絵は客観的な墨絵とも折り合いをつけて、男の指示に従うことにした。

 改札を抜け、階段を上がり、地下鉄駅出口、地上の通りに出る。さっき見た地図では地下道から直結しているビルに入るはずだ。
 しかし、男は今、灼熱の太陽を浴びながら車道に二メートル程食い込み、タクシーを停めようと右腕を高く挙げている。暑い。目眩がしそうなくらいに暑い。

「さあ、どうぞ、奥へ」
 促されるままに男が停めたタクシーに押し込まれ、後部座席に収まる墨絵。車内のエアコンの風が墨絵の頬をなでる。生き還った。
 後部座席の奥ならお客さん扱いはしてくれているのね、と客観的な墨絵。
「六本木。キタサンバンにつけてください」男が短く伝えると運転手は行き先を復唱し、二人を乗せて走り出した。

 膝の上に置いたバックと鞄を抱え、墨絵は運転席を見つめていた。というか正確には運転席に貼り付けられたタクシー会社の広告を見つめながらぼんやりと考えていた。
 キタサンバンって何だろう。「キタさんバーン?」墨絵の思考にはそんな言葉しか浮かばなくなっていた。キタさんって誰だ。暑さにやられ、あまりにいきなりな展開にまともな思考は停止していた。我ながら馬鹿みたいだ。それに、うっかり呟くところだった。
 隣の男になんて言われるかわからない。
 私はどこに行くのだろう。
 客観的な墨絵は「行ってみて、やばかったら逃げ出すのよ」と告げてくる。真面目な墨絵は、いやいや、そんなことにはならない。大事な仕事、きっと社長がキタさんなのかもしれない。と、少ない情報から自分の行動を肯定するため、全く根拠もないままに状況をなんとか信頼しようとしていた。
 だが、状況が理解できていない事には何ら変わりはない。
 バックと書類鞄の二つを再び抱きしめ直して墨絵は逃げ出すときのために備えた。


(2話へ)
https://note.com/sakurarira/n/n3c66f48663d8?sub_rt=share_pb) 


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