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ラヴェルと左腕のピアニスト

夏目久生(Sakuraphon)


 パウル・ヴィットゲンシュタインは、実業家カール・ヴィットゲンシュタインとレオポルディン・マリア・ジョゼファ・カルムスの四男としてウィーンに1887年に誕生。第一次世界大戦中に負傷から右腕を失い、左手のピアニストとして成功を収めたことで知られています。また、高名な哲学者ルートヴィヒ・ヴィットゲンシュタインの兄にもあたります。

 当時、ウィーンの上流階級であったヴィットゲンシュタイン家には、ブラームス、クララ・シューマン、ヨハン・シュトラウス、マーラー、ヨーゼフ・ラーボル、リヒャルト・シュトラウスなどの著名な文化人が頻繁に訪れ、演奏会を開いていました。若き日のパウルは、彼らと連弾演奏などをして恵まれた環境で育ちます。


 公式な音楽教育は、10歳でレシェティツキの助手であったマルヴァイン・ブレ Malvine Brée のもとで準備を整え、1910年、22歳でレシェティツキ本人に師事、1913年にはウィーン楽友協会大ホールで独奏会デビューを果たします。その翌年の1914年に第一次世界大戦が勃発、パウルも徴兵されます。愛国精神の強かったパウルは敵陣偵察中に右肘に被弾し、そのまま野戦病院で右腕の切断を余儀なくされます。もともと不屈の精神を持っているパウルは、右腕を失った直後から、リストの高弟であるゲザ・ジチ伯爵のように左手だけのピアニストとして活動することを決意し、マルヴァイン・ブレの助言を得ながらほぼ独学で鍛錬を積み、これまで片腕のピアニストでは不可能とされていた演奏ができるよう新しいテクニックを考案します。後に、この実践的なトレーニングを、左手のピアニストのための教則本として後世にも残しています。そして1916年12月には、左手だけのピアニストとして再デビューを果たします。

 豊かな富を活用し、有名な作曲家たちに左手のためのピアノ作品の作曲を依頼しました。依頼を受けた作曲家たちには、モーリス・ラヴェル、セルゲイ・プロコフエフ、ヨーゼフ・ラーボル、セルゲイ・ボルツキェヴィッチ、エドゥアルド・シュット、フランツ・シュミット(レシェティツキの弟子)、ヴォルフガング・コーンゴールド、レオポルド・ゴドフスキ、リヒャルト・シュトラウスなど、錚々たる面子が名を連ねています。中でもラヴェルに作曲を委嘱し、「左手のためのピアノ協奏曲 (1930) 」を誕生させた功績でクラシック音楽史に大きな足跡を残しました。これらの楽曲の独占演奏権を手にしたパウルは、ヨーロッパ各地から多くのコンサートの依頼を受け、コンサートピアニストとしての大成功を収めることになります。

 本CDに収録したFavoriteレーベルから発売されたヴィットゲンシュタインの初レコーディングは、右手を失ってから僅か4年後、おそらく1918年8月に陸軍を退役した頃に行われており、これら希少なSP盤は研究家の間でもあまり知られていませんでした。
特に技巧的にも注目すべき演奏は、ゴドウスキによるショパンの革命のエチュード編曲でしょう。これは、パッハマンにも有名な録音があります。その後、電気SP時代には公式なレコード録音を行っていないようで、冒頭に収録した1933年の放送録音やライブ録音があるのみです。ようやくLP時代に入ってからラヴェルの協奏曲やリヒャルト・シュトラウスのパラゴンといったオーケストラを伴う大曲をはじめ、左手の為に編曲されたバッハ=ブラームス編「シャコンヌ」など、様々なピアノ小品を正式に録音しました。なかでもレシェティツキ編のドニゼッティは、師匠へ捧げた演奏としても記念碑的と言えるでしょう。


【収録トラック】
● パウル・ヴィットゲンュタイン(1887-1961)
ラフ:紡ぎ歌
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲より抜粋
シューベルト/リスト/ヴィットゲンシュタイン:海辺にて(1918年SPレコード録音)
シューベルト/リスト/ヴィットゲンシュタイン:君こそわが憩い(1918年SPレコード録音)
メンデルスゾーン/ヴィットゲンシュタイン:子供の小品
ゴドフスキー:ショパンのエチュードによる練習曲 第22番 左手のための「革命エチュード」(1918年SPレコード録音)
ドニゼッティ/レシェティツキ:左手のためのアンダンテ・フィナーレ〜「ランメルモールのルチア」

「レシェティツキの弟子たち 第5集」は、1887年から1890年に生まれたピアニストたちを収録しています。1886年ににフランツ・リストが没し、その翌年にはアルトゥール・ルービンシュタインが生まれています。
ポーランド生まれのルービンシュタインは、ロマン派の香りを残しつつもモダンなスタイルとの折衷的な演奏で20世紀の代表的なピアニストとなりました。
ここに収録したレシェティツキの弟子たちは、モダンな時代への過渡期の中でも19世紀的ロマン派のピアニズムを継承していることが聴いて取れます。当時、唯物主義的なモダニストの台頭に追いやられる運命にありましたが、また時代は一巡し現代では不確定的な揺らぎのある古いロマンティックなピアニズムが再び求められているのではないでしょうか。


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夏目久生(Sakuraphon)

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夏目久生(Sakuraphon)
ピアノSPレコード研究家、マスタリング・エンジニア、作詞作曲。 バンドデビュー(BMGビクター)、アートディレクター(WEB企業)、DIW Classics(ディスクユニオン)を経て、19世紀ピアニズムの歴史的録音復刻CDレーベル「Sakuraphon」を主催。