SNSと炎上と感情とこころ

「自分の声を聴いてほしい」という人がこんなにいるんだ。
SNSがこの世に出てきたとき、恥ずかしがり屋の私(自分評)はその事実に驚いた。
自分のことを語ったり
人を応援したり
誰かに何かを尋ねたり                                                                                          
ちょっと前(いやいやずいぶん前)までミニコミ誌とかファンレターとか雑誌の「Q&A」欄とか、そんなところに向けて手書きして封筒に切手貼ったりしてたことが今ではずいぶんお手軽になった。                                                  
そしていろんなものが混ぜ混ぜに大量につらつらと世の中を出歩くようになった。
そうこうするうちに「炎上」というキーワードが跋扈する。

匿名
言いっぱなし:発言後の影響は受けない前提

ということは、なんだか覆面して遠くから「言ったった」後に国外逃亡してる。みたいな。そして逃亡先のX国の国際ニュースでその余波を見るのである。

主義主張のある発信(先日巻き起こった政治に関するハッシュタグ)
みんなで現在のストレスを共有して乗り切ろうとする発信(コロナのせいで失業、、。やってらんない)
などなど、トゲトゲはしていても、世論のうねりみたいなものを生み出すことは匿名だからこそできることかもしれない。
つまり発信するその人の使い方次第だ。

イライラしたり、カッとなったり、激しい言葉を言いたくなったり、そんなことはいつでも誰でもある。
人生は思い通りにいかないことだらけだし、不条理で不当な扱いを受けることはそこら中にある。
それをSNSで「みんなが攻撃しているところに追加」で入っていくことでストレス解消している人がいる。「みんなが攻撃している」から「もし反論されても自分だけがターゲットにならない」という安心がある。安全と安心は大事。

こんな自分の感情統制のためのSNS利用は自分への偏ったケアである。よって目線は自分で「相手の感情」は見ないことにしてひたすら進む。
自己完結できず、他者を貶めることでごまかしているだけなので、実はお手軽なようで思った以上に傷は深い。
自分のこころは確実に痩せている。何度それを繰り返しても「心の安定」は決して来ない。

ずっと前、昭和という時代に12歳だった私は、あるスターにファンレターを書いた。
何度も書き直してやっと花柄のかわいい封筒に入れ、切手を貼ってポストのある川向うに向かった。夜だった。
ぽつりぽつりと歩いてやっと川が見えてきたところで、なんだか急に手紙の内容が恥ずかしく思えてきた。
それが「バカみたい」にカッコつけた文章のような気がしてきた。「おかしなファンだと思われるに違いない」という確信に変わってきた。
橋を渡って赤いポストが見えてきたところで、「やっぱり出さない」と決心して踵を返した。

書いたのは自分だ。読むのは相手だ。
赤いポストは少し向こうにあるのだよ。


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