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7月「エーデルワイスの思い出」③

「じゃあ、二人とも気をつけて。いってらっしゃい」

 花屋の店主である男性に見送られながら、僕は彼女を車の助手席に乗せる。彼女は緊張した面持ちでぎこちなく笑みを浮かべると、男性に一つ会釈した。僕はそんな彼女を見つめながら、数日前を思い出した。

 メッセージを送った翌朝、店を訪ねると、彼女と店主である男性の姿があった。花屋の営業時間である、夕方から明け方までの時間帯を男性が切り盛りし、彼女は昼間の配達がメインだと言っていたから、午前中の内に引継ぎをしているんだろう。二人が話しているのを店先で何となく見つめていると、僕の姿に気づいた男性が、店のガラス戸を開けて声をかけてきた。彼女は僕のことを男性の知り合いか何かと思っているのか、特に気にかけている様子はない。記憶が戻っていないのだから、当然と言えば当然のことで、頭では理解しているのに、やはり面と向かって彼女の視線からそう感じさせられるのは、とても辛かった。

 店主の男性が彼女に声をかける。そして思いもよらないことを告げた。

「彼がさっき話していた運転手ね。彼は記憶を失くす前の絢ちゃんと、長い付き合いの人だから、俺も安心して頼んだんだ。昨日知らない番号からメッセージが届いたって話してたでしょ。俺が連絡手段として番号を教えたんだけど…ごめんね、昨日は開店時間に予期せぬトラブルがあって、伝え漏れてたよね。とりあえず自己紹介は必要ないだろうから、早速お願いしても良いかな?」

 店主の男性が彼女に告げた「運転手」という言葉を不思議に思っている間に、どんどん話が進んでいって、僕が口を挟む暇もなく話は終わってしまった。彼女は男性の話に、時折チラチラと僕に視線を向けていたので、僕は彼女の視線を受けて、少し緊張した面持ちで佇んでいた。話が終わると、彼女は早速準備を始めた。店の奥を行ったり来たりして、少しずつ花木を店先に運んでいた。その間に男性が僕に近寄ってきて、趣旨を説明し始めた。その話によれば、どうやら今回大型の注文が入ったらしく、配達先が市外にあるから、僕の運転で彼女を乗せていってほしいということだった。彼女の体のことを考えると、まだ長距離運転は避けたいけれど、どうしても今回は断れないお得意様だということで、僕を運転手にすれば一石二鳥だと男性は考えたらしい。

 彼女が店先に運んできた花木を三人で荷台に積み込むと、行先の住所が書かれた紙片を渡された。

「配達が終わったら今日の仕事はそれで終わりだから、ついでに散策しておいで。絢ちゃんも記憶を探す旅をしてくると良いよ。幸い彼が手伝ってくれるには最適な人だから、いろいろ連れてってもらうと良い。じゃあ絢ちゃんをお願いします」

 『記憶を探す旅』そう告げた男性に、彼女は一瞬戸惑った表情を見せた。失くした記憶を取り戻すつもりがなかったのか、僕が同伴することに対してなのか、それとも最適な人と表現された僕が、自分自身にとってどういう存在であるかを疑問に思ったのか…その全部なのか。そんな彼女の表情を見つめながら、僕は未だに悩んでいた。彼女にとって記憶を思い出さないことが、正解なのか否かを。けれどすぐに頭を切り替えて、今は彼女と出かけることだけを純粋に楽しむことにした。彼女にとっては仕事以外の何ものでなくても、この時間がせめて苦痛ではなく穏やかなものとなってほしい…そう思った。

 彼女が助手席に乗り込んだのを見計らって、ドアを閉める。彼女は窓を開けて見送る男性に、緊張した面持ちでぎこちなく笑みを浮かべると、男性に一つ会釈した。僕も倣って男性に一つ会釈してから運転席に乗り込んだ。そして手を振る男性に見送られながら、車を発進させた。

 行きの車内ではお互いに緊張していて、何を話したか正直憶えていない。多分当たり障りのない天気の話や花屋の話をしたはずだ。あとは適当にラジオをつけて、流行の音楽が流れることで時間を埋めた。

 配達先に到着すると、彼女は仕事モードに切り替わったのか、テキパキと作業を開始した。こんなに間近で彼女の仕事ぶりを見るのは、実は初めてだったが、僕の記憶の中の彼女とも全然違う姿をしていた。仕事と花に真摯に向き合う姿は、いつか自分の店をもちたいと話していた時とも違う、もっとキラキラと輝いていて、美しかった。配達先は、大事なお得意様といっていたせいか、彼女は初め少し緊張していたが、相手は記憶を失くす前の彼女のことも今回の事情も知っているのか、彼女に対して気さくに話しかけていた。相手が男性ということもあり、更にいえば相手の男性は華道家らしく、彼女と花の手入れのことや花木のことをあれこれと、時々僕には解らない言葉で親しそうに会話している姿を見ていると、嫉妬でおかしくなりそうだった。そんな格好悪い自分を彼女には気づかれないように、荷台に積んである背の高い花木を運ぶことで、顔を見られないようにした。けれどそれは同時に前を見ることも困難で、僕は何かに足を取られて花木ごと倒れそうになった。それでも花木だけは何とか守ろうと、身をよじって背を地面に向ける。痛みに備えて目をつむったけれど、いっこうに痛みはやってこない。代わりに腕に温かい体温を感じた後、彼女の声が耳に入った。

「大丈夫ですか⁉」

 目を開けると、僕の腕と花木をしっかり掴んだ彼女の姿があった。そしてその隣で彼女を支えるようにして立つ華道家の男性も、花木を掴んでいる。

「すみません、設営の段階で配線を床に這わせていたんですが、危ないから固定するように伝えていたのに、私の管理不行き届きです。怪我はありませんか?」

「あ、はい。お二人が支えてくださったので…大丈夫です」

 純粋に心配している男性を見て、先程の自分の邪な嫉妬心が羞恥心に変わる。なんだかバツが悪くて、歯切れの悪い返答になったが、男性は僕が咄嗟の出来事に茫然としていると感じたのか、この事態を反省しているのか、申し訳なさそうにしているだけだった。そして危ないからと言って、スタッフを呼びに奥へと入っていった。僕は残された彼女に目をやると、彼女の手はまだ僕の腕を支えていた。

 久しぶりに感じた彼女の手の感触と体温に、僕の心が震えた。けれどそれも束の間で、彼女の表情が曇ったと思ったら、彼女は口をきゅっと結んで、キッと鋭い眼差しを僕に向けた。それは僕の知らない彼女の顔だった。え? と思う暇もなく、彼女は声を荒げた。

「何を考えているんですか!! その花木を守って、あなたは怪我でもするつもりだったんですか⁉ それで私がどんな思いをするか考えなかったんですか⁉ あなたが身を挺して守って、何になるんですか!!」

 それは見たこともない聞いたこともない、彼女の怒った姿だった。僕は僕の知らない彼女の姿に、ただただ戸惑いを隠せなかった。

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