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生活のない生活

自分が鬱になった原因を考えていた。


生活をすることを考えずに全ての計画を考えていた。
母親のおかげ、同居人のおかげ。
料理も洗濯も掃除も気が向いた時だけすればいいものじゃなくて、毎日の生活なのに、自分でそれをやらずに生きてきてしまっていた。
家庭科とか図工みたいな感じでしか料理や掃除ができない。家庭科とか図工の教科としてなら、同居人よりずっと料理は得意だし、掃除も得意だけれど、生活の中の料理や掃除だと思うと一切のやる気を失う。東京の人は、いつから生活に対する責任感というものを獲得するのだろうか。全てのことができるけれど、全てのことを同時にすることはできない。だから分業体制が効率良いとされてきたんだろう。鬱になるちょっと前から思うようになったのが、秘書が欲しいということだ。秘書なんて自分のレベルだと到底雇えないが、それでも秘書が欲しいという願望が芽生えた。
自分の頭の中に毎日料理や掃除をするという前提が全くなかった。そんなの、必要になったときに気分が向いたときにやればいいことだと思っていた。よく考えてみるとおかしいことだけれど、私の中では生活をした上で何か生産したり進捗を産んだり好きなことをしたりするという発想が全くなく、生活とは労力を一切かけずとも過ぎていく何かで、労力をかける部分は学業のみだと思っていた。多分本来は、生活を一番最初にやって(または家事代行を使って終わらせて)、その後に仕事とか研究とかをするものなんだろう。生活をするという意識がどこからなくなっていたのか。

上記事『うつノート』にも出てきた、キラキラ女の子と話しているときに、「衣食住どれにお金をかけたいか?」みたいな話題を振られて、自分は何にもお金をかけていないと思った。住は0円、強いていうなら食だけれど食も高いものは買わない。衣に関しては、そもそも服を全く買わないし、買ったとしてもどこにきていくのかよくわからないイチゴ柄のワンピースとかキラキラのビーズ刺繍が散りばめられたカーディガンとかしか買う気持ちにならない。ユニクロやGUの基本的な服というのを買う気がしない。なぜお金をかけて普通のなんの変哲もない個性もない服を買わなくてはいけないのか、と思っていたが、ここに生活力のなさが顕著に現れていたと今振り返ると思う。キラキラ女の子は、「私は住にお金をかける」と言ってた。家賃は12万円のところに一人で住んでいるらしく、いくら給付型の奨学金をもらっているとはいえ、修士の段階で仕送りなしで12万円のところに住もうと思うのは私の感覚とは完全にずれていた。

イチゴ柄のワンピースや帰り道のコンビニで肉まんなど、自分の幸福度を高めそうなものは変えても、自分の幸福度を支えるための土台となるものは一切買えていなかったということだ。よく考えると、調味料とかトイレットペーパーとか箱ティッシュとか本棚とか、そういうものは自分で買ったことがない。全て同居人が買ってきてくれている。信じられないと思うけれど、2年一緒に住んでいて今気がついた。

受験の時は、こういう生活を半年間送っていたが、自分が考えないといけないのは、行きの電車では英単語覚えて、徒歩中はリスニングして、午前中は数学やって、午後は物理やって、寝る前は英語をやろうみたいな、自分が受験に合格するために何が必要かということだけだから。

中高の部活をやっている時も、大学受験の時も、失恋している時も、大学の授業が難しくて勉強を頑張っている時も、自分の労力全部を全力でそこに費やしてきた。
今思うとそれってすごいことなのかもしれない。

なぜ鬱になったのか。生活のことを度外視しつつ生活しながら研究も頑張ろうとしたら、全部中途半端でうまくいかなくて全部嫌になったから。
同居人に生活の8割以上を担わせてしまっているが、どう考えても同居人の方が生活以外も忙しい。そんな中、もちろん私も同程度の家事をしようと思うのだが全然うまくいかない。

仕事も研究も意外と本質以外の部分を頑張らないといけないということが見えてきてから、私はダメかもと思ったのかも。
本質だけ頑張れば割といいもの→勉強、文章執筆、コーディング、家庭教師、恋愛
本質以外が90%なもの→研究(お金もらうための書類プレゼン資料とか、研究発表資料とか、コーディングとか)、放送関係のバイト(音声やカメラマンをやるのは一瞬で99%が荷物運びや八の字巻き)、その他多くの仕事
事務やプレゼンや体力仕事を非本質と捉えているから私はダメになったのかもしれない。ここでの本質は自分にとって自然と気力が湧いてくるものという意味が近いかも。

そう考えてみると意外と多くの人が限度はあるにせよ私と同じ思考法なのではないか。まず仕事を全力でやって残った労力で後回しに家事や育児をする。

昔付き合っていた人が「俺の父親は母親と喧嘩しているところは見たことないけど、外ではすごいクズなんだよね。電車の中でぶつかった人に文句言うようなタイプ」「でも父親曰く、外の他人に優しくするくらいなら家の中の大事な人に優しくした方がいい」と。彼の父親が良い人かどうかは別としてとても納得がいった。
ストレスを溜めるくらい他人に優しくする気力があるなら、家族や恋人や友達の大事な人に優しくして残った労力で外の他人にも優しくするべきなんじゃないかと。
多くの人は外で猫を被って気力を使い果たして家でリラックスしてしまうのか、家族や恋人に当たったりしてしまうけど、本当は身内の方を先に大事にするべきなんじゃないか、と。それ以来、当たり前だけれど一番大事な人、両親、妹、恋人、祖父母、友達に対しては他人よりも優しくなろうと決めた。流石に私は電車の中でも怪我している人や妊婦さんに席を譲りますけど。
でも本当は身内の極限である自分を一番大事にするべきなんじゃないかということにそのときは気がついていなかった。

私の今の同居人は外と中で動きが変わらない。この人は極端だと思うけれど、仕事から帰ってきても、寝転がったりせずに、すぐに手を洗いご飯を炊きお風呂を炊き、夕ご飯を作って食べて洗濯を回しお風呂に入って洗濯物を干して、パソコンを開いて数時間作業をして、明日の服や持ち物を準備してから寝る。そして朝起きてすぐ朝ごはんを作って食べて家を出る。
私は外では渋谷駅での乗り換えも信じられないほどのスピードで歩くほど元気だが、うちに帰ってきた瞬間、まず絨毯の上に寝転がってスマホを見始めるし、朝起きたらまずかける音楽を何にするか考えるので、彼のこの生活スピードについていけない。
急く場所と、ゆっくりする場所を切り分けている。

解決方法
①生活をまずしてから、他のことをする
-毎日料理や片付けをして、残った労力を使って仕事や趣味を楽しむ
-必要なものを買う(洗いにくい可愛いワンピースを買う前に、穴の空いたキャミソールを捨てて新しいキャミソールを買う)
②研究においては、自分にとって本質的だと思うことは全力でやるが、その上で非本質でやりたくないと思うこと(書類作成や出たくないセミナーへの参加など)は今後の生活のために必要最低限なことだけはやり、全部完璧に出来なくても気にしない

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