見出し画像

いってらっしゃい(21)

【サンビバレッジの謝罪会見が終わった。サンビバレッジは再生に向け経営陣を一新、若手中心の改革委員会も発足させる。里沙子はこの世界に居続ける決心を固めるが、トイレで倒れた拍子に…】

三、 再び2016年

 (2)再び9月

「奈々!」
里沙子がうっすらと目を開けると、何をつかもうとしたのか、自分の右手が暗闇の中に伸びているのが見えた。
横たわる自分の体の傍らに、ぱたりと右手を下ろす。全身が汗まみれで気持ち悪い。どうやら布団に仰向けになって寝ている。着ているのは、浴衣か。まだ荒い息が落ち着くのを待ちながら、ゆっくりと周りを見回す。
夜だ。
外からりーりーと虫の鳴き声が漏れ聞こえる。障子を通して柔らかな月明かりが差し込み、ぼんやりと周囲のものが浮き上がって見えた。隣で寝ているのは、娘の奈々。その向こうに、姑のユリ子。二人の静かな寝顔を見ていると荒れた呼吸は次第に治まり、安らかな気持ちが全身に広がった。
そうか、三人で石川の温泉宿に来てたんだっけ。そして昨夜は二人が寝静まった後に、ひとりで露天風呂に入って―。
その先が思い出せない。でも、こうしてここにいるっていうことは、ちゃんと風呂から上がって浴衣を着て寝たということだろう。酔っていたのだろうか。
里沙子は立ち上がり、そっと障子を開けて外を見た。
白山の黒い山塊が、月明かりに照らされて頂上付近だけ煌々と光っていた。それを無数の星が囲む。
長い、夢を見ていた気がする。内容は思い出せない。
山の端をよく見れば、うっすら白くぼやけている。朝が近いのか。きょうもきっといい天気だろう。朝ご飯を食べたら三人で東京に帰ろう。そして、明日からまた仕事だ。
「ん?」里沙子は不思議な感覚に囚われる。
「ア・マ・ザ・ケ」の記者会見をすっぽかしてしまったあのときから、里沙子は仕事に対する情熱というものがどんどん薄れていくのを感じていた。完璧にできないくらいなら、自分が手を出すのは最小限にしよう、人がやりこぼした仕事の球拾いくらいがちょうどいい。生活のメインは奈々を育てること。今はその時期だ。
そう考えていたはずだ。
ところが今、仕事がしたくて仕方がない自分がいる。
育児をしながらでも、自分のペースでできる最大限の仕事を。自分で見つけ、やり遂げていきたい。つまらない仕事なんてない。自分でいくらでも面白くできる。私は、奈々も、仕事も、どちらも取りたい。
だって、自分には理解ある上司や同僚、戦力として物足りないがたぶん愛している夫、そして強力なサポーター、ユリ子がいる。できないわけがない。
なんだろう、腹の底から湧き出るこの自信とやる気は。奈々の母親である自分は、絶対に強い。心臓がどくどくと波打ち始めた。

朝食は、かまどで炊いたご飯にブリの塩焼き、きゃらぶきの佃煮、温泉卵、加賀伝統の漬け物であるかぶらずし。味噌汁の具は大きななめこと堅豆腐だった。奈々が自ら一生懸命スプーンを動かしていることが、その味を証明している。
「里沙子さん、なんだかお肌がつやつやね。ゆで卵みたい」
ユリ子が里沙子の顔を見て感心するように言った。
「そうですか?温泉のおかげかな」
里沙子は照れながら自分の頬に触れた。確かにいつもより弾力があるような。そこに、急須と湯飲みを持った有希が現れた。
「みなさん、よく眠れましたか?川の音がうるさくなかったかしら」
「もう、ぐっすり!」
ユリ子がにこにこと答える。里沙子もそう答えたいところだが、あの寝汗を思い出し、自分は一体どんな夢を見たんだろうと思う。
「…私、なんだか眠れなくてひとりでお風呂に行ったんです」
「あらっ、私も行きたかったわ!でも昨夜はあっという間に寝ちゃったのよねえ、残念」
「夜のお風呂はいかがでした?」
有希がうっすらとほほえんで里沙子に尋ねた。そして続ける。
「あのお風呂、実はおもしろいいわれがあるんです。…龍が来るって」
「りゅう?」
里沙子とユリ子が素っ頓狂な声を上げる。
「そう、あの伝説のいきものです」
見慣れた朗らかな微笑みとは異なる笑い方で、有希が口の端をゆがめた。里沙子とユリ子は、背筋がすうっと冷たくなる。
そこに、調理場からキクが入ってきて、有希の隣に座った。
「おめえは、またお客さんにそんなこと言っとんがかいね」
「だって、おもしろじゃない。そもそもこの話はおばあちゃんが教えてくれたんでしょ」
有希の表情は、いつもの朗らかなそれに戻っていた。
「…おまえの言い方は、なんか怖いぞいね。わざとやっとるやろ、それ。わしのようにあっけらかんと言わな」
「あら、おばあちゃんほどの演技力じゃないけどね。以後気をつけまーす」
漫才のようなやりとりに、里沙子とユリ子はつい吹き出した。
キクがこほん、と小さく咳払いをして話を再開する。
「…で、龍や。ほんとはぁ、もっと山奥の泉に住んどる。それがぁ、ここの温泉が気持ちいいちゅうて、たまにいらっしゃるげん。龍も湯治したいげんと。恥ずかしがり屋やさけえ、みんなに見つからんように、夜中に来なさるわ」
ロマンチックな話だ。
「ほんでも、龍にばったり会うてしまう人もおるわ。ちゅうても、人には龍は見えんげん。そんとき龍は、その人をどこか遠い世界に連れてってしまえんと」
「やだ、なんだか怖いわね」
ユリ子が眉をひそめる。
「なあん、大丈夫や。連れて行かれんがは外国のこともあれば、未来の世界、昔の世界のこともある。宇宙だって。その人が思う世界なら、どこでもありや。そしてその人は、その世界でなんか分からんけど、がんこに楽しい時間を過ごせるちゅうげんと。その間、龍はひとりでのんびりと湯に浸かりなさる。ほんで、龍が湯から上がるときに、その人を別世界から戻らせて、自分は泉に帰って、終いや。残念ながら、その人が別世界で体験したことは、ぜんぶ忘れてしもうっちゅう話やけどねえ」
「へえ」
里沙子とユリ子は、箸を止めて声を合わせた。ユリ子がいたずらっぽい目になる。
「里沙子さん、昨夜はどうだったの?龍に会った?」
「…会った、気がします」
里沙子は真顔で答えた。ユリ子は目を丸くし、有希とキクはにこにこと笑っている。お椀をきれいに空にした奈々は、「たちゅやくんは?」と新しくできた友達を探そうと立ち上がった。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?