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いってらっしゃい(14)

【看板商品「ジャパン&アップル・ストレート100」に表示と異なる原材料が使われていた問題で、サン・ビバレッジは一回目の記者会見を終える。消費者からは苦情が殺到。そんなとき、里沙子はヨッシーにランチに誘われ】

マスコミからの問い合わせはぼちぼちと入るが、昨夜の記者会見が効いたのか、それほど多くはない。社内調査も始まったばかりだ。新商品発売やキャンペーンのリリースは、こんな状況なので自粛傾向にある。広報室は手持ちぶさたな、宙ぶらりんな状態となった。一方で、お客さま相談室に寄せられる消費者の声は日々広報室に届けられ、今回の報道を機に一般職の里沙子とヨッシーも目を通せるようになった。内容は、厳しいものばかりだった。
「得意先への中元や歳暮として、いつも『ジャパン&アップル・ストレート100』を贈っていたが、今回の騒動でとんだ恥をかいた。もうサン・ビバレッジの商品は使わない。(50代男性)」
「30年以上愛飲しており、味の変化にすぐに気が付きました。正直言って、おいしくない。問い合わせたところ、リンゴの品質変化のためで問題ないとのご回答。リンゴの品質だけでこんなに変わるものかと疑問でしたが、今回の新聞報道で合点がいきました。とても好きな商品だっただけに、本当に残念です。(70代女性)」
「離乳食の手始めに果汁を、ということで4カ月の娘に与えていました。0歳児の健康への影響はないのでしょうか?心配で眠れません。リンゴをおろす手間が省けると喜んでいた私が悪かったのでしょうか。夫や姑にはそんな手抜きをするから罰が当たったと責められています。娘に申し訳ない気持ちでいっぱいです(20代女性)」
また、里沙子の頭がきーんと痛んだ。目をつぶると、小さな女の子の笑顔が脳裏に浮かぶ。誰だろう、この子は。見覚えがあるような気がして、里沙子は懐かしい気持ちになった。かわいいなあ。女の子は持っているコップの中のものを嬉しそうに飲んでいる。しかし、直後にコップは手から滑り落ち、音を立てて割れた。
「こんにちは、お昼のニュースです」
ブラウン管の中から、NHKのアナウンサーが正午のニュースの開始を伝える声が響き、我に返った。ああ、もうお昼。ニュースの第一報は、広島が記録的な豪雨に見舞われているというもの。続報は国際捕鯨委員会(IWC)が開幕。商業捕鯨の是非が問われるという。とりあえず、サン・ビバレッジ関連はお休みのようだ。
里沙子は目をつぶり、軽く頭を振った。
―異様にリアルな映像だった。あの女の子はだれ?2歳くらい?この世界では乳幼児と全く接点がない。あるとすると2016年の世界?2016年の世界に置いてきた記憶があるのだろうか。女の子が飲んでいたのは…。里沙子は気分が悪くなる。

昼休み、里沙子はヨッシーに誘われて外へランチに出掛けた。
サン・ビバレッジ本社の近くに最近できた、すかいらーくは、ちょうど昼時とあって混んでいた。82年と言えばイタメシブーム前夜。外食店はサラリーマンで混み合ういわゆる一膳飯屋や大衆食堂で、ファミレスは女子だけでゆったりとランチできる、ほとんど初めての店だった。客の回転は思ったより速く、店に着いて10分と経たないうちに、テーブル席に向かい合って座れた。
ヨッシーの顔を改めて正面から見据えて、里沙子は目を見張った。社食で話し合った朝とは別人のように疲れた顔をしている。頬はこけ、聖子ちゃんカットがぺちゃんこだ。
「…里沙子さん、何にします?」
ヨッシーはうつろな目で、プラスチックケースに入った一枚しかないメニューを里沙子の方に向かって差し出た。生気の感じられない声が痛々しい。
「うん、大丈夫、もう決めたから」
そう言って里沙子は、そっとメニューをヨッシーに渡す。
里沙子は何も言わないヨッシーを見つめる。初めて会ったときは一般職にいがちな、愛想のいいちょっとおバカな女の子、くらいに思っていたが、実は芯がある。よく気が付くし、仕事ぶりが丁寧だ。そして生まれつきだろう底抜けに明るい性格が、つい根を詰めて悲壮な表情になりがちな里沙子や篠崎を救うのだった。そのヨッシーが笑わない。聖子ちゃんカットが揺れない。―それにしても、「一般職にいがちな」なんて、私もどれだけ偏見に支配されているのだろうか。人のことを言えない。里沙子は自省した。
注文からほどなくして、ヨッシーのオムライスと、里沙子の鯖みそ定食が運ばれてくる。味は2016年のファミレスの水準に比べれば言わずもがなだが、そもそも、ヨッシーの様子がおかしすぎて、里沙子はサバの味などよく分からなかった。
「ヨッシー?」
とうとうスプーンを皿の上に置いてしまったヨッシーに、里沙子は優しく声を掛けた。ヨッシーは両手を膝の上にそろえ、神妙な顔つきでテーブルを見つめていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「里沙子さん」
ヨッシーの目の赤さに、今さらながら里沙子はどきりとする。
「あの、ジャパン&アップルなんですけど」
「うん…?」
「新聞やテレビに告発したの、」
ヨッシーはいったん言葉を切り、唇をなめた。
「私なんです」
里沙子は箸を落とすところだった。
「たまたま、あのニセモノ商品の原料とか生産の記録のコピーを手に入れて…。こんなことするの許せないって思って、マスコミにばれたら反省してやめるんじゃないかって思ったんです。でも、こんな大騒ぎになるなんて思ってなくて、おまけに会社は偽装じゃないって知らんふりをしようとしてて…」
ヨッシーが溜め込んだ言葉をあふれ出させ始めた。言葉だけでなく、ヨッシーの目から大粒の涙さえもぽろぽろと落ち始め、やがて滝となって頬を伝わる。ヨッシーがバッグからハンカチとティッシュを取り出す。鼻をかむ音が高らかに店内に響いた。
里沙子はあっけにとられたまま、動けない。どうにかグラスに手を伸ばし、水を一口飲んでむりやり気持ちを落ち着かせた。
「…ヨッシー。いくつか質問していい?」
「…ハイ」
ヨッシーはハンカチに埋めていたぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「まず、たまたまコピーを入手したって言うけど、経緯をもっと具体的に教えて」
「…岩本室長から…」
ヨッシーはそれ以上を言いよどんだが、里沙子はぴんときた。あの居酒屋で、ヨッシーの太ももをなで回していた岩本の毛むくじゃらの太い腕が脳裏によみがえる。無理して言わなくていいよ、と里沙子が言いかけたところを、ヨッシーの言葉が遮った。
「ずっと、何かにつけて触ってくるんです、あの人。すごく嫌だけど、嫌だって言ったらどういう仕返しされるか分からないし。ちゃんと嫌だって言わなかった私も悪いんです。…あれは、7月に入ったばかりの頃の夜でした。私は退社した後に会社の近くで友だちと晩ご飯を食べていたんですけど、忘れ物に気付いて会社に戻ったんです。もう10時は回っていました。総務部はもう誰もいないと思ったら、一人、―室長がいたんです。相当酔ってて、広報室のソファに寝転んでいました。私に気付くと起き上がって、記者と飲んでいたが、飲み過ぎたから酔い覚ましに会社に戻ったと話しかけてきました。私は早く帰りたかったんですが、岩本さんが給湯室の冷蔵庫からビールを持ってきて、私にも飲めって。横に座って自分に酌をしろって。逆らうと何をされるか分からない様子だったんで、とりあえず一杯だけ飲んで、お酌して、帰ろうと思いました。でも、室長の隣に座ってグラスに口を付けると、肩を抱かれて。酒臭い息が頬に掛かり、鳥肌が立ちました。とっさに立ち上がって逃げようとすると、腕を捕まれて、いいじゃないか、特別にいいモン見せてやるって。そうして室長は、自分のデスクの引き出しから、数枚の紙を取り出したんです」
ヨッシーはそこまで一気に話すと、口を閉じた。すでに目に涙はない。そしてバッグからA4サイズの封筒を取り出し、ゆっくりと里沙子に差し出した。里沙子は鯖みその皿を脇にずらして封筒を受け取り、テーブルの下でそっと封筒の中の書類を引き出した。クリップで綴じられた数枚の紙の束が現れた。
一枚目の右肩に「極秘」の判子が押されている。日付は5月26日、営業本部長を務める取締役名で、タイトルは「『ジャパン&アップル・ストレート100』の原料不足への対応」。三井社長に宛てている。里沙子は一枚めくり、文章を目で追った。

 -過日、原料のリンゴが不足し、生産が継続できないとの申し出を高崎工場長から受けたが、これから中元商戦という最需要期に入る。生産停止による販売機会ロスは社の業績への悪影響が多大
 ー何としても生産量を減らさないことが至上命題
 ー一方で、国内でリンゴの買い付け先を拡大するには時間が足りないとの、本社調達部の判断
 ーついては、我が社の果汁無使用の炭酸飲料、『リンゴ・サイダー』を参考に、海外産リンゴや香料で『ジャパン&アップル』の味が再現できないか開発担当に命じて試作

里沙子は震える手で紙をめくる。
3枚目以降は、製法を変更した試作品の具体的な設計、輸入リンゴや香料など新しい原料の調達ルートなどが数枚にわたって詳細に書かれていた。最終ページには「味に遜色はなく、一時的なつなぎの商品として十分通用する品質」という高崎工場長の意見と、営業担当取締役の「一時的な商品として代替生産を認めていただきたい」という具申で結ばれていた。
そして資料の一番下から、ペラ一枚の紙が現れる。5月30日付で、三井社長名だ。

 -『ジャパン&アップル・ストレート100』の一時的な製法変更について

営業担当取締役の提案通りに製法を変え、中元シーズンの出荷量を落とすことのないようにせよ、製法変更は取引先も含め、すべて極秘にせよ、との簡単な内容だった。この紙一枚のGOサインにより、会社ぐるみの偽装工作が6月1日から始まったのだ。

里沙子は資料を封筒に戻すと、詰めていた息をふっと吐いた。篠崎の説明や三井社長の態度から、会社ぐるみで偽装をしていることは確実だとは思っていたが、こうして目の前に動かぬ証拠を突きつけられると、あったかどうかさえ分からない一縷の望みが音を立てて潰れてしまったようで言葉もなかった。―一縷の望み?里沙子は自問する。サン・ビバは偽装などしないと自分は期待していたのか。すこし呆れる。…私、この会社を愛してるんだなあ、と里沙子はぼんやりと思った。

ヨッシーが話を続ける。
「私、この資料を見て、びっくりして、これってやったらだめなことじゃないんですか、100%って言ってる商品なのに、って室長に聞いたんです。そしたら、確かに外部にばれたらやばい、でも、ばれなきゃ問題ない。今のとこ、社長のお墨付きでつなぎの商品作ってるって知ってんのは取締役と高崎工場長、そして俺くらい、開発のやつらはまさかこれ売ってるって思ってないって。要は自分が上に信頼されているってことを自慢したかったんでしょうね。私、その資料の重みにどきどきして、怖くなって、室長が太ももを触ってくるのにも抵抗もできず、隣で固まってビールのコップ握りしめてました。しばらくすると室長、ソファでいびきかきながら眠っちゃって。今のうちに帰ろうと思ったんですが、テーブルに出しっぱなしになった資料が気になって。役に立つかも知れないと思って、急いでコピーして、元の資料は室長の引き出しに戻して帰りました」
ヨッシーはいったん言葉を切り、グラスの水を一口飲んだ。岩本の手の感触を思い出しているのだろうか、眉間にしわが寄っている。里沙子は何も言わず、次の言葉を待った。
「一週間くらいは自宅に置きっぱなしでした。でも、自動販売機で、お店で、『ジャパン&アップル』を買ったり飲んだりしている人を見るたび、申し訳ない気持ちになるんです。お客さま、今あなたが飲んでいるのは、国産リンゴ100%じゃないです、ってのどまで出かかって。特に小さな子が飲んでいるのを見たときは、自分も偽装の共犯者のような気持ちになりました。だから、会社がこのことを秘密にしようとしている限り、事実を知っている私が公表すべきじゃないかって。確かに室長に復讐したい気持ちもありましたが、半分はそういう、純粋に、お客さまに申し訳ないという気持ちです」
ヨッシーの額にはいつの間にか汗がにじみ、すだれのような前髪が張り付いている。里沙子の封筒を持つ手も、汗ばんでいた。
「そして…マスコミに資料を送ることにしたんです。差出人は書かず、全国紙5紙と在京テレビ局、主だった雑誌にも一斉に送りました。どこかひとつの媒体でも興味を持って、事実を暴いてくれたらという思いで」
ヨッシーの言葉はよどみない。
「それが7月13日土曜。15日月曜に各社に届いて、16日の朝刊で一斉に出たわけね」
「…そうです。こんなに早く、それも新聞もテレビもこぞって、こんなに大きく報道されるなんて思ってなくて、自分がしたこととはいえびっくりしてしまって…。でも、これが正しい道だって自分で言い聞かせて。隣で里沙子さんや篠崎くんが慌ただしく動き回ってるのを見るのは、本当に申し訳ない気持ちだったんですけど」
里沙子はふと気付いた。
「マスコミは送られた資料をどうしてすべて報道しなかったんだろう。社長からの指示が明確になる、会社ぐるみっていうことを示す最大の証拠じゃない」
報道の内容はほぼ事実の通りだが、トップが関わる組織的な偽装かどうかまでは各社とも詰め切れていない。ヨッシーが答えた。
「それは私の送った資料が、一ページ目と最終ページ、そして社長の指示の紙を除いたものだったからだと思います。リンゴ不足の事情とニセモノの『ジャパン&アップル』の製法が書かれたものだけ」
「取締役の具申や社長の指示の部分は送らなかったってわけ」
「室長が言ってたとおり、このふたつの資料を持っているのが取締役と工場長、室長だけだったとしたら、室長はばらしたのが私だと真っ先に疑うでしょう。だから、社長の指示書そのものが報道されるとまずいって思って。製法の紙だけなら、内容を知る人間は開発部門含め少なくないだろうし、この資料だけでも十分内容は伝わると思ったんです」
里沙子はすこし驚いてヨッシーを見つめた。
「…まあ、確かに狙い通り大きく報道されたしね」
「はい。…でも、会社が絶対に偽装を認めようとしません。やっぱり社長の指示書の方も送った方がよかったなって。動かぬ証拠になるから」
「でも、そうしたらヨッシーが怪しまれる」
「…そうなんです。でも、そうも言ってられなくなりました」
里沙子は首を傾けて続きを促した。
「…全く関係のない池田さんに濡れ衣が被せられてしまう。もう、私が手を挙げるしかありません。…でも、朝も言ったけど、怖いんです。会社をクビになるのが。池田さんに濡れ衣を被せるのも嫌だけど、自分も辞めたくない…。私、この会社が好きなんです。会社の仲間が好き。商品が好き。この会社でもっと働きたい。みんなともっといい商品を作って世の中に広めたい。わがままだって、ひどいこと言ってるって分かってます。分かってるから里沙子さんにお話ししてるんです。告発した私が、会社をただそうと思った私がなぜ辞めなきゃなんないのか分かんない。悪いのは上層部なのに。里沙子さん、私、どうしたらいいでしょうか。女の私には、やっぱり何もできないんでしょうか」
ヨッシーの視線が、まっすぐに里沙子をとらえる。食べかけの鯖みそもオムライスも、すでに冷めていた。(続)

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