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いってらっしゃい(15)

【「ジャパン&アップル100」の原材料偽装をマスコミに告発したのは自分だというヨッシーの告白に驚く里沙子。ヨッシーをどう守り、上層部に自らの非をどう認めさせるのか悩む】

その晩、定時で仕事を切り上げた里沙子は、渋谷のハチ公口に立っていた。
午後6時を少し過ぎたばかりの繁華街は、長く伸びたビルの影に覆われながらも、夏の蒸れた空気が充満して息苦しいほどだ。見慣れた忠犬は、相変わらずというのもおかしいが34年後と変わらず主の帰りを待ち、周りは色とりどりの服装をした人たちにびっしりと囲まれていた。次々に画像を映し出す大型スクリーンや、スタバやTSUTAYAの看板は見当たらず、未来ほど外国人観光客は多くないものの、街の骨格は同じだと感じる。ざわめきや熱気は変わらない。今も未来も日本で最も流行の先を行く街。「渋谷」は「渋谷」だった。
里沙子は人混みをよけながら道玄坂を東急百貨店方面に歩いた。そして左手に現れた渋谷東宝会館に入る。未来のTOHOシネマズ渋谷。1階のチケット売り場で「大人1人」と告げて紙幣を出すと、販売員は怪訝な目付きで紙幣と交換にチケットを差し出してきた。その理由が、女性の一人客が珍しいためだと気付いたのは、もう少し後になってからだ。
映画のタイトルは、「E.T.」。さすが当時における空前の大ヒット映画、平日の中途半端な時間帯でありながら、劇場内は立ち見の出る人だかりだった。無事に席を確保し、静かに開幕のブザーが鳴るのを待つ。
あまりにも有名な小さな宇宙人、E.T.とエリオット少年の友情物語。里沙子も幼い頃にDVDで観たことがある。家で観るのと劇場では雰囲気が違うのか、里沙子は涙があふれるのを止められなかった。子どもの頃はわくわくしながら観たはずなのに、大人になった今、エリオット少年のまっすぐなまなざしが胸をえぐる。子どもの目は正直だ。嘘も裏切りもない、ただ宇宙からやってきた友達を大人たちから守りたいという気持ちだけでつくられたまなざしは、強い。
東宝会館を出ると、さすがに空は真っ暗で街はネオンの海だった。カフェででもレストランででも、一人ゆっくり夕食を摂りながら映画の余韻に浸りたいところだが、さっきの販売員の対応から分かるように、この時代は女の「おひとりさま」に寛容ではない。せっかく温かくなった気持ちを冷ましたくないので、里沙子は電車に乗って自宅近くの駅で降り、結局、行き慣れた「さなぎ」のカウンターに落ち着いた。相変わらず客はほとんどいない。

里沙子はハイボールとクラブハウスサンドイッチを注文し、マスターに手渡されたおしぼりで手を拭き、首筋をぬぐった。ほてった肌の汗がすっと引く。「あー」と小さなうめきが漏れる。おばさんである。キンキンに冷えたハイボールと、表面がかりっと焼き上げられたパンのサンドイッチは映画の余韻ととてもよくマッチし、里沙子は自分の選択をほめた。マスターがグラスを拭きながら、にこにこと尋ねる。
「なんかいいことあったの」
「『E.T.』観たの。すっごく良かった」
「ああ、スピルバーグのね。みんな言うね、いいって。僕も観たいなあ」
「ストーリーは、まあ、分かりやすいSFなんだけど、エリオットとそのお兄ちゃんと妹がいいんだよね。あの3きょうだい。子どもの目って、どうしてあんなにまっすぐなんだろ」
「嘘つくことを知らないからじゃない」
「そう。マスター、分かってるね。そうなんだよね。あんなまなざしを向けられたら、大人にはこたえるよ。なんていうか、…本当にきらきら光ってた」
「あんたも大概、汚れてるねえ」
「そりゃそうよ、33年も生きてりゃ…。うちの商品も、子どもが最大の消費者なんだよね。あんなまなざしを裏切るような商品を作っちゃダメだよね。あの目がもっと輝くようなモノ作らないと…」
つい、思考が「ジャパン&アップル」に流れる。マスターが少し不思議そうな顔をした。
ハイボールのグラスを空にし、サンドイッチを半分食べたところで、里沙子は頬杖をついた。

さあ、どうする。
昼間のヨッシーの告白と資料の存在は、大いに里沙子を動揺させた。まず、疑われている池田を救わなくては。そしてヨッシーという真の内部告発者を守る。その上で、どうにか上層部の方針を変えなくてはならない。そのために、あの社長の指示書という揺るぎない証拠を使えないか。午後の勤務時間はひたすらそのことばかり考えていた。そして、オーバーヒートした。思考停止だ。そして気分転換が必要だと自分に言い聞かせ、映画など見に行ってしまったのだ。
さあ、どうする。
手っ取り早いのは、社長の指示書をマスコミにリークする方法。マスコミは会社ぐるみである証拠として、全面的に報道するだろう。ヨッシーは自分がリークしたことがばれると恐れるが、会社が言い逃れできない状況に追い込んでしまえば、逆にヨッシーに手を掛けることはできない。ヨッシーを飛ばすようなことがあれば、それこそマスコミの格好の餌食だ。
里沙子はマスターに、2杯目のハイボールを注文した。
しかし、この手はあまり使いたくない。会社の受けるダメージが大きすぎる。マスコミという外部圧力に押されて偽装を認めるより、自ら認めて社内風土や経営方針を改めるという方向に持っていきたい。里沙子だってサン・ビバレッジを愛する一社員なのだ。あまり無様な姿は見たくない。
では、あの指示書を持って、いっそ上層部と直談判したらどうだろう。改めないと、この資料を外部に公表しますよと。いやいや、一般職女性社員の1人や2人、人知れず存在を抹殺されるのがオチ。安直すぎる。考えろ、私。ちゃんと戦略を考えろ。
里沙子はからんと氷の音を立てて渡されたハイボールのグラスに口を付けながら、歯車という言葉を思い浮かべていた。組織の歯車の一つ。なんと弱い存在だろう。いくらでも代わりはいる。取締役だって社長だって私たちと同じただのサラリーマンなのに、この差は何だ。さらに私は一般職で、女。この時代においては、吹けば飛ぶ豆粒だ。
豆粒が上層部と対等に戦うにはどうしたらいいのか。豆粒同士で団結する。マスコミを味方に付ける。敵の中に味方を見つける。里沙子はサン・ビバレッジの取締役メンバーを思い浮かべようとした。三井社長と小島常務はともかく、他の3人の取締役の顔はのっぺらぼうだ。まあ、そんなもんだよね、一社員にとっちゃ。会長もいるようだけど代表権もない名誉職だし、ヒラの取締役も浮かばないんじゃ、それ以前の問題だわ。
ああ。
篠崎にああ啖呵は切ったものの、名案などまるで浮かばない。ただ、2016年に戻ったとき、サン・ビバレッジがなくなっているという事態だけは避けたい。

 (2―4)7月18日木曜日

翌朝、里沙子はずきずき痛む頭を抱えてデスクに向かっていた。
飲み過ぎた。完全に飲み過ぎた。E.T.で頭が脱線したか。
昨夜、里沙子は空になった5杯目のハイボールのグラスを掴んだまま、「さなぎ」のカウンターにつっぷして寝てしまった。遠くでマスターの「もう帰りなよ、明日も仕事でしょ」という声が何度か聞こえたが、エリオット少年がE.T.を乗せてこぐ自転車が月に吸い込まれていく映像だけがエンドレスで脳裏を埋め、起き上がれなかった。結局、午前2時を回った頃、いつもより早めに店を閉めたマスターに肩を支えられながら、自宅アパートまで帰ってきた。やはり渋谷ではなく「さなぎ」で飲んだのは正解だ、と自分をほめつつ、化粧も落とさないまま敷きっぱなしの布団に潜り込んだのだった。
こんどマスターに謝りに行かなきゃ、と一人しかめ面で頭を抱える。もちろん、そんな状態だったので、池田とヨッシーを救い、会社を救う手立ては何一つ浮かんでいない。いや、もしかしたら浮かんだのかもしれないけど、覚えていない。ああ、ばかばか。私のばか。自分の頭をグーでぽかぽか殴る。周囲の不審者を見るような目付きも、今の里沙子には気付きようがなかった。

午後4時。終業まであと1時間。きょうは午前中、高崎で池田の面接があったはずだが、どうだったろう。篠崎とヨッシーもずっと気になっているとみえ、きょうは3人とも交わす言葉が少なかった。今夜にも篠崎に連絡があるはずだ。
「おい、3人ともちょっと来い」
2時間ほど席を空けていた岩本が広報室に戻り、その足で3人に手招きした。壁際に対面で置かれたソファに全員集まる。岩本はタバコに火を付け、煙を一度吐いてから、おもむろに言った。
「あす19日金曜午後3時、記者会見を開く。内部調査の結果発表だ」
3人とも息をのんだ。
「リリースは、内容を整理してから作る。あす午前の臨時取締役会を待て。とりあえず会場を押さえろ。前回と同じ、150人規模の会場だ。マスコミへの会見連絡は臨取終了後。それまで、誰にも口外するな」
「…調査結果、どうだったんすか」
篠崎が口を開いた。
「最初から言ってた通りよ。工場の従業員の単純ミス。偽装なんかじゃねえ」
「どう裏を取ったんすか。単純ミスでしたってだけじゃ、マスコミは納得しませんよ」
「ミスした従業員本人が、工程を間違えたって自供したんだよ。ほかの商品と取り違えて、作り方勘違いしたってよ。間抜けな話だ」
「だ、誰っすか、それ」
岩本はくわえていたタバコを灰皿に押し付け、ぎろりと篠崎をにらんだ。
「…言う必要あるか?」
「その人、どうなるんすか」
「知らねえよ。上が決めることさ。でも、悪意のないミスだからな、そう悪いことにはしないだろ。マスコミにもそいつの名前を出すことは、ない」
岩本はのっそりと立ち上がって伸びをした。
「当日の会見者は、また俺と小島さんだ。くそ、やってらんねえ。お前ら、せいぜいいい会場取ってくれよな。それから品のない質問をする記者はちゃんと注意しろ。何ならつまみ出せ。…おい、熱い茶、入れてくれや」
やれやれと言って岩本は自席にどっかりと座り、爪切りで爪を切り始めた。里沙子は黙って給湯室に向かう。青い顔をしたヨッシーが慌ててその後を追った。篠崎はまだソファから立ち上がることができない。
「り、里沙子さん、あれって池田さんのことですよね」
里沙子は、急須を持つヨッシーの手が震えていることに気付いた。
「まだそうと決まった訳じゃない。午前中、池田くんと役員との間で何が話し合われたのか分からないことには何とも言えない」
里沙子はそう言いつつ、やはり恐れていたことが現実になるのだろうと思った。でも、池田はそうなることをなぜ飲んだのか。
「ヨッシー、お茶…」言いかけて、里沙子は口をつぐんだ。急須を持つヨッシーの手ががたがたと震え、ふたがかちかちと音を立てている。里沙子は慌ててヨッシーの手から急須を取った。
「り、里沙子さん、池田さんは、どうして」
歯の根が合っていないらしく、ヨッシーの声がうわずる。
「おかしい、そんなの、やってないのに。や、やっぱり、社長の指示書をマスコミに、公開するしか、私の、せいで池田さんが」
ヨッシーはずっと罪悪感に苛まれていたのだろう。里沙子は胸をわしづかまれる思いだった。一般職採用の女性社員。会社としては掃いて捨てるほど代わりはいる豆粒のような存在。でも、ヨッシーは一人しかいない。ヨッシーの愛する職場もここサン・ビバレッジ以外にない。ヨッシーは何も悪くない。悪いのは偽装を指示した上層部。ヨッシーが辞める必要はどこにもない。もちろん、池田が悪者に仕立て上げられることも。
里沙子は優しくヨッシーの背中をなでた。
「もうちょっと待って。指示書の公開はいつでもできる。池田くんに話を聞いてからにしよう。大丈夫、彼はやってないんだから。大丈夫よ。…落ち着くまでしばらくここにいなさい」
里沙子は湯飲みに茶を淹れ、盆に載せてヨッシーがしゃがみ込む給湯室を後にした。
「どうぞ」と、岩本のデスクに湯飲みを置く。岩本は顔も上げず、「ああ」と言っただけだった。自席に戻る。篠崎がいない。きっと、池田に電話しに行ったのだろう。ここでは周囲の目がある。
まずいな。予想以上に事態は急速に進んでいる。ヨッシーにはああ言ったものの、このままだと岩本の言った通りの展開になってしまう。里沙子は焦った。
間もなく、篠崎が戻ってきた。眉間にしわを寄せ、むっすりとした表情で里沙子の隣の自席に着いた。里沙子は、どうだった、と目で合図を送る。篠崎は首を横に振った。
「一応、本人とはつながりました。でも、周りに人がいるから話せない、夜電話するって一方的に切られました。そりゃそうだけど…こんなに人が心配しているのに」
今ほど携帯電話がない状況を恨んだことはない。

池田からの電話が自宅に掛かってくるはずだから、内容が分かったらすぐに連絡しますと残し、篠崎は就業時間終了とともにカバンを引っつかんで部屋を飛び出した。里沙子とヨッシーも、続いて席を立った。ヨッシーは給湯室以来、傍目に尋常ではないほど落ち込んでいる。池田が身代わりになることが相当こたえているのか。社屋を出たところでヨッシーの顔をのぞき込み、送っていこうか、と声を掛けたが、大丈夫ですと消え入りそうな声で答えると、ふらふらと消えそうな足取りで地下鉄の改札へ消えた。
深夜になることも覚悟していた篠崎からの連絡だったが、午後7時を回った頃と、意外と早く里沙子の自宅の電話が鳴った。
「もしもし」
「西村さん、篠崎です」
「池田くんから連絡あったのね」
「はい」
続く言葉がなかなか出ない。里沙子は辛抱強く待った。
「…もう、いいんだ、と言っていました。自分が製法を勘違いしてラインを動かしちまったって」
「…池田くんが」
「あいつが、あいつがそう言うんです。もういいって…」
受話器の向こうの篠崎の声が震えている。小さくなる。しばらく、沈黙が続いた。
「篠崎くん、どういうことか分かるように説明して。どうして池田くんがそういうふうに言うのか」
篠崎の気持ちが落ち着くのを待って、里沙子はなるべく優しく声を掛けた。ぐす、と鼻をすする音が耳に伝わる。

就業時間終了後、篠崎は駅から一人暮らしするアパートまで走った。かかってくるであろう池田からの電話に備えるためだ。
鍵を開ける手ももどかしく部屋に転がり込むと、電話の前に座り込んだ。夕暮れに染まる夏の住宅街を駆け抜けた体からは、汗がぽたぽたとしたたり落ちる。
…いや、こうして座っていても仕方がない、とりあえずシャワーだけでも浴びるか。いや、シャワーの音で電話の音が聞こえなかったらまずい。じゃあ、着替えだけでもするか。服は向こうの部屋だ、ダッシュで取ってこなくては。篠崎は畳に直に置いた電話の回りをうろうろした。
おいおい。なんだ、これじゃ就職活動中の学生みたいじゃないか、落ち着け、俺。とりあえずシャワーを浴びてさっぱりしよう。篠崎は深呼吸を一つして、浴室に向かった。
シャワーの蛇口をひねって頭から湯を浴び始めて五秒後、聞き慣れた電話の呼び出し音が鳴った。「ほらあーッ!」篠崎はバスタオルを引っつかんで裸のまま部屋に戻る。これで保険の勧誘とかだったら、まじで怒るからな!「もしもしっ」
返事がない。
池田だ。篠崎はバスタオルを畳の上に敷いて、その上に座った。
「おい、池田だろ。どうだったんだよ」
「…もういいんだ。もういいことにした。篠崎、今までありがとう」
「はあ?何言ってんの、お前」
腹の底から苛立ちが沸き上がる。何だってんだ、これじゃあ室長の言った通りの展開じゃないか。池田が自供した従業員?んなわけねえだろ。
「役員面談で、お前、何言われたんだ」
「『ジャパン&アップル』の製法を間違えたのは俺だろう、と」
篠崎は舌打ちをした。
「ぬけぬけと、まだそんなこと言ってんのかよ、上は!自分たちでわざとやってんのに!」
「いいんだよ、篠崎」
篠崎の怒りを遮るように、池田が鋭く言った。
「俺が、やった。俺が製法を間違えた。完全なうっかりミスだ」
「…おい」
「いい、分かってる、お前が言いたいことは。今はうまく説明できないんだが、そういうことで上とは手を打った。上も、俺の名前をマスコミには出さないし、今後、異動とか昇進で不利にならないよう配慮するって言ってくれてる。次の会見で、調査の結果、やっぱり工場の従業員がミスしてました、今後は再発防止に全力を尽くします、以上、だ。これで一連の騒動にケリが付き、我がサン・ビバの看板にも傷は付かない。消費者もそのうち、また国産100%の本物の『ジャパン&アップル』が飲める」
「池田、お前、正気か?どうしちゃったんだよ、おい!」
よどみなく話す池田の言葉には血が通っていない。篠崎の苛立ちは最高潮に達した。
「いま説明したとおりだ」
「だって、お前、やってないじゃん!そんなバカなミス、犯すようなヤツじゃないじゃねえか!何で上の言うとおりにするんだよ。社の偽装を告発するんじゃなかったのかよ」
握りしめる受話器が汗でぬるついた。
「ああ、最初はそう思っていた。確かに俺はそんな凡ミスしないし。でも、会社のことを考えたら、これが一番かなって。誰も傷付くことなく、ケリを付けられる」
「池田…!」
なんで、どうして。
高崎にいるはずの池田が、どこか遠く彼方、宇宙の果てにいるようだった。お前は本当に池田なのか?
「記者会見は、あしただってな。広報室は大変だぞ。がんばれよ。…じゃあな、切るぞ」
「おい、待てよ、まだ終わって」
篠崎が言い切る前に、通話が切れた。慌てて池田の部屋に電話をかけるが、誰も出ない。おそらく、外の公衆電話からかけていたのだろう。
「ちくしょう、何で」
篠崎は受話器を電話に叩き付けた。濡れそぼった体は冷え切っていたが、顔と手は真っ赤に火照っていた。(続)

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