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いってらっしゃい(19)

【帝国ホテルでの「ジャパン&アップル・ストレート100」についての煮え切らない釈明会見が続く。一方で、本社前に集まったのは、高崎工場のパートの女性たちだった】

 (2―5)再び7月19日金曜日

「里沙子さん、私、会社に行きます。社長の指示書を持って。彼女たちの援護射撃、しなきゃ」
テレビ画面から目をそらさず、ヨッシーは言った。里沙子はヨッシーの横顔を見つめる。ヨッシーの目にもはや涙はない。戦うことを決意した女の目だった。
指示書を公開するということは、自分がマスコミにたれ込んだことを公にするということ。そうすれば、ヨッシーは社会的には英雄になるかもしれないが、会社には居場所がなくなるだろう。直接の圧力はかからなくとも、雰囲気的に辞職に追い込まれるのは目に見えている。里沙子が答えあぐねていると、ヨッシーが里沙子の方を見た。
いつの間にか、ヨッシーの目はやさしい。口元は小さな笑みさえたたえている。
「大丈夫です」
ああ。里沙子は分かってしまった。ヨッシーは辞めるんだ。愛するサン・ビバレッジを。

里沙子の返事を待たず、ヨッシーはドアを開けて客室を飛び出した。「ヨッシー!」。通路を走る靴音が徐々に小さくなる。里沙子は動けなかった。
里沙子は再びテレビに視線を戻した。先ほどまでは帝国ホテルでの会見と本社前の座り込みを交互に放映していたが、今は座り込みの方に割かれる時間が圧倒的に長い。テレビカメラの台数もどんどん増え、何事かと通行人が足を止める。その真ん中で女性たちが、偽装を認めろ、子どもたちに安心なのみものをと叫び、子どもたちはその間を縫って無邪気に追いかけっこをしている。本社前はちょっとした劇場だった。

私が守りたいもの。
会見場で頭をよぎった疑問が再来する。
テレビの中で駆け回る子どもたちの笑顔から、目が離せなかった。
この子たち。
子どもたちをあやしながらプラカードを掲げる女性たちの叫び声。社長の指示書を持って走ったヨッシーの目の輝き。篠崎の悔し涙。みな、本物だった。エリオット少年のまなざしのように。
そして自分だけが、嘘だ。池田やヨッシーを守りながら、会社のブランドも守るなんて虫のいいことを考えていた、自分が嘘だ。
里沙子は会見場に走った。

近付くと、大勢の記者やカメラマンが我が先に会場を飛び出し、ホテルの玄関に向かって走り去るのとすれ違った。数人の顔見知りの記者が、「本社の方が盛り上がってるんで、そっち行きますわ!」「もう逃げ場、ないんじゃないの?」「広報も移動、移動!」と獲物を見つけた肉食動物よろしく、憎たらしいほど嬉しそうに去っていく。皆、自社の連絡係から本社前の騒ぎを知らされたのだろう。しかし里沙子としても、それは望むところだった。ありのままのサン・ビバレッジを映してほしい。自浄できない、醜い部分をすべてあぶり出してほしい。
会場を覗くと、記者席にはもはや十人程度しか残っていない。壇上には疲弊しきった小島常務と岩本室長。傍らにはいまだ顔に緊張を貼り付けたままの篠崎。小島常務らと篠崎は、ひとり、またひとりと抜けていく記者たちに、怪訝な表情をしている。よし、ここはもう終わりだ。篠崎一人に任せても大丈夫だろう。

玄関前のタクシーに飛び乗り、「サン・ビバレッジ本社まで。急いで」と伝える。社長の指示書を公開する前にヨッシーを捕まえたい。
最優先は消費者の、子どもたちの、笑顔。すべて守るということは諦めた。そもそも守るべきでないものまで守ろうとして、本当に大切なものを失おうとしていた自分はバカだ。
でも、ヨッシーは守りたい。甘いと言われても。

サン・ビバレッジ本社十八階。
三井社長は社長室の窓から、忌々しげに階下を見下ろしていた。
正面玄関前に豆粒の塊のような女性たち。それを黒山の人だかりが取り巻いている。
社長室に据えられたテレビが、現場の音を拾ってその場にいた小島常務を除く役員全員―三井社長と取締役三人―の耳に届ける。状況は手に取るように把握できた。
「高崎工場長は何をやっているんだね」
三井社長のいら立った声に、他の三人は肩をすくめる。うち一人、高崎工場へ池田の聞き取り調査に出向いた営業担当の取締役が、「昼休みの間に、知らないうちに行ってしまったと言っていました」と早口で答えた。
「そんなことは聞いていない。それを抑えるのが彼の役割だろう。監督責任はどうした」
三井社長は椅子にどさりと腰を下ろした。背もたれが大きくしなる。
「あのパートたちは、昨日解雇したことにする。もはや、サン・ビバレッジとは無縁の人間たちだ。彼女たちの言うことには何の信憑性もない。よって、我々が出る幕はない」
三井社長は一息でそう言うと、両の手のひらで顔を覆い、大きくため息をついた。
「とにかく、あれをどうにかしろ。警備の人間だけではどうもならん。広報のやつらはまだ戻らんのか。早くマスコミを追い払え」
「さきほど総務の人間を帝国ホテルにやりましたが、何せ記者会見をほっぽり出すわけにはいきませんし…」
突然、商品開発担当の取締役が立ち上がった。
「社長、彼女たちをいきなり解雇というのは、ちょっとやりすぎではありませんか」
三井社長は顔を覆っていた手をゆっくりはがし、その取締役をにらみつけた。商品開発担当取締役は続ける。
「…池田くんのこともそうです。隠蔽が隠蔽を呼んでいる。このままでは破綻します」
「…隠蔽?きみは何を言ってるんだ。我々が何を隠蔽していると言うんだ」
三井社長の切れるような声に、取締役は返答を凍り付かせた。他の二人の取締役も、座ったまま動けない。テレビが伝える階下の喧噪は、もはやどこか彼方のざわめきとなって室内を浮遊していた。

沈黙を、短いノック音が破った。全員がドアの方に目を遣る。秘書の女性が開けたドアから、品のいいスーツを着た小柄な老人が入ってきた。三井社長を含めた全員が、あっと小さく声を上げて立ち上がった。
「会長…!」
「三井くん、もう観念しなさい」
老人はゆっくり歩を進め、三井社長のもとでぴたりと止まった。
「これ以上、サン・ビバレッジの名を汚すことは、わしが許さん」
老人の穏やかなほほえみの奥に潜む激しい怒りを、その場にいた全員が感じ取った。三井社長は鬼のような赤黒い形相で拳を振るわせていたが、まもなく、力なく再び椅子に座り込んだ。天井を仰いだ顔には、諦念が漂っている。
「塩田くん」
「は、はいっ」
老人に塩田と呼ばれた商品開発担当取締役は、身体を硬くして老人の方へ向き直った。
「すまないが広報部員を捕まえてくれ。…西村さんという女性部員が適任じゃ。帝国ホテルの記者会見をお詫びの会見に改めて、時間を延長。取締役会の総意で偽装の指示を出していたことを包み隠さず公表する。出席者は三井くん、以下取締役全員。西村くんを介して、玄関前にいる方たちにその旨伝えるように。取締役は全員が誠心誠意、質問に答えること」
「か、会長、それではうちの信用が丸つぶれになってしまいます。卸や小売りとも取引停止になってしまう」
営業担当取締役がほとんど叫ぶように言った。老人はほほえみを引っ込め、その取締役をにらみつけた。
「偽装を隠蔽し続けることと、偽装を認め再生に向かって取り組むことと、どちらが真っ当な企業の所作か、まだ分からんのか。そもそも、ものづくりの魂を売ってしまったような企業は、もはや存続すべきではない。恥を知れ!」
社長室に稲光が走り、その場にいた者全員が息を止めた。老人はゆっくりと三井社長を見下ろす。
「…しかし一方で、サン・ビバレッジには純粋にものづくりを極めたい、最高の商品をお客様の元に届けたいという社員は数多いる。他のメーカーにも絶対に負けない優秀な社員。彼らがサン・ビバの競争力の源じゃ。お客様に対してはもちろんじゃが、うちの真摯な社員たちにこれ以上辛い思いはさせたくない…。君たちにできる贖罪は何か」

その時、ドアが小さくノックされ、失礼します、と入室した秘書の女性が小さなメモを入り口付近にいた塩田に手渡した。塩田はメモに目を通す。
「会長。女性広報部員二人がちょうどこちらに向かっているそうです。本社前の騒ぎを抑えるために」
「ふおっ、ふおっ。それはちょうどいいの」
「…会長」
突然、三井社長が立ち上がり、固い声で老人に呼びかけた。全員が固唾を飲んだ。三井社長は背筋を伸ばして老人の目を見る。
「会見終了後、私は社長の職を辞したいと思います」
「社長!」
三人の取締役が一斉に三井社長の方へ振り向く。
「…分かった」
老人は静かに相づちを打った。
三井。まっすぐな熱意と馬力を見込んで、我が創業家以外から初めて後継に指名した生え抜きのエリートだったんだが、と老人は声に出さずつぶやく。
「西村くんたちには、わしが直接指示しよう。塩田くんも来たまえ」
老人は塩田を従え、社長室を後にした。

タクシーが飛ばしに飛ばしてくれたおかげで、里沙子はサン・ビバレッジ本社前でタクシーを降りたばかりのヨッシーを捕まえることができた。
「ヨッシー!」
全速力で走り寄った里沙子は、息を荒げたままヨッシーの腕を掴んだ。
「里沙子さん?」
「ちょっと待って、それ出すの。みんなの名前で出そう。ヨッシーと私と、…あと、篠崎くん含め、賛同してくれる社員のみんな。いるはずだから、絶対。ひとりで抱え込まないで。…ひとりにして、ごめんね」
ヨッシーの目が潤んだ。体面を繕うことだけに汲々としていて何もできなかった私に比べ、この子はなんてかっこいいのだろう。到底かなわない。里沙子は震えるヨッシーの肩に手を置いた。

「お嬢ちゃん」
背後から突然呼びかけられ、里沙子は振り向いた。
「お嬢ちゃん…は失礼じゃったな。西村さん」
目の前には白髪の上品な雰囲気の老人が立っていた。里沙子はすぐに思い出す。いつぞや、まさにここ、サン・ビバレッジ本社前で前を見ずに走っていた里沙子とぶつかり、自宅まで車で送ってくれた老人だった。
「おじいちゃん!」
なぜここに。なぜ私の名前を。状況が飲み込めない。すると老人の脇に立っていた男性が前に出た。
「塩田さん!」
今度はヨッシーが声を上げる。知り合い?
「久しぶり、商品開発部以来だね。広報室での活躍は聞いてるよ」
「里沙子さん、塩田さんはうちの商品開発担当の取締役ですよ。私の前の部署のボスだったんです」
ヨッシーは小さな声で解説する。取締役?おじいちゃんとどういう関係?ますます理解が追い付かない。塩田が説明する。
「この方は、沢井会長。サン・ビバレッジ創業家である沢井一族の三代目だよ」
「はあっ?!」
里沙子とヨッシーは、素っ頓狂な声を上げた。おじいちゃんが?会長?創業家??複数ある情報のピースが里沙子の頭の中でうまくはまらない。沢井会長はふおっ、ふおっと、愉快そうに笑っている。
「きみたち女性広報部員に指示を出す」
沢井会長は笑顔をひっこめて真剣な表情で切り出した。
「きみたち、三井の指示書を持っているね?マスコミにリークしなかった方の紙だ」
里沙子とヨッシーは身構えた。これを奪われたらおしまいだ。
「それを返しなさい」
「おじいちゃん…!」
里沙子が詰め寄ろうとするのを、沢井会長の言葉が遮った。
「代わりに、三井社長が記者会見を開く。帝国ホテルで今やっている会見の続きじゃ。内容は、『ジャパン&アップル・ストレート100』の表示偽装を指示した件について。会社ぐるみでお客さまを欺いていたことを公表し、おわびする。そして、再発防止の誓いの場とする。時間は今から30分後。発表文や想定問答などいらない。きみたちはあそこにいるマスコミの方々に会見の連絡をし、ホテル側に会場を借りる時間の延長を交渉し、会見を仕切ること」
里沙子とヨッシーはあっけにとられて沢井会長をみつめた。
「高崎工場のパートの方々も会見会場に入れてさしあげなさい。我が社の大切なメンバーであり、監視役じゃ」
里沙子の頭からようやく混乱が去り、代わって腹の底からじんわりとしたしびれが全身に訪れた。
「ほらっ、何してる。早く行きなさい」
塩田の言葉で我に返り、里沙子とヨッシーは玄関前の群衆に目を向けた。
「では、これはお返しします」
ヨッシーは胸に抱いていた封筒を沢井会長に手渡した。そして里沙子を追って、群衆の中へ走り出した。(続く)

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