いってらっしゃい(12)

【看板商品の「ジャパン&アップル100」。果汁100%をうたいながら、濃縮還元果実や人工甘味料を使っていたことがマスコミに報道される。里沙子たちは偽装していたことを発表すべきと主張するが、岩本室長は煮え切らない。そして社長から呼び出しが掛かる】

「どうぞ」
篠崎が18階の社長室の重厚なドアをノックすると、切れるような少し高めの声が返ってきた。
重たいドアを開けて3人は一歩入る。三井社長がマホガニーの大きなデスクに肘をついて座っていた。大きな窓から白い夏の光が部屋中に差し込み、里沙子たちは一瞬、目が眩んだ。逆光で三井社長の表情は伺えない。その前に置かれた対面式の大きなソファの片方に、小島常務と岩本が並んで座っていた。二人とも顔に疲労の色がにじむ。
「座ってください」
三井社長に促され、篠崎、里沙子、ヨッシーの3人はおずおずと空いている方のソファに浅く腰掛けた。ヨッシーは相変わらず目を白黒させている。三井社長は口ひげをさわりながら、3人の顔へ順にゆっくりと視線を這わせてから口を開いた。
「君たちは、今日中に記者会見を開いた方がいいと言うんだね」
「はい」
答えたのは篠崎だ。社長室に向かうエレベーターの中で、里沙子は篠崎に、会見を開くべき理由などを篠崎が説明するよう命じていた。一般職の女性社員より、若くとも総合職男性社員の進言の方が角が立たない。とはいえ、岩本含め3人の上司も進言が里沙子のものだと知っているから広報室のメンバー全員を呼びつけたのであって、あくまでも形だけの話だ。篠崎は、膝にのせた握り拳に力を込める。
「今朝の玄関のマスコミの殺到具合をご覧になったと思います。その報道ぶりも。あれを収めるには、責任者が前面に出て状況を説明するしかありません。だんまりを決め込めば、騒ぎはますます拡大し、客離れも加速するでしょう。そして社長、常務、皆さんのお宅に記者が夜討ち朝駆けを仕掛け、ご家族にも大変な負担になるのが目に見えています」
「…やはり、やらなくてはなりませんか」
 逆光の中で、三井社長がゆっくりとため息をつく。そしてしばらく沈黙した後、顔を上げた。
「で、何をどう説明すればいいと君は思いますか。うちは偽装なんかやってないのですよ」
里沙子と篠崎は驚いた。社長は本気で言っているのか。あるいは事実関係を知らないのか。目の前の小島常務や岩本の表情からは何も読み取れない。里沙子は、つい口を出した。
「社長、ほんとうに偽装はないんですか。あの報道を読んだ限りでは、誰もがうちが偽装を行っていたと思い込まざるを得ない感じですが…。いえ、社長を信じないわけではないのですが、これが読者や消費者の普通の感覚です。おおかたの人はうちが会社ぐるみだと…クロだと思っています。彼らにうちがシロであると説明するには、それなりの証拠を示さなくてはなりませんが」
「君…、西村くんでしたか。君もうちがクロだと思っているのですね」
三井社長の鋭い視線に射貫かれて、里沙子はすくんだ。
「いえ、決してそう申し上げているのではなく、…分かりません。真偽の判断がつきません。何を信じていいのか分からない。社員である我々にこそ、責任ある経営陣の皆様から説明がほしいというのが本音です。きっと他の社員もそう思っているはずです」
両隣で篠崎とヨッシーがうんうんと首を縦に振った。三井社長はあごひげをさすりながらしばらく黙った後、虫でも食べてしまったかのように表情をゆがめ、ゆっくりと口を開いた。
「…ジャパン&アップル。確かにあの商品は、一部に輸入果汁や人工甘味料が混ざっていた。しかし、それは意図せざるものだった。原因は今の段階で分からないが、工程の不具合か従業員の単純ミスか、とにかく本来と違う製法で作られてしまった。決して意図したものではない。取引先や消費者を欺こうとしたわけではない。いいですか、これは単純なミス、なのです。偽装表示ではなく、あくまで不当表示。万に一つ、故意だったとして…」
三井社長がいったん言葉を切る。
「証拠はありません」
有無を言わせない三井社長のもの言いに、里沙子は吸った息を吐くのを忘れた。社長は、知っている。故意の偽装であることを。知っているどころか、経営トップとして偽装にGOを出したに違いない。握り拳が震える。
スマートな顔をした古タヌキめ。負けるな、自分。里沙子は自分を奮い立たせ、声を絞り出した。
「…分かりました。では、きょうはとりあえず事実関係だけを公表してはどうでしょうか。違う製法で作ってしまった商品が、いつからいつまで生産され、どれくらいの量が市場に出回ってしまったのかということを。製法が異なってしまった原因については、きょうの所は調査中で逃げられると思います。そして、商品回収の方法、返金の方法など、今後の対策を出せるだけ出しましょう。…そして、社内に調査委員会を立ち上げてはいかがでしょうか。我が社が原因究明に本気で取り組んでいるということをアピールできます」
もはや、一般職である里沙子が進言することに文句を言う者はいない。三井社長は右眉をつり上げて聞いていたが、話が終わると、眉を下げてまたひとつため息をついた。
「…そうですね、うむ。岩本さん、その線でプレスリリースを作ってください。小島さん、取締役と監査役、そして高崎工場長を適当に見繕って、調査委員会を組織してください。何、皆さんの名前を書いた紙でも何でも、形だけあればいい。ああ、そして記者会見での説明は君がやってください。岩本さんと一緒に。しっかり謝ってきてください、取引先の皆様の動揺が収まるよう」
小島常務と岩本は「えっ」と声を漏らし、つぶれたリンゴのような情けない表情をした。三井社長はすでに、社長椅子を回して視線を窓の外に移している。東京の埃っぽい町並みとその上を縦横に走る首都高、高層ビルを建設するクレーン車たちが一枚の白い絵となり、夏の日差しを浴びながら横たわっている。

程なく、小島常務経由で高崎工場から「製法の異なる」商品の作られた時期や量が広報室に伝えられた。意図してやっていたのだから把握は早い。
対象商品は、6月1日から7月15日までに高崎工場で生産されたおよそ40万ケース(1ケース=160グラム缶30本換算)。それらの賞味期限は1983年12月1日から84年1月15日で、缶の底に「831201T」などと期限と生産工場(Tは「高崎」を表す)が記されている。40万ケースのうち5万ケースは未出荷で工場内にあるが、35万ケースがすでに出荷済み。一部は卸や小売店のバックヤードに残っているかもしれないが、ほとんどは全国で流通、消費者の手に渡っている。
卸や小売店には回収に行くことを伝え、購入客には、実物(空き缶でも可)かレシートを高崎工場に着払いで郵送してもらい、後日代金を送ることとした。
発表内容は以上。篠崎がリリースを書き、里沙子がチェックして岩本に上げる。製法を間違えた原因や経緯には全く触れないから、リリースもごく簡単なものになった。
あとは会見で、小島常務と岩本が、何を話せるかだ。想定問答も作ることになったが、回答が「調査中」しかないので、中身はすかすかだ。「混入」した濃縮還元果汁の輸入元や、高崎工場で生産している他の品目など、当たり障りのない情報を問答集に詰め込んだ。
会見は株価の乱高下を避けるため、証券取引所での取引終了を待って午後4時から。場所は帝国ホテル本館3階「鶴の間」。テーブルを並べて、150人は収容できる。午後1時にはマスコミ各社に案内のファクスを流し、広報メンバー総出で各社に確認の電話をした。
慌ただしく時間が過ぎる。新聞の夕刊の締め切り時間が過ぎ、当座の準備が一段落した午後1時半、里沙子は篠崎とヨッシーを誘って会社近くの蕎麦屋に入った。社食を避けたのは、社内の人間の耳から逃れるためだ。社長室を出て以来、篠崎もヨッシーも何か言いたげに里沙子の方をちらちら見る。

昼休みを過ぎた店内は空いていた。3人は無言で店の奥のテーブル席に陣取る。水とおしぼりを運んできた店員に、かき揚げせいろを3つ、注文した。3人一緒に水を一口飲んで、誰ともなしに、ふう、と短いため息をついた。口火を切ったのはヨッシーだった。
「あれは…偽装を隠せってことですよね」
ヨッシーの真っ正面からの質問に、里沙子も篠崎もしばらく黙った。まっすぐ二人を見つめるヨッシーの瞳が揺れる。肩の上で聖子ちゃんカットも揺れる。里沙子が答えた。
「まあ、報道も偽装かどうか、会社ぐるみかどうかまでは詰め切れてないからね。理論上はわざとじゃないっていう主張もありえる。―でも、あれだけ大規模に違う材料使っておいて、わざとじゃありませんでしたって、普通の感覚じゃありえない。仮に、社長が言うように単なる過失だったとしても、大会社にはあるまじきお粗末だし、すでに消費者のサン・ビバに対するイメージは相当悪くなった。さっさと偽装を認めて、信頼回復へのステップへ進むべきなのに…残念な対応よ」
ヨッシーは深いため息をついた。
「…私、広報室に異動するまで、ずっと商品開発部にいたんです。規模ではポカやカントリーにかなわないけど、サン・ビバはサン・ビバにしかできない商品を作ろう、みんなが本当に飲みたいと思うものを作ろう、それこそ赤ちゃんからお年寄りまで笑顔にできる商品をって、みんなががんばってた。原料をひとつひとつ吟味して、飲んだら幸せになれる味ってどんなだろうねって、…馬鹿みたいにがんばってるんです。ほんと、馬鹿みたいに。それなのにこんなことになって…」
見知った社員の顔が次々と浮かび、里沙子は胸が痛んだ。偽装工作は、そうして会社のブランドを磨いてきた努力を一瞬で無にする。偽装工作は取引先や消費者だけでなく、社員をも欺くものなのだ。

まもなく、かき揚げせいろが3つ運ばれてきた。揚げたてのかき揚げから、香ばしいごま油の香りが漂う。気持ちはふさいでいるが、よく考えたら朝から何も食べていない。3人はぱきんと割り箸を割り、ずるずる音を立てながらしばらく黙って蕎麦をたぐった。お腹が落ち着いて、こんどは篠崎が口を開いた。
「西村さん。今後、俺たちはどうしたらいいんすかね。故意じゃない説明なんて、どうやってするんすか。あんな、半分以上違う原料を使っておいて単純ミスなんて、マスコミや消費者が納得するはずないっすよ」
篠崎の言うとおりだった。とりあえず今日は、会見を開くこと自体に意義があるので、敢えて内容は詰めなかった。少なくとも、故意か過失かを決定づけない範囲での、あいまいな情報開示にとどめる。問題は明日以降だ。社内調査の結果をどう発表するのか。
三井社長が本気で過失で通すつもりなら、調査結果なんていくらでも鉛筆なめなめで捏造できる。社外に調査委員会を設けなくては意味がないが、そうさせるのは現段階ではハードルが高すぎる。
「当面は、商品回収と取引先へのお詫びが優先ね。理由はともかく。そして、調査結果が出たとき、いや、出る前に、社として偽装をちゃんと認める方向にもっていかなくちゃ、サン・ビバの将来がないわ。でも、正直言ってこれは相当難しい。社長の態度、見たでしょう。上が認めようとしないんだもの。私たちは一社員に過ぎない。戦う相手はマスコミよりも、社内の上層部。負ければ会社にいられなくなるかもしれない。そして負ける可能性の方が、今のところはるかに大きい」
篠崎とヨッシーは箸を止めて里沙子を見つめた。
「それでも、やる?」
二人は固まったまま、一言も発せない。里沙子はにっと笑った。
「なんてね。まあ、今回は時間もないし、仕方ないよ。この場は会社の一員として上の方針に従い、この難局が去ったときに会社の信頼回復に尽力すればいい。単純ミスで逃げ切ることもできるでしょう。社長が言うとおり、故意でやったという証拠がないんだから。正直、私もこの件は会社ぐるみの偽装だと思っているけど、上層部に自らの非を認めさせ、世間に謝罪させる手は、残念ながら今のところ思いつかない。今回は目をつぶって上層部の方針に従うのがベター」
とたんに、篠崎が険しい目付きで里沙子をにらみつけた。
「嘘でしょう。西村さん、本気でそんなこと言ってるんじゃないすよね」
里沙子は、篠崎の目をまぶしく思う。
「…社長が社員をクビにするのはたやすいこと。若いあなたたちが正義感に駆られ、サン・ビバのためにと思っても、クビになってしまっては元も子もないわ。サン・ビバの将来を担うのはあなたたちなんだから」
篠崎の目は一層険しくなる。こんどはヨッシーが不安そうに言う。
「…里沙子さんは」
ヨッシーが黙り込み、篠崎が言葉を継いだ。
「一人で戦おうとしてるんじゃないっすか」
里沙子はすっかり冷めたかき揚げの残りを一口で食べた。べたべと油っぽい塊をかみ砕き、無理矢理飲み込む。この子たちに嘘をつくことはできない。
「…いいのよ、私は。どうせ未婚の30代一般職、会社としても持て余してるでしょ。もともと先行きもないんだし、ここで目を付けられても別に何とも思わないわ。自分の気持ちに従ってやることやって、悔いなく辞めて、新しい人生を見つけるかーってね。そんな私の勝手に、あなたたちを巻き込みたくない。危険を冒すのは私ひとりで十分」
明るく言ったつもりだったが、ヨッシーは涙目になっていた。里沙子の言葉に嘘はなかった。未婚の30代一般職という以前に、自分は2016年の人間なのだという意識があった。そのうち元の世界に戻れるという根拠のない楽観が、この世界で捨て身になることを許していた。それがまた、快感でもあった。しがらみに囚われず、自分が正しいと思ったことをそのまま行動に移せる自由。この自由が、今の里沙子の原動力になっていた。だからこそ、逃げ道のある自分とは違う、この世界の篠崎とヨッシーを巻き込みたくなかった。しばらく二人は黙っていたが、篠崎が沈黙を破った。
「俺も、一緒に戦わせてください。俺だって自分の気持ちに従いたい。その上でクビになったって構わない」
「だめよ。あんたは会社に残らなきゃ」
「俺、この話を知ったとき、会社に裏切られた気分でした。西村さんの言うように、残って会社を建て直すという道もあるかもしれない。でも、この嘘をうやむやにしてしまうような会社だったら、むしろ俺は残りたくありません。会社に切られる前に自分から辞める。ここで会社の指示に従ったら、一生後悔する。…それに、西村さんを巻き込んだの、俺だし」
篠崎の剣幕に、里沙子は胸が熱くなった。ここまで知ってしまって、今さら知らんふりしろって言っても、無理か。里沙子は微笑みと涙がこぼれそうになるのを、小さく吐いたため息で押さえ込んだ。
「…あはは、熱いね。スイッチ入っちゃった?」
声が震える。さすがサン・ビバレッジ、いい人材を採用している、なんて場違いな感心をしてしまう。
「…広報には愛がないとだめなんだよね」
「は?」
愛。里沙子から飛び出した単語に、若い二人はぽかんとした。
「愛って、商品への愛、消費者への愛、世の中への愛、いろいろあるけど、会社に対する愛情が土台だと思うのよね。広報が持つべき愛って。誠実な自分の会社が、次の世代まで続いてほしいと思うから、いい広報ができる。世間といいコミュニケーションがとれる。今のサン・ビバは…」
里沙子はそれ以上は言わなかった。その代わり、テーブルの上に置いたふたつの握りこぶしにぐっと力を入れた。
「…よーし。いっちょ、やったるか。我らが愛しのサン・ビバをまともな会社にしよう」
「はいっ」
鼻息を荒くする篠崎と対照的に、ヨッシーはうつむいたままだった。
「ヨッシー」
「ご、ごめんなさい、会社を辞めなくちゃならないかもって、私は、私は怖いです…」
ヨッシーは肩をすぼませ、小さな声で言った。
正直な子だ。里沙子は子どもをあやすようにやさしく笑った。そりゃそうだ。会社を辞める覚悟、今すぐしろって言ったってできるはずがない。篠崎の熱さが特別なのであって、ヨッシーの反応が普通なのだ。
「いいのよ、ヨッシーは。大丈夫、私と篠崎くんでやることを見ていて。そして、会社の建て直しに全力で臨んでちょうだい。ヨッシーに、期待してるから。広報には愛が必要だなんてえらそうなことを言ったけど、愛もいろんな形があるから。残って建て直すも愛。ヨッシーがサン・ビバのことを誰よりも愛しているのは知ってる」
ヨッシーががばりと顔を上げた。
「私だけ残るなんて嫌です。里沙子さんも篠崎くんも残る方法、ないんですか。ちゃんと会社が不正を認めて、さらにみんなが残れる方法。きっとあるはずです」
「ヨッシー、三井社長のさっきの態度、見たでしょう」
里沙子は、穏やかな表情を崩さない。
「時間がないのよ。大丈夫、誰もヨッシーを責めたりしないから。私がヨッシーを守るわ」
ヨッシーは黙った。(続)

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