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「ソウルメイト・ドラゴン~篤あっつつ~」第二十八話 願いは叶う、叶えるもの。


勝の大きな手が、彼の肩にもたせかけた私の頭を優しく撫でる。幼い頃、父上に頭を撫でてもらったことを思い出す。それ以来からしれない。酔った客の一人が「いい塩梅じゃねえか」と軽口を叩き、ひゅう、と口笛を鳴らす。この男に私の本当の正体をばらしたら、腰を抜かすかもしれない、と思うとおかしくなり、くすっ、と笑う
「あなたはもう、十分頑張った。これ以上、頑張らなくてもいいですよ」
私の考えがわかったのか、勝は私の背に抱えた荷物をそっ、と降ろすように撫でる。彼に身をゆだねる力が抜け、勝の言葉が子守歌のように聞こえた。

ちちち、と鳴く鳥の声と刺すような光で目が醒めると、自分の家の布団の中だった。煙臭いし、油臭い。自分の着物が放つ匂いに顔をしかめる。起き上がろうとするが、頭が銅鑼を鳴らすようにガンガン痛い。
顔をしかめどうにか起き上がった時、大奥にいた時から身の回りの世話をしていた唐橋が、黒い漆の盆で茶を運んできた。
「天璋院様、少しはお控え下さいませ」
あきれたようにため息をつき、湯飲み茶わんを差し出す。茶椀に緑の薬湯がなみなみとつがれていた。
「うわっ、苦いやつではないか!
それは嫌いだ」
「何をおっしゃいます!
昨日はあのようにへべれけになり、勝様に背負われて帰ってらっしゃったのを覚えておられますか?」
まったく覚えていない。私は目と胃が体からこぼれ落ちるかと思うほど、たまげた。
何も記憶がない。
「いや、知らぬ。まったく記憶にないのだが・・・・・・」
「ええ、そうでしょうとも。
天璋院様は勝様の背中で、寝息を立てお休みになっておられましたから」
「・・・・・・」
唐橋は後ろに回り、私の背中から着物をずらす。
「さぁ、そのすごい匂いのするお召し物をお脱ぎ下さい。昨日は脱いでいただこうと手をかけたら、猛烈に反抗されましたので、お着替えしていただけませんでした」
そう言うと、煙と油にまもれた着物をはぎ取り、藍色の浴衣を着させ部屋を出て行った。大奥にいた時からきれい好きで知られていた彼女の事だ。すぐに洗濯するだろう。
「やれやれ・・・・・・」
昨日、店で勝に抱き着いた後の記憶が、そこだけ抜き取られたようにきれいさっぱり消えていた。唐橋は私が勝に背負われ家まで戻ってきた、と言うが、頭にも体にも痕跡はない。
酔った挙句、何か恥ずかしいことを口走っていなければいいのだが、と肩をすくめ、唐橋の運んできた薬湯を口にする。
一口飲んだだけで、顔じゅう皺くちゃになる。口がひん曲がるほど、苦くてまずかった。

それからも勝つとは時々、共に食事をし、遊びに行った。が、もう二度とあの時のような触れ合いはなかった。
あの時、一瞬、勝という男に惹かれた。
いや、頑張っている自分に甘えることを許した。これまでずっと徳川を背負い、家定様のために頑張り続けてきた。だが張り詰めた糸はいつかぷちん、と切れる。勝はそれを察し、重い荷物を一瞬棚上げしてくれた。
ただそれだけのことだ。だがそれだけでも、楽になり、また、この先頑張っていこう、と思えた。
何を頑張る、というわけでもないが、とにかく命ある以上は生きていかねばなるまい。

私にとって男は、家定様ただ一人だ。
あの世に還って、家定様に顔向けできないことはしていない。これくらい家定様も笑って許してくれるだろう。
勝は同じ戦火を潜り抜けた同志だ。
だからその後も静寛院宮様と一緒に勝の家にも遊びに行ったりもした。
勝の妻の作った料理を食べ、彼の楽しいトークに笑い、機嫌よく帰ってきた。そうやって市井の中で私は充実した生活を過ごした。

ところが静寛院宮様の持病が悪化し始めた。家茂様と同じ脚気だ。彼女は静養のため、医師から箱根で湯治をすすめられた。
箱根に旅立つ前日、静寛院宮様に会いに行った。彼女の白く小さな手を取り
「必ず、会いに参りますからね」
と約束した。静寛院宮様はくすり、と笑い首を傾げた。
「でも天璋院様、これまで江戸を出られたことは、ないのでしょう?」
「徳川に嫁いでからは、たしかに江戸を出たことはありませんよ。
でも私は徳川に嫁ぐ時、薩摩から江戸まで旅をして来ました。
それを思えば、江戸から箱根など近いものです。それに・・・・・・」
私は握った手に力を込め、両手で包み込む。
「それに?」
静寛院宮様が私の顔をのぞきこむ。
「あなたがいないと、つまらないではないですか。
早く元気になって、また美味しいものを食べに行き、面白いことをしましょう!」
朝日に照らされた朝顔の花が開くように、静寛院宮様に笑顔が広がる。 

「はい。私も早く元気になって、天璋院様と一緒に遊びに参りたいです」
かなかな、とヒグラシの声が聞こえ、オレンジ色の光が私達の膝に手をのばす。そろそろお暇する時間だ。
「それでは、また」
笑顔で告げた。
夕陽に包まれ静かに頷く静寛院宮様は、はかない童女のようだった。絵のような光景にヒグラシも声をひそめ、一瞬時が止まった。名残惜しい気持ちをぬぐい、片膝を上げ勢いよく立ちあがり退出した。

約束通り翌月の九月、箱根まで出かけた。
けれど私を出迎えたのは静寛院宮様の亡骸だった。
現実をまだ受け入れられず呆然と立ちすくむ私に、おつきのものが泣きながら言った。
「突然のことでございました。
静寛院宮様は天璋院様のお越しを、心待ちにしておられました。
それが急に昨日からお具合が悪くなり、心臓の発作を起こされ、そのままお亡くなりに・・・・・・」あとの言葉は耳から流れ落ちる。目の前に、眠るようにあの世に旅立った静寛院宮様がいる。顔にかぶされた白い布をそっとよけ、冷たい頬に触れる。嘘だ、夢だと言って欲しい。叫びたい気持ちを必死にこらえると、目から涙がしたたる。
「どうして・・・・・・どうして私はもっと早くあなたに会いに来なかったのでしょう。もう少し早く会いにきたら、あなたに会えたのに・・・・・・」
その場に泣き崩れた。ヒグラシはもう鳴いていない。夏は終わった。
静寛院宮様、享年三十二歳だった。
また私は一人、残された。


「君が齢 とどめかねたる 早川の 水の流れも うらめしきかな」

川の水の流れの速さが、あなたの命を黄泉の国に運んでいった。
そんな川の流れを見ると、あなたとの別れが悲しくて辛くてならない。
どうしてその流れに乗ってしまったの?
もっとこの世に留まってほしかった。
そう心から思うのよ。

静寛院宮様は生前強く望んだ通り、徳川家の菩提寺である壇上寺で家茂様のすぐ隣に眠る。
二人並んだそのお墓に手をあわせ、話しかける
「よかったですね。これからはずっと一緒にいられますね」

そうつぶやき、二人のお墓を撫でる。
その足で上野の寛永寺に行き、そこで眠る家定様に報告した。
徳川は壇上寺と寛永寺の二つの菩提寺を持つ。それぞれ交互に埋葬されていく習わしだった。

「家茂様と静寛院宮様、お二人は今寄り添ってずっと一緒におられますよ。
私もね、静寛院宮様と同じように亡くなったらあなたのお墓の隣で眠らせてもらいますからね。そのように手はずは整えています。
ご存知ですか?
徳川二代目の秀忠様以降、徳川将軍家で将軍と御台が並んで眠っているのは、家茂様と静寛院宮様、そして私と家定様だけですよ。
私もここで眠りますから、ずっと一緒です。
もう少し待っていて下さいね」
家定様の墓石を撫でながら、語りかけた。死ぬことなど怖くない。待っていてくれる人がいるのだから。

静寛院宮様が逝かれてから六年後、私は四十七歳でこの世を去った。脳溢血だった。
病気で長引くよりも打ち上げ花火のようにパァッ!と散りたかった。
私の願いは叶った。亡くなった時の財産は、ほとんどなかった。
亀之助の留学やあれやこれやで、ほぼ使い果たした。サッ、と旅立てて、何よりだった。
そして家定様に約束した通り、上野の寛永寺で眠った。私の願いは叶った。願いは自分の力で叶えるためにある。


では、私からあなたに最後のメッセージを伝えよう。

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あなたの願いは何ですか?

どうしてその願いを叶えたいのでしょう?

願いを叶えるため、今、あなたは何をしますか?

願いは叶うもの、叶えるもの。

あなたがあなたに叶えさせるもの。


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