ワーパパと荘子

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


荘子

荘子は古代中国の思想家、諸子百家の一人です。
春秋戦国時代における代表的な思想グループに、道家というものがあります。
これは老子と荘子をグループ化したもので、老荘思想とも言われています。

老荘思想は、儒教(朱子学)や中国仏教(禅)影響を与えたとされていてます。
そして、朱子学や禅は、日本の武家社会に取り入れられていきます。
さらに、聖徳太子が定めたとされている十七条憲法にも、荘子の引用とされている部分があります。
直接的ではないにしろ、古代日本から近世日本にかけて、影響を与えた思想と言えます。

荘子は思想家の名前ですが、その荘子の思想をまとめた書籍も荘子といいます。
書籍としての荘子は、多くの物語・たとえ話で構成されています。
ちなみに、文章作品を意味する「小説」という言葉は、この荘子の中の言葉から来ています。

今回も、100分de名著シリーズの解説書を拝読しました。

加えて、NewsPicksの以下の記事は、荘子の大枠がパッと読めるので非常におすすめです。

NewsPicksの記事を読んだ後に、以下のYouTubeを見るとさらに理解が深まります。
その後に100分de名著シリーズの解説書を読むという流れが良いと感じました。

道(タオ)

道家における重要な概念として「道」があります。
「道」は言葉では説明できないものと言われています。
そのため、明確な定義はできません。

老子と荘子とで、「道」の捉え方が異なります。

老子は、「道」を、全てを生み出すものだと説きました。
生命の原理のようなものを指しているのかもしれません。

荘子は、老子と異なる解釈をしているようで、様々な話をもって「道」を説明しています。
「道」は、体得するものであり、無であり、万物と触れ合っており、どこにでもあまねく存在しており、それでいて無に等しく、言葉で表せないものだそうです。

荘子は、この説明ができない「道」と一体になった状態が、生命の本来あるべき姿としています。

没主観

荘子は、自分の外で起きた変化を受け入れる柔軟さをもって、最も強い主体性が発揮されると説きました。

自分の置かれた環境の中で、自分自信を最大限に没入させることが大事といいます。
その時には主観が没しています。

これはスポーツにおけるフロー状態やゾーンに該当します。
雑念などに惑わされずに、赴くままに活動できる状態を指します。

座忘

荘子には、自分を忘れる「座忘」という概念があります。
仏教・禅でいうところの「無我」に近いものだと理解されます。

手足や体の感覚もなくなり、耳や眼からの感覚にも振り回されず、いわばこの肉体から離れ、知のはたらきからも無縁になって、あの大きく全体にも通じる力と一体になる、それこそが座忘だろう

荘子

自分の知識から離れるだけではなく、五感からも離れ、何か大きなもの(つまり道)と一体になることを指しています。

先程、ゾーンについて触れましたが、それは五感が鋭敏になることを指しているわけではなく、身を任せるままになることを指しています。

無意識の境地のことを遊と言います。

荘子は、包丁(ほうてい)という料理人の話を出してこれを説明します。

包丁は、牛の解体をする際、精神の自然な活動だけで解体を行えます。
肉と骨のすきまに沿わせて刃を入れていき、何にも引っかかることなくスルスルっと解体を進めていくことができます。
さらに自分の牛刀は全く刃こぼれすることなく長持ちしているといいます。

無意識の境地に達すると、技のことはすっかりと忘れ、ただただ自然に動作できるような状態となります。

この状態に達するには、反復練習が必要です。
茶道、華道、柔道、剣道など、道がつくものには反復練習がつきものです。
これらの反復練習の結果、何かが身についた時に、それ自体を忘れる。
その状態が遊であり、道と一体になった状態と言えます。

遊は、自在の境地から生まれるとしています。
この自在は、「みずから」ではなく「おのずから」という意味合いを指しています。
自分の意思で何かをするのではなく、自然とひとりでに出来てしまうものです。

無用の用

遊の別の捉え方として、無用の用という考え方があります。
これは、全く役に立たないと思っていたものでも、視点を変えるとそうではないということを指しています。

荘子のたとえ話の中にも、材木に向かない木であったゆえに伐採されなかった木があり、それゆえに木陰をつくって人々を癒やす場になったという話があります。

人間の狭い了見の中だけで判断する必要はないということを説いています。
ありのままでよく、「もちまえ」を認めることで自在となれると言います。
荘子は「もちまえ」を発揮することこそが、徳であるといいます。

万物斉同

荘子は、全てが無に等しく、全てが等しい(斉同)と言っています。
道から見れば世の中のすべてものもがちっぽけだと、たとえ話をします。

カタツムリの右の角と左の角に国があり、その二国で争いをしている。
それによって死者が数万にも及ぶ争いが起きた。
そのような争いは、人間にとっては全く取るに足らない出来事である。
しかし、人間の世界もそれと同じようなことをしている。
人間が日々苦しんでいることは、例えば宇宙などの視点から俯瞰でみるとちっぽけなことにすぎない。

このような事を言っています。

荘子は生と死についても万物斉同であると捉えています。
死は、幼い頃に離れた故郷に戻るようなものだといいます。

ワーパパと荘子

荘子は「あるがままでいい」といった旨のことを言っていますが、遊に達するには反復訓練が必要とも言ってることから、「努力しなくてもいい」とまでは言っていないようです。

あくまでも視点、メタ認知について語っているようです。

自分のもちまえを知り、向き不向きを知り、人からの評価に不必要に踊らされずに生きる姿勢が大切と言っているように思えます。
それは自分に対してだけでなく、他人や世界に対しても同様に認識する必要があるとも言っているように思えます。

現代は、正解がないVUCA時代と呼ばれています。
それが逆に「自分の好きなことをやるのが正解」という風潮になり、「自分のやりたいことが無いなんて駄目だ」という評価を生み出しているようにも思えます。

そこからさらに一歩、俯瞰に立ってみることが大事なようです。
他人の評価を気にせず、それでいて流れに身を任せ、その結果としてもちまえが発揮されている状態になるというのは、道と一体になる生き方と言えそうです。

それは決してネガティブな生き方では無く、ひとつの真理なのかもしれません。

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