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様式美の味わいについて考える ー映画『お嬢さん』(2016年)と『スタンド・バイ・ミー』(1986年)

 自分が新型コロナに感染したから、この病気のこと否が応でも気になる。そういえば、韓国の映画監督キム・ギドクは新型コロナで亡くなったんだなあ、などと思い出す。俳優へのハラスメントが#MeeTo運動で発覚し、映画業界から追放されたキムは、旧ソ連の国を転々としていた。そして、滞在先のラトビアで感染し、死んだのである。
 久しぶりに彼の作品を観たいと思って、サブスクで彼の名前を検索すると『お嬢さん』という映画がヒットした。知らない作品があるんだなと思いつつ、そのまま再生ボタンを押す。そう、まったく違う監督の作品だとは気が付かずに……。

 そんなわけで、パク・チャヌク監督が2016年に手がかけた『お嬢さん』という映画を観ることになった。いわゆる「18禁」ではあるが、世界中で大ヒットとなったようだ。
 舞台は大日本帝国統治下の韓国。若くて綺麗、膨大な財産を抱える「お嬢さん」をめぐって、その親族やメイド、詐欺師らが、互いに騙し合いながら彼女を取ろうとする。推理小説的な歩みに、ラブストーリーや国家間の主従的な構造などが絡み合う。映画は全3部の構成だ。
 物語というのは、これからどこへ向かうかという道筋がはっきり見えると、分かりやすい。それに飽きない。そしてその途中で予想外なことがあったりすると「面白い」と思う。結論で想像だにしないどんでん返しがあると「オオ」と関心するのである。この『お嬢さん』の第1部の終わりはまさにそんな感じだった。
 第2部は、第1部の結論に対する注釈という感じである。ふむふむと納得はするけれど、ネタバラシをし続けられても、観ているこちらはバカにされているような感覚にもなる。そう思っていると、第1部のどんでん返しを、少し薄めたようなどんでん返しがやってくる。
 第3部では物語はあさっての方向に行ってしまう。いままでは騙し合いの推理小説だったのに、突然、女性性がマッチョなものに打ち勝つというような話になる。単に「女性性が解放される」ではなく「女性性が自由に飛び立つ」というようなところは良いテーマだと思ったけれど、まるで「この物語はSDGsに照らし合わせて作られております」と言われているような、中学校の道徳の教科書的な窮屈さがある。
 ともかく、第3部での話の飛躍があんまりだと思いながら、この映画について少し調べてみる。どうやら『お嬢さん』には原作があるけれど、第3部に当たるところからは創作だということらしい。なるほど、合点がいった。

 様式というのはただ壊せばいいだけでない。なんというか、節操がない印象を受けるストーリーだった。
 そこで、思い立ってもう少し古典的なものを観たいなと思いながらサブスクを漁っていると、『スタンド・バイ・ミー』(1986年)を見つけたので、これを観ることにした。『お嬢さん』のちょうど30年前。言わずと知れた不朽の名作だけど、実は観たことがなかった。観てみると、やっぱり人気が長く続いているだけあって、面白かった。

 『スタンド・バイ・ミー』の筋はいたってシンプルである。アメリカの少年4人が、ウワサで聞いた死体を探しに、電車の線路沿いに一直線に歩いていく(実際はショートカットもするんだけど)というストーリーだ。
 ともかく道筋が明確である。途中で喧嘩をしたり、あるいは降りかかってくるさまざまな試練を乗り越えながら、ひたすら(映画の)目的に向かって進んでいく子どもたち。しかも、結論は映画の冒頭で明かされているのである。
 明確な構造はやっぱり強い。古典が持つ、様式美といっても良いかもしれない。

 既存のワクを壊すというのは大事である。そうしないと新しいカルチャーは生まれない。
 だけれども、なんだってワクを壊せばいいわけじゃない。ヘタにワクを壊すくらいなら、ワクのなかでしっかりと作ったほうが、よっぽど良いのである。そんなことを、この2つの映画を観て考えた。


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