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ストロング=ゼロ

 鬼も花もOSも寝静まる午前二時。とはいえ、私にとってはいつも通りの勤務時間。店の奥には女がひとり。カウンターに両腕と三杯目のギムレットだけをのせて、ふっくらとした頬は紅、レモネード色の瞳をとろりと潤ませて、しかしその背筋は驚くほど美しく伸びている。シンプル”すぎる”ノースリーブの真っ赤なミニワンピースは彼女の太い腕、引き締まった腹筋や隆々と凹凸を持った太ももなどを誇示するのに十分だ。今どきなかなかお目にかかれないロングヘアが黒々と、その筋肉質な丸い肩を撫でている。
「ねえ何か、作って」
 黒髪が動いたと思ったら、無遠慮に観察していた相手とバチンと目が合い、たじろぎそうになる。堪える。バーテンダーらしく愛想のない形だけの微笑みを作ってから、私は手元に目線を落とす。
「何か、と言いますと」
「あたしに似合いそうなものを」
「お客様に、ですか」
 先ほどの舐めまわすような視線がバレたのかと気まずくなるが、ちらりと見やると女はさっぱりとした顔で残りのギムレットを乾かしている。カクテルグラスが小さく見えるほどの上腕二頭筋の迫力から察するに、いや察するまでもなく彼女の職業くらいはわかる。
「UNAって名前でモデルをやってる。まあだいたいファッションショーがメインで、たまに国内モード誌って感じ。あんまり広告はやってないから知らないだろうけど」
 2020年代後半、画一化された美への反抗と破壊、そして崩壊を経て、筋肉こそが美しいと謳ったのはどの有名ブランドだったか忘れてしまった。健康と持続可能性が最優先とされる中で、ファッションショーとプロレスリングを融合したのはまた別の、日本のブランドだったことだけ覚えている。いつしかランウェイはリングに代わり、ただ服を着るだけの歩くマネキンだったモデルたちは、肉体を戦わせることで洋服の耐久性や美しさを表現し、人権を取り戻した。
「ギムレットがお好きなんですか」
「まあまあね」
 磨き抜かれた銀色のシェーカーやスプーンたちを見つめながら考える。例えば黄色い瞳に連想したイエロー・サブマリン。見た目はいいけど、パインとオレンジのジューシーな甘さはファイターに似合わない。ギムレットと同じドライ・ジンを使ったアラスカも黄色いカクテルだけれど……。それだけで決めてしまうのは、勿体ないような気がした。
「UNAさんの今日は、どんな一日でしたか」
「なんか、面接みたい」
 UNAが笑う。印象的な目が細められると肉感のある頬が際立ち、幼い印象を与える笑顔だ。なのに息を吐くような笑い声が少し開いた口から漏れるのはひどくセクシーで、頭が混乱する。見え隠れする犬歯の鋭さのせいかもしれない。
「昨日の仕事が遅かったから、今日は午前中ゆっくりして、夕方からワークアウト。ずっと鍛えていたらなんだかいろんな考えが浮かんできて集中できなくなっちゃって、一回整理しようと思ってここに来たの」
「考えというと」
「ねえ、あなたの名前は?」
「はい?」
「こっちばかり情報提供するのは嫌。別に偽名でもいいから」
 ふう、と息を吐いて一度UNAと反対側のドアを見やる。けれど今日はもう、新しいお客は来ないだろう。朝が来るまでこの人と一騎打ちなら、仕方ない。
「シー・ズーと呼ばれています。本名が静なので」
「素直がいちばん。あたしの本当の名前は兎凪。じゃあ静はどうしてバーテンダーになったの?」
 こちらに向かって身を乗り出すUNAこと兎凪は随分と楽しそうで、私はグラスを取り出し大きめの氷を入れてから、ペットボトルから透明の液体をとくとく注いで差し出すことにする。
「これは?」
「チェイサーです」
「そんなに酔ってない」
「水を飲んでください、そうしたらお望みのカクテルをお出ししますから」
 はあい、と甘えた応答を受け流しながら、背の高いコリンズグラスを出してカットライムと氷を入れる。ウォッカとフレッシュライムジュース、冷えたジンジャエールで満たし、軽くステア。完成した薄琥珀のモスコミュールを軽く持ち上げて、
「私もいただいてよろしいですか?」
 平然と尋ねる程度の傲慢さが、こういうときには必要だ。兎凪はモーヴピンクの控えめな唇を突き出して、思案するフリなんかをしてから頷く。表情豊かなのはさすがモデルといったところか。
「質問に答えてくれるなら、奢ってあげる」
「ありがとうございます」
 黄色い目に見つめられながら、私はグラスに口をつける。絞り入れたライム果汁とフレッシュライムジュースが合わせてぴったり15mlになるように、身体に叩き込んだその感覚はずれていないはず。辛味と甘味と酸味のバランスを確かめて。バーテンダーになった理由なんて、そんなものは。
「夜、ひとりになるのがこわくて」
「ほんとに?」
「はい、暗所恐怖症気味なところがありまして」
「どれくらい?」
「映画館には行けませんね。映画の内容は関係なく、暗くなるのが怖いんです」
「そっか……」
 舌の上でパチパチと弾ける炭酸を感じながら、私は昔のことを思い出す。
 高校二年生になって、受験のために塾に通い出して、夜十時過ぎにひとり夜の街に放り出されて家まで電車を歩くたったの十五分。いつもは家のほんの近くまで一緒に帰る友達がいたけれど、その秋の日は友だちが風邪をひいて欠席していたのでひとりで帰るしかなかった。当たり前のようにさようならを言って歩き出し、教室の喧騒が背後に小さくなっていき角を曲がった瞬間から、心臓がバクバクと音を立てはじめるのがわかった。
毎日歩いているはずの道なのに一歩一歩、進むごとに不安になっていく。人気が全くない山道というわけでもない。ただ、真っ暗な美容院、店仕舞いをしている途中のがらんとしたスーパーや静まり返って光るコンビニ、一心不乱に家を目指すスーツ姿なんかがぽつぽつと目に入っても、いやそういうものがあればあるだけ、私がこの世界にたったひとり立っていることには変わりなくて、こわい。踏みしめるアスファルトは頑丈で、秋風は冷や汗を乾かして、どんなに街灯が光っても意味がない。だって空は黒に塗りつぶされて、世界はほとんど見えないのに? この道の先に家があるとかちょっと信じられない気持ちになって、足がすくんでいよいよ進めなくなった。
「瞬間、生きることは孤独だとわかったんです。この世にたった一人産み落とされたことを憎みました」
「華の十七歳にして?」
「ええ」
 兎凪の瞳はいたずらっぽく細められ、彼女の睫毛が真っ白であることに私は今気づく。この人は何歳なんだろう。今までどれだけ生きてきて、この先どれほど生きていくんだろう。
 モスコミュールのグラスを握れば水滴でてのひらが濡れる。
「私は若く、若かった分だけあと何十年も生き延びねばならぬことを考えると、気が遠くなるほど苦しかったんです」
 家からたった十分かそこらの、毎日通っている何気ない道の真ん中で立ちすくんで、俯いて、感情的というよりも生理的な涙がぼとぼとと暗い地面に落ちて見えなくなった。そのまま座り込んで泣きじゃくりたかったけれど、そうしてしまったら本当に家に帰れなくなると思ってやめた。そうしたら向こうからフラフラと、缶チューハイを啜りながらふらふら歩いているおじいさんがやってきてああ、その手があったかと。私は道路の反対側にあったコンビニまで一生懸命歩いて中に入り、その明るさに安堵しながらお酒を買って――運良く、身分証の提示は求められなかったので――そのまま駐車場でプルタブをあけて、人生ではじめてお酒を口に含んだ、と。
「華の十七歳にして……」
「ええ」
「未成年飲酒、だねえ」
「まあ今となっては……ですね」
 シチュエーションが特殊だったとはいえ、はじめて飲んだお酒の味、なんて正直なところ覚えていない。おそらくフルーツの甘ったるい、いくら強い炭酸でバランスを取っているといえど口の中にべたべたと不快感すら残る、そういうお酒だったろう。安いウォッカが簡単に脳を眩ませて気分を楽にしてくれたおかげで家に帰ることができた私は、人生についてよく考えた。夜はひとりになりたくない。それから、できるだけお酒を飲んでいたい。
「それでバーテンダーに?」
「塾を辞めてしまったので、大学に行けなくて、そのまま」
「酒造に弟子入りとか、飲料メーカーに勤めるとかは」
「バーテンダーは日が沈む前に出勤して、日が昇ってから退勤するので、夜に出歩く必要がないんです。仕事は裏切りませんから」
 絶対に毎晩一緒にいてくれるとか、そんな約束は守られない。イレギュラーが苦手であることはすなわち人付き合いが苦手ということだ。他者とのふれあいは常にサプライズの連続でしかなくて、そういうものに身を任せるにはある程度の柔軟性が必要になる。
 カランと氷が鳴って、兎凪が水を飲み干した音だ。
「まあ……確かに。今となっては、良かったのかもね」
 さっき私が言ったようなセリフを繰り返して、ふぅと息を吐く。次はあなたの番。あなたの考えを聞かせてほしい。チェイサーのおかげか、黄色い瞳はさっきより澄んで、テーブルの木目すら映している。
「静も大概仕事人間みたいだけど、あたしもさ、そういうところがある。やることがはっきりしていると、安心するよね。洋服が好きでショーの世界に憧れて、モデルになった。自分の生まれ持った身体を活かしていると実感できるから、いい仕事だと思うよ。美しくあるのが仕事だから、そのためにやることはやる。それで今日も、ランニングからはじまり、マシントレーニング、フリーウエイト、キックボクシングっていつもの流れをこなしてた。ジムではあたし、もう一番強いの。あたしがちょっと舞えば、みんな倒れて、それからヘラヘラと笑って、もう敵いませんよ~勘弁してくださいよ~って。それで最後にひとりでヨガをやりながら、急に思った」
 兎凪がぴっと右手の人差し指を伸ばす。前腕屈折筋をしなやかに躍動させながら。
「一体、何を」
「強さとはすなわち、孤独であると。あたしはこの仕事をすることで、どんどん孤独になっていくのだってわかった。ちょっと悲しくなって、ここに来た」
「なんだかついさっき、聞いたような話ですね」
「まったく奇遇。今どき世間話といえばお天気と噂話、それから孤独についてってところなのかな」
「それからカジュアルな犯罪行為も、ですね」
 ふたり揃って笑ったのは、今夜はじめてのこと。これだけ饒舌な兎凪が物言わぬモデルというのが少し可笑しい。2034年現在、人権を取り戻したモデルたちも、ランウェイという名のリングの上や撮影スタジオで、ぺらぺらと喋りだすほど自由になったわけではない。あと十年もすればどうなっているかはわからないが。
「美しさはみんなのものだし、鏡に映る自分の筋肉の動きにも、洋服を纏うためのボディラインにも、満足してるの。ねえ、静。あたしはプロとして必要十分に、ちゃんと美しいでしょう?」
 兎凪は徐に立ち上がってみせる。スカートのスリットからのぞく大腿二頭筋が美しい。雲のような形をしたスニーカーは真っ白で、一切の音を立てないまま彼女は店の奥からドアに向けて、歩き出す。獲物を仕留めるための無駄のない歩行。ひらめく赤。おそらく3Dニットで作られた縫い目のないワンピースは艶やかに伸びる。どんな攻撃の予兆も見逃さない恐ろしいほどの集中力を内側に、敵意の発生すら鎮めるような殺気を外側に放ちながら、ドアの前で静かにターン、そのまま元の席まで歩き切った。私はプロの仕事に、思わず拍手を送る。
「心底、美しいと感じました。兎凪さん……いやUNAさんは、素晴らしいモデルです」
「ありがとう」
 にんまりと満足げな表情すらも、左右均等の口角につい見惚れる。この時代に生まれて良かったと、素直に感じている自分に気づいて私は驚く。職業柄、比較的懐古趣味であって古の美の形も捨てがたいと思っていたけれど、ルッキズムに権力を与えていたころの美しさは人間本来の形から逸脱するような傾向があって多くの犠牲を生んだのに対して、今はどうだ。UNAを見た後には、どんな人間も美しく見えるじゃないか。あんな風に伸び縮みして躍動する、そんな筋肉が私にも備わっているんだと、人間とは元来美しいのだと思い出させてくれる、そんな役割を担うのがトップモデルという職業。布を一枚纏うことの面白さを伝えてくれるファッションの女王。この世界に必要なプロフェッショナルに間違いない。
 思いついた。ひとつ、あなたに捧げるカクテルを。
「そろそろ次の一杯を。今お作りいたします」
 可愛らしく丸みを帯びたリキュールグラスを取り出し、クレーム・ド・カカオ、すなわちチョコリキュールをゆっくり注ぎ、その上に慎重に生クリームで層を作る。グラスの内側を通すのがポイント。真っ赤なマラスキーノ・チェリーを瓶からひとつ取り出し、カクテルピンを慎重に貫通させる。これをグラスの上に置いて。
「エンジェル・キッスです」
「ふうん、可愛い名前」
 カクテル言葉は『あなたに見惚れて』。これはただの私の感想だけれど、天使からキスされるべき存在への祝福を込めて作ったというわけ。
「チェリーを少しずつ齧りながら、飲み進めてくださいませ」
「これを、こう?」
 親指と人差し指でピンを持ち上げてみると、シロップに漬け込まれて内側まで染まったチェリーは、生クリームにほんの少しだけ色を移しているのが見える。それが天使の唇のようだから、こんな名前を持ち合わせている。
「ものすごく甘いけど、まろやかで美味しい。とっても気に入った」
「お口に合ったようで、なによりです」
「これを飲みながら、さっきの話の続きをしても?」
「もちろん」
 ちらりと時計を見れば午後三時、夜と朝の境目にいる私たちにとって、今日とか昨日とか明日とか、そういう区切りは意味を持たない。ただ同じ場所で共に過ごす今だけが一番近い過去で、はっきりと見えている未来。甘いカクテルでUNAの顔から兎凪の顔に戻った彼女は、いつか語り終わるために今一度、語りはじめる。
「そう、だから美しさには問題がなくて、じゃあどこに問題があるのかといったらそれは強さについてなんだけど」
「強さとは孤独であると? でも失礼、私が先ほど申し上げた通り、強さにかかわらず孤独は孤独ですよ」
「そりゃあそうだけど、できるだけ長い間孤独を忘れ続けることが、人生のコツでしょう。あなたがこの職業を選んだことで夜の闇を避け、生き延びているように。なのにあたしの選んだ職業はどうして、上を目指せば目指すほどに世界から切り離される感覚になる。一番になりたい。でも、一番になったら誰とも分かり合えない。そんなのってないんじゃないの。逸脱するために正しく逸脱したのに、そのあとのフォローはなにもなし。ただの仲間外れなんてひどい」
 どん、と軽く音を立てる握りこぶしに籠る力は、実際のところ私の指をへし折るくらいはたやすいだろうが、そういう恐れを私が抱くことこそが兎凪の苦悩そのものなのだ。
「人生の選択に責任を取ってくれる人なんて誰もいないという事実にわざとらしく混ぜて語られる、多くの人の利益のための構造が少数の逸脱を生み出してしまうことに気づかないふりをする姿勢がとても嫌い。構造は、それが構造であることにみんなが気づきさえすれば変えることができる。そう思わない?」
「かつて美しさがそうだったように、ですね」
「そういうこと……でもさ、」
 投げやりにエンジェル・キッスを流し込み、眉尻を下げる表情で、あなたが何を言いたいのかテレパスが伝わる、ような感覚。こんなに会話が楽しいのは久しぶりかもしれない。
「構造が変わるのには時間がかかる、ですか?」
「そう、その通り。あたしはあたしが生きている今をどうにかしなくちゃいけない」
「例えば、戦いから降りるというのは? 構造を否定するひとつの手段です」
「簡単に言ってくれるけど。あたしはどうしたって現在進行形で構造の中に飲み込まれていて、それはあたしの意思であって、構造のことを否定する気持ちが必ずしも、構造の中で当たり前に想起される欲望を打ち消してくれるわけじゃないこと、わかってほしいと思う」
「ええ、当然のことです」
 人間には欲望がある。それがどんなに安易で、一時的な環境要因によるものだとしても欲望は欲望だ。美しいものを見たいのも、人間は素晴らしいと感じたいのも、私が兎凪ともっとずっと話していたいと思っているのも、勝ち負けのある面白いゲームに熱狂したいのも、すべては欲望のまま。
「あたしは、パリであのドレスを着るために、絶対に一番強くなりたい」
 兎凪は隣の席に置いていた小さなバッグからさらに小さな手帳を取り出し、挟んである一枚の写真を私に手渡す。それは四隅の擦り切れた写真だったけれど、写っているそのものは古びることなく鮮やかに、私の目に飛び込んできた。
「パリコレクションのスケジュール、決まって最終日のラストに名を連ねるXYZというブランドは、実はもう何年も前に活動を終えてしまったブランドなの。覆面デザイナーが率いてファッションの概念を変えたそのブランドは、彼あるいは彼女、つまりそのデザイナーの突然の死によって終了してしまった。彼あるいは彼女は、ブランド名だけがビジネスとして残り、世界中でライセンス使用されることを望まなかったからね。フランス・オートクチュール・プレタポルテ連合協会はその伝説のブランドに敬意を表して、最終日の最後に毎年同じドレスを使った短いショーを、閉会式代わりに行っているというわけ」
「それがこのドレス」
「そういうこと。世界一強いモデルだけがこのドレスを着ることを許される。その名誉は、計り知れない。あたしはどうしても、このドレスに魅了されてる。だから、強くなりたい」
「それが孤独への一本道だとしても?」
 血管が太く浮かびあがるその右手が髪をかき上げ、真剣な表情で、兎凪は頷く。その瞳は濡れている。やがて涙がぽろりと零れだす。
 写真の中で輝くドレスは確かに美しく、UNAがそれを身に着けたらきっと私は観客として素晴らしい感情になるだろうと予想はできる。誰だって自分で勝手にティアラを戴くことくらいできるけれど、世界にひとりだけ選ばれたからこそ女王であるということもわかる。
 だからといって彼女がその黄色を濁らせる必要はないはずなのに……。
 何も思いつかないまま、気持ちに突き動かされて口先だけが走り出す。
「XYZという名前は、もしかすると、カクテルに由来するかもしれません」
「そうなの? 知らなかった」
「無理もありません。この時代にカクテルなんて。XYZはアルファベットの最後の三文字ですから、後がない、つまりこれ以上ない究極のカクテルであると言われたこともありました。デザイナーが覆面というのも、かつてXYZのレシピが非公開だったことかけているのかもしれませんね。このカクテルが持つ言葉は、『永遠にあなたのもの』」
「永遠に、ね。一度あのドレスを着ることができたら、その経験は永遠にあたしのものになる。そういうことかもしれない」
「ええ」
 私はシェーカーにライト・ラムを40ml、ホワイトキュラソーとレモンジュースを10mlずつ入れて、氷を入れる。右手でトップを押さえ、中指と薬指でシェーカーを挟んだら左手の中指でボディの底を支えて胸の前に構える。
「いっそなにもわからなくなるくらい、強くなってしまいたい。ナンバーワンにならなくちゃ、たった、ひとりの」
 ひとふり、ふたふり、氷とシェイカーの触れ合う音を聞く。別々の液体が冷えながら混ざり合い、ひとつの味になるその瞬間を見極める。
「強くなりたい、一番強く。なれるかどうかなんてわからない。パリに行けるかな? 夢が叶っても叶わなくても、あたしはもう十分にバケモノで、普通じゃない。みんなはそうなりたくてそうなったんでしょうとあたしに問いかける。でも違うの。わかって。あたしはまだそういうことを知らないうちに美しさに焦がれて、ここまで来たの」
 ぼろぼろと零れる涙がカウンターに小池を作り、私はようやく、兎凪がもしかしてものすごく若い、年端のいかない女の子なんじゃないかということに思い至る。私がかつて十七歳だったのと同じように。
「XYZはミステリアスなようでいて、とてもベーシックでアレンジの利くカクテルです。だからこそ究極であり、永遠であるのでしょうけど。私は今日、あなたのためにほんの少しのオリジナリティを加えて、新しいカクテルを作ってみましょう」
 フルーツナイフで半分にカットしたレモンを、鋭角なカクテルグラスのエッジにひとまわり。皿の上に塩を薄く広げ、先ほどのグラスを逆さにしてゆっくりと沈める。底を軽くたたいて余分を落としたら、グラスを立て、注ぎ入れると淡い水色。エッジを縁取る塩は雪の結晶のように輝く。
「あなたの涙が美しい結晶になるように、どうぞ。本日最後のカクテルです」
「……ありがとう、静」
 涙で濡れた唇のまま、兎凪はグラスに口をつける。
「少ししょっぱいけど、美味しい」
 最初に見せたのと同じ幼い笑顔が彼女の本質として再び立ち現われ、私は胸を揺さぶられる。つられて潤んだ涙を引っ込められるくらいには長く生きてきた。もうすぐ朝が来る。お客様に笑顔で帰っていただけるように精一杯。
「私は先ほどあなたのウォーキングを見て、美しさとはもはや独占するものではなく誰にでも還元されるものになったのだと、心から納得しました。あなたは素晴らしいモデルです。あなたなら、強さすらも同じように、すべてに還元できると、私は信じます」
「でも、そんなの、どうやって」
「かつて美が力を持っていたように、強さには物理的な力があります。強さが単独で存在するときにそれが善か悪かを判断するのはとても難しい。なぜなら、可能性が残されているからです。しかし、あなたの追い求める強さは完全な善です。パフォーマンスのための強さ。人々の胸を高鳴らせるための力です。しかしそれが試合である以上、どうしたって勝ち負けがあり強さには順序がつく。一番強いものは、恐れられます。なぜなら力では敵わないからです。でも、その力が完全にコントロールされていれば? コントロールされていると全員が信じられるようになれば? つまり、信頼を勝ち取ればいいのです。一番強い人間が、力を正しく使うことに心から誠実になることは、その人にしかできない素晴らしいことだと思いませんか」
 涙は止まり、黄色の瞳はとろりと蕩ける。夜に眠れなかった人間には朝日こそがぬくもりのベッド。しょっぱくて甘くてすっぱくて、少しだけ苦い後味のカクテルを飲み干して。
「私はあなたを信頼している。だから強くなってほしい。でもその結末は決してひとりぼっちになることなんかじゃない。一番になったらそのあとに、ゼロに戻せばいい。戻ってくればいいんです。一番強い人にしかできない方法で」
 兎凪はこくりと首を振る。わかったようなわからないような顔をして。お酒を飲みながら話したことなんて、所詮その程度のこと。昼すぎに目覚めたら、もうきっとほとんど覚えていない。
「だからそのカクテルには、ストロング=ゼロと名付けました。あなたのために」
「一番強くなったら、また作ってくれる?」
「……もちろんです」
 ここは、健康と持続可能性の名のもとに世界的に禁酒法が成立し人類がアルコールを捨ててからしばらく経った2034年に尚残る、本当の意味での”隠れ家”BAR。日本でお酒が飲めなくなったのは、私がちょうど二十歳になった年。私より下の世代のほどんどはお酒の味を知らないまま人生を終えることになる。
 ここにあるお酒も、禁酒法成立直前に大量に隠されたものをなんとか探し出すことで提供している。枯渇したら終わりなんて、かつての石油資源のようで趣があると言っていたのは逮捕されて牢屋の中で亡くなった私の師匠だった。あと何年やっていけるか。政府に摘発されるのが先か、あるいは資源が尽きるのが先かわからないけれど。
 美しい少女が羽ばたいて、またここに帰ってくるまでは。
「それじゃあ、気を付けて」
 赤いドレスがドアをくぐり、厳重な秘密迷路を通って地上に帰っていく。地上に降り立つ頃にはきっと、彼女は睡魔とデートせざるを得ないだろう。気が済むまで眠ったあとに飲む一杯の水を、美味しく感じられますよう。
「ご来店、誠にありがとうございました」
 わけもなく涙が流れるときは、東京某所の地下深くにて、いつだって人生の話をしましょう。もう一度前を向いて、生き延びてゆくために。
 またのご来店を、お待ちしております。

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