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No. 3-「さよなら」のために生きている(寺山修司「寺山修司詩集」)

 コートの雪がはらりと溶けて、桜がつぼみをつけるころ、3月、さよならの季節。見渡すと日本各地で手を振る姿が見える。その中には、友との別れに涙するもの、新天地に胸膨らますもの、掃き溜めみたいな現状から脱却できて済々とするもの、様々だ。

 さて、あなたにとっての「さよなら」はどんな意味を持つだろう。

「幸福が遠すぎたら」

 「千の美意識を持つ男」寺山修司は青森県弘前市出身。その異名の通り「昭和の啄木」「青春扇動家」「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王」など数多くに二つ名をもつ。そんな寺山は「さよなら」について次の言葉を残している。

 「さよならだけが人生ならばまた来る春はなんだろう」

 この言葉は本書の「幸福が遠すぎたら」という詩からの引用である。全文引用する。


さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば
建てた我が家は なんだろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません


 詩の解釈は人それぞれだ。そこであえてこの詩にひねくれた読み方を施してみる。


さよならだけが人生だ 

 まず、この詩のタイトル「幸福が遠すぎたら」これは「人生処方詩集」に収録されている。つまりこの詩は、幸福が遠すぎる人に対し寺山が用意した処方箋なのである。

 詩の内容自体は「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」とまるで人生が希望に溢れている人が言いそうな内容だが、あくまで対象は「幸福が遠すぎる人」である。

 そしてこの詩を読むうえで知っておくべき言葉がある。それは寺山の著書「ポケットに名言を」に収録されている


「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」

という言葉である。「花に嵐のたとえ」は「月に叢雲 花に風」という慣用句を指し、意味は「好事は長続きしない」。そこでこの言葉は「好事は長続きしないから今を大切にしよう」と読むのが一般的らしい。

 しかしこの解釈、個人的には全く納得いっていない。だって「さよならだけが人生」と言っているのだ。今を大切にしようというのに「だけ」という言葉を使うだろうか。もっと話は単純なのではないだろうか。

 つまり寺山は比喩でもなんでもなく「さよならだけが人生だ」と思っている。そしてそこに「花に嵐のたとえもあるさ」の部分を考慮して全体をこう解釈した。

 「好き事は長続きしないというように、人生に幸福な時間なんてほとんどない。人生はさよなら(≒不幸)の集積なんだ」

さよならのために生きている

 この解釈を基に「幸福が遠すぎたら」を考えてみる。第1連から第3連ではそれぞれ「さよならだけが人生ならば また来る春/巡り合う日/建てた我が家 は何だろう」という書き出しで始まっている。「何だろう」という疑問文の形をとっているものの第4連を読む限りこれは反語として読むべきだろう。

 つまり全体として「春や出会いの瞬間、我が家を考えたとき、さよならだけが人生だったら人生なんていらないよ」という流れになっている。以上より、私はこの詩を以下のように解釈した。

「さよならだけが人生だったらさよならに価値が生まれない。春や出会い、我が家での日々、そんな美しい過程があってこそ別れはこの上なく美しくなる。人生の価値はさよならにある。しかし、その妙味を堪能するには花に嵐のたとえにもあるように一瞬の幸福を最大限享受しなければならない」

 つまり人は最高のさよならのために生きている。こう考えれば「幸福が遠すぎたら」というタイトルに対しても「幸福が遠い、というのはまさに人生を最も堪能している時間ではないか」という寺山のメッセージと解釈できる。そのうえ「さよならだけが人生だ」と矛盾が生じない。


 別れはたいてい、突然に、望むことなくやってくる。しかし下を向く必要はない。だって人はさよならのために生きているから。そう考えると、大切な人と連絡が取れなくなっても、すこし前向きになれる。てかそう考えないとやってられない。

 「寺山修司詩集」は他にも多数の処方箋が用意されています。お悩みの際はぜひお立ち寄りください。



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