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母の誕生日会

宮島の帰りに平和公園に行きました。
外国の人や修学旅行の生徒さんで、平和記念資料館の入口はものすごい行列になっていました。
みなさん、そこまでして資料館を見てくださるのはありがたいことです。

私は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館という施設の方に行きました。

こちらは原爆死没者を追悼し平和を考える場所だそうです。
原爆死没者の遺影(写真)と名前を公開して、多くの人が亡くなった事実を伝えておられます。名前から遺影を検索して閲覧できます。

2020年に亡くなった父の写真を見に行きました。
15歳で原爆にあった父は、89歳で亡くなる前にこちらに写真と体験記を提出していました。

原爆死没者検索装置のタッチパネルで父の名前を入れると、デイサービスで遠足に行った時の父の写真に会えました。

体験記は閲覧室で閲覧できるようです。

2019年に亡くなった伯母も、2007年に亡くなった伯父の写真も、亡くなったあとに従姉妹が提出していたので見ることができました。

3人とも子供の頃に被爆しています。
母は疎開していたので直接は被爆していません。

12面大型モニターに、ご遺族から寄せられた遺影と名前が順次映し出されていました。

特別なテーマにそった企画展なども展示室で行われています。
平和の大切さを伝えるための施設でした。

今回の母の誕生日会には、伯母の娘である従姉妹も参加して3人の女子会になりました。

母が亡くなった3人の昔話や原爆の直後の話もしていたので、「後ろで3人が並んで聞いてるかもね〜」なんて話していました。
本当にいたりしてね。

小学生の母は原爆が落ちたあと疎開先から帰って、自分の母(私の祖母)の遺体を伯母と探して歩いたそうです。残酷な世界です。遺体は結局見つかっていません。

母の知り合いは気を失っていて死体の山の中に放り投げられ、火葬のための油をかけられたそうです。
油の匂いで気がついて、火をつけられる前に逃げ出したのです。
大変な経験も普通に話している母も凄い人です。

それほど原爆の落ちた広島は大変な状況だったそうです。そんな場所、広島で私は生まれる事を選んできたのかな?

みんなが原爆で破壊された広島を生き延びてくれたお陰で、私や従姉妹は今を生きているのです。

母は吐血して入院してからは外に出るのが不安になったようです。
外食は無理なので、今回はお寿司とケーキを買って行きました。

ささやかだけど3人で楽しい時間を過ごせました。
母の誕生日に実家で過ごせたのは、長男を出産して山陰に引っ越してからは初めてです。36年ぶり。
やっと自由に来れる時間ができたのに、あと何回誕生日会ができるのかな。

来年は90歳になる母です。
「またケーキを食べなきゃね」と母が笑いながら言いました。女子会、またやろうねお母さん☺

幸せです。
ささやかな誕生日会だけど笑顔でお祝いできたそれだけでとても幸せな事です。

きっと亡くなった3人も喜んでくれていると思います。祖母も。

あたりまえに迎えられる訳では無い誕生日。
迎えられた事は奇跡なのですね。

写真は鳥取県の米子市の水鳥公園に行った時の写真です。
コハクチョウは早朝に島根県の安来市の田んぼに餌を食べに出かけているそうで、公園にはあまり残っていませんでした。
ロシアから毎年冬を越すために飛んで来るそうです。

昨年初めてこの施設にコハクチョウを見に行って、バードウォッチングを楽しむようになりました。

あれから1年かぁ • • •早すぎます。

コハクチョウのように私も広島に帰ろうかな。


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