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「家をせおって歩く人」に憧れて

もしどこにでも住めるのならば、どこにも住まない暮らしがしてみたい。
「どこでも住めるとしたら」というお題をみたとき、ふとそんなことを思った。

羊飼いのような、遊牧民のようなものに、幼い頃から憧れていたような気がする。

部屋を整理するのが嫌いだから、それをする必要のない暮らし、というのも魅力だったりするが(でもそれだけなら無人島に住むという方法でもいいよな)、私は旅がしたいのだ。
愛している場所は沢山あるけど、自由に野をこえ海を渡り、世界一週いつかぐるっと巡って過ごせたら、はちゃめちゃに魅力的だなぁて思う。


自分のネタ帳に、「家を背負って歩く人  家出人」 というメモが残されていたことを思い出す。
これはずいぶんと前に、自分の家を運んで移動している人の新聞記事を読んだことがあって、それをもとに物語を作ったら面白そうだな、と思って書き留めたものだ。

正直記憶は朧げで、でも新聞に載っている写真には、文字通り家を担いで道路を渡る男の人の姿が映っていて、何だか不思議な衝撃と同時にうらやましさを感じたことは今でも覚えている。
ただ、その彼の「家をせおって歩く」姿は、道行く人には異質に映り、差別的な目で見られることもしばしばである、というような旨も、確か記事には書かれていた。

もう一度この不思議な人に出会ってみたいと思って、「家を背負って歩く人」と検索したら、ネットに色々でてきた。新聞記事は有料会員限定だったため、検索して一番上に 載っていたサイトを、以下に参考に載せておく。


家を船、と捉えることに、また目から鱗であった。 まるでワンピースの海賊船みたいでかっこいいな、なんてときめいてしまう。

陸の船ですね。実際に、僕が背負ってる家を見た子どもは、「乗りたい!」って言ってくるんですよ。背負うとかなり重いんだけど、でも、その「乗る」という感じもよくわかるんです。

家をせおって歩く村上慧さんは何を考えているのか。#1 家とは船である!?

正直に言えば、家とはある種、縛られている空間という感覚が今まであった。 それは贅沢極まりない話ではあるのだけれど、ここではないどこかに行きたい、と中二病めいた考えを持っている私にとって、家は身体的に休まる安全な場でありながら、同時にコロナ禍だとか療養中の身において物理的な、いや心理的にも、柵のようなものでもあった。

病気がちな20代前半の今、家にいても心はどこにでもいける、 と魔法を唱えるように思う瞬間はいくつもあった。でも、家と一緒にどこにでも行ける、という発想はなかったなぁと思う。
住む、というのは、なんだか一定の場所にただ留まるというような感覚を持っていたけれど、捉え方を変えれば、こんなにも自由なのだな。
時が経ちいつのまにか忘れていた記事をもう一度調べ直した今、 改めて感銘を受けている。

ちなみに、上記に載せたサイトを見て知ったのだが、この家は発泡スチロールで作られているとのこと。
驚きである。 芸術が生活の一部になっているような感じで、美しいなと思った。 というかプロフィールを見たら、 アーティストで美大の建築学科卒業だった!なるほど。。

家ごとせおって、全国の街を歩き移動している人である村上さんは、

津波で流される家の映像を見たりとかもひとつのキッカケになってますけど、ただ、家を持って歩くというモチーフは必ずしも新しいものじゃなくて。世界には、頭の上に屋根を乗せて引っ越しをする民族もいるんです。傘みたいな感覚でしょうか。

家をせおって歩く村上慧さんは何を考えているのか。#2 家とは屋根と壁である!?

と述べていた。 一言では言い表せないけれど、かっこいいと感じた。「 当たり前」とされてきた価値観を今一度省みる、真摯で創造的である姿。
そしてこれらのサイトを読んで彼の考え方について知るほど、うまく言語化できないけれど、 自身の人生に対する覚悟のようなものも感じた。

私は建築の事は全くわからないし、家を作って移動するのは正直、夢のまた夢だ。 でも、自分にとってこれが「普通」だ、と勝手に決めつけ諦めてしまわずに、何かを変える事なら、今からでも、いつだってできる。

人生を振り返ったとき楽しかったなぁとパッと思いつく、最も特別な場所の一つはイギリスのノーリッジだ。本当に短期だけれど、留学をしていた。 だから良い側面しか見えなかったという部分もあるだろうけれど、小さな田舎町で雰囲気も穏やかであり、綺麗な景色があたり一面に広がるとてもやさしい環境だったので、 また帰りたいなぁなんて今でも思い出す。
また、 一泊しかしていないけれど、茨城の農家で農業体験した場所や、友達と合宿で行った長野も好きだった。 そういえば、これらに共通するのは、 電子機器にあまり頼らず、のびのびとその土地の空気感に触れていたことかもしれない。

村上さんは、「日本は、いつまでも自分の家じゃない感じがする。自分の手を離れたシステムに委ねてる状態ですよね。」と話す。スウェーデンで滞在制作をした時には、「家が自分のものという認識を持っている」ことを感じる経験があった、ということも述べている。(下記のリンク参照)


村上さんの言葉を辿るほど、なんだか自分が形だとか数値、見えるものにこだわりすぎていたんじゃないかな、と ちょっと恥ずかしくもなった。
私の家には、目にみえる物が沢山ある。もちろん何かを買うことそれ自体が悪いというわけではないけれど、私の場合ついつい色々買ってしまうのは、 自分の生活する土地と一体になれず、いまいち感覚的にしっくりきていない、という不安が原因の一部ではないかと思う。
電子機器だとか大好きなグッズ、 それらにもそれぞれの幸福があるけれど、 目に見える、触れるものにとらわれすぎると見失ってしまうものもある。みえない、言葉に尽くせないものに対する感覚も、もっと研ぎ澄ましたい、と思っている。

さて、もし今すぐにどこにでも住めるとしたらー 理想は、やっぱり大自然の中だ。 例えるなら山奥での生活とか、 海辺、島暮らしにも憧れる。 もっと身近な場所であれば、河川敷がそばにある家もいいな、と思う(これは完全に漫画の影響だけど、話したら永遠に止まらなくなるから続きはまたいつか)。

療養して無事体を治し、コロナがもう少しきっとその頃に落ち着いたとして、そうしたら、まずは一人旅でもしてみようか。
いつか、地球のいろんな場所を巡るような暮らしがしてみたい。 たくさんの世界を知って、 様々な人に出会って、私の人生における大好きがさらに増えていったら、 きっとそれはものすごく心が跳ねることだと思うから。

もちろん、住む場所や過程にこだわらず、 どのようにそこで暮らすのかもとてつもなく重要になってくるだろう。
ただ、家という媒体によって便利な環境により生かされる私というだけでなく、 常にやわらかな心と頭で、自分の住んでいる空間で息を吸う私でありたい。 忘れるたびに、 今その瞬間立っている大地のことを踏みしめ深呼吸し、思い出していこうと思う。

その第一歩として、まずは増えすぎたものをば、ミニマリストになるべく…まではいかずとも大掃除してさっぱりするぞ!大好きなドラマによると、ココ•シャネルも「インテリアは心の表れ」と 述べているそうだし。
暮らしそのものが、物やお金ではなく、目に見えない自分の人生の豊かさをも表せる一部になればいいな、と今思っている。


追伸
将来このnoteをみたときに、私は私の夢を叶えたよ、 すこやかに生きているよ、と微笑みかける、誇らしく胸をはれる自分になる。

あらゆる憧憬や夢をつめこんで、希望という出発地から心の冒険へと今踏みだそうとしている自分自身から、未来の私へ。

もう少しだけ待っていてね。
その地点まで楽しんで力いっぱい歩いていって、 思いっきり抱きしめるから。



【写真】深月さん


#どこでも住めるとしたら


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