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藤川と川藤

 以前、職場の草野球チームのマネージャーをやっていた頃、藤川という速い球を投げる投手がいた。
顔もなかなかハンサムで女子には人気がある。抑え投手をやっていた。
 しかしチームは弱く、来る日も来る日も敗戦続きだった。一応地域のリーグ戦を戦っているので、年間に約30試合程消化するのだが、大体毎年最下位か一つ上の5位が定位置だった。
 こんなに負け続けていてはダメだとある時、常務が大阪支部から野球経験のある強気の男を本社に転勤させた。本業の仕事はどうでもいいのだが、野球部に喝を入れるためだ。何しろその男は大変な負けず嫌いで勝負事では鬼になるとの評判だったのだ。
 その男の名は川藤と言い、かつては高校球児であり、内野手としての実力もある。そしてリーダーシップもあるので良い指導者になれるのではないかと期待しての事だ。
 会社は川藤に野球部の監督兼選手として即刻そういう辞令を発表した。ただひとつ問題はその川藤はもうその頃四十の歳を越えていたのだが、酒浸りの毎日で、仕事中にも酒の匂いをプンプンさせていた。時には一升瓶を抱えたまま出社して来た事もあった。
 それには周りの社員達も多少困ったものだが、野球に関しては人が変わった様に鬼と化し、ひとたびバットを手にするや恐怖の千本ノックと言われるキツい当たりやボテボテのあたりを前後左右に打ち分け、選手がへとへとになるまで徹底的に鍛え倒した。
 試合でエラーなどしようものなら、凄まじい剣幕で「アホ、ボケ、カス、シニサラセ」などの暴言を吐き、負けた試合の翌日は竹刀を振り回し、くたくたになるまで選手にグランドを走り回らせる。
 最初の頃は選手達もビビりながら、あるいは文句を言いながら、それでも仕方なく川藤監督のもとで必死に練習を繰り返した。
 実際にやめると言い出した者もいて、常務に直接解任を要求しに行った選手もいた。だが、常務は一度任せたものはそう簡単には変えられないと首を縦には振る事はなかった。

 さて、川藤が指揮をとる様になったリーグ戦、前半はやはり例年通り負け続けたが、中盤を過ぎたあたりからひとつふたつ勝ちを拾った。相手のエラーに乗じてリードを奪った試合を藤川が豪速球で相手打線の反撃を封じ込めたのだ。
 そこから我が社の野球部の快進撃が始まった。
 それまで打てなかった打線がヒットヒットで繋がる様になり、一試合平均5点は奪える程になった。先発投手も6回まで2、3点に抑えれば後は藤川に託す。
 選手達は勝つごとに喜びを噛み締め、野球の楽しさを心ゆくまで楽しんだ。暗いと言われ続けたベンチのムードも川藤一人が存在するお陰でガラッと様変わりし、近頃はもはやお祭り騒ぎな状態だ。
 川藤の機嫌もすこぶる良くなり、相変わらず「アホ、ボケ、カス」の口癖はそのままだが、顔は笑っていた。タイムリーを打った選手には「よっしゃ、ようやった」と褒め称え、特に抑えの藤川をチームの柱としてみんなの前で称賛し持ち上げた。
 そんな報告を受け、常務は満足そうな笑みを浮かべた。

 さて、秋になりそろそろリーグ戦も最終局面を迎えた。
 最後の試合は常勝チームと言われる強豪のAチームだった。自慢では無いが我が社の野球部はこのAチームにただの一度も勝った事がない。
 それでも今年のリーグ戦では運良くAチームに故障者が出た事もあり、この最終戦でもしも勝てれば、優勝決定戦への進出が決まるところまで来たのだ。
 当日の試合は女子社員達がたくさん応援に駆けつけた。もちろん目当ては藤川投手である。
 しかし、川藤はここまでチームが強くなったのは自分のお陰とも言わんばかりの態度で、応援席の前を我が物顔で闊歩した。

 それはともかく、試合の方は、序盤から結構な打ち合いとなり、6回を終わった時点で5ー7と劣勢であった。7回の表を向かえるに当たり、川藤監督はリードされているにも関わらず藤川をマウンドに送り込んだ。
 ここで女子応援席のボルテージも上がった。藤川が一球投げる事に歓声が上がり、三振でも取ろうものならキャーという悲鳴までも聞こえた。
 期待通り藤川は相手打線を7.8.9回と完璧に抑え込み得点を許さなかった。しかし、Aチームも抑えのエースを投入させたので、試合後半は一転して投手戦となった。
 そして迎えた9回の裏、我が社の攻撃。打順は下位打線だが、ランナーをためれば充分に追い付くチャンスはある。相手投手も力が入ったのか先頭打者にフォアボール、続くバッターにはデッドボールとコントロールが乱れた。願ってもないチャンスだ。
ところが次のバッターが変化球を引っ掛けボテボテの内野ゴロ。あ、ダブルプレーだと誰もが思った瞬間、ショートがエラーをした。
 ノーアウト満塁、点差は2点差だから、一気にサヨナラに持っていける。チームは盛り上がった。
 ところが満塁のチャンスに力んだのか、次のバッターが三振に倒れ、またその次のバッターも見送り三振。川藤監督は頭を抱え、「アホ、ボケ、カス」と唸り声を上げた。
 さて次のバッターはピッチャーの藤川。藤川はあまり打つ方は得意ではない。
 さて、どうするか? そこで川藤監督はツカツカと球審に歩み寄ると「代打オレ」と大きな声でそう告げた。
 えーっと全員が呆気に取られて、驚嘆した。
 藤川に代わり、代打・川藤!
 まさか、誰もが思いもしなかった索だ。
 川藤はこれまでこのリーグ戦で一度も試合には出ていない。しかし、彼は監督兼選手だったのだ。
しかも毎回練習で行うあの強烈なノックの打球。それと大阪時代はあちらの野球部で代打の切り札的な役割で、その名を轟かせた選手なのだ。
 バッターボックスに入り悠然と構える川藤。その構えからは闘志が漲り、いかにも強打者としてのムードが漂っている。
 これは期待出来る。川藤がここで一発打って、試合を逆転し勝利を収めれば、我が野球部始まって以来、初の優勝決定戦への進出が決まる。
 選手達は固唾を呑んで左打席に入る川藤の背中を見詰めた。観客達も一気にボルテージが上がり、この試合最大の盛り上がりを見せた。
 一球目、二球目のストレートを微動だにもせず川藤は見送った。ど真ん中の打ち頃の球を悠然と見送ったのだ。何か狙い球を絞っているかの様に。
 相手投手はプレートを外し一呼吸入れて額の汗を拭う。気迫で川藤は相手投手を追い込んでいるのだ。
 次の球、投手は一球ウェストボールを投げた。外角高めに外れる明らかなボール球だ。
 その時、バットを握る川藤の手がピクリと反応し大きく足を上げてバットをスイングさせた。
 あっと思った次の瞬間、バットは空振りし、大きく外れた球はキャッチャーミットにも収まらず、転々とバックネット方向に転がった。
 三振振り逃げだ!
 誰かが大きな声で叫んだ。走者は一斉に走り出す。少なくとも2塁ランナーまでホームイン出来る。上手く行けば一塁ランナーが還って来れば逆転サヨナラだ。
 ウォーという歓声が湧いた。
 しかし、川藤はと言えば、空振りした拍子にその場に倒れ込み、キョロキョロと様子を見回した後、徐に立ち上がった。
 どうかキャッチャーがボールを拾って投げるまでに一塁を駆け抜けて欲しい。運良くボールは変な方向に跳ね返り、なかなか追い付けない。
 ところがである。なんと、川藤、事もあろうに、一塁に走らずに三塁方向にヨロヨロと走り出したのである。
 選手全員がこっちこっちと声を出して呼び掛けるのだが、川藤の耳には入らない。
 その内にキャッチャーがボールを拾って一塁に投げてゲームセットである。
 5対7での敗戦、試合終了。

 試合後、川藤はみんなの前で、「すまん、夕べの酒がまだ抜けとらんかったらしいわ」とのたまった。
 選手達はそれを聞いて、全員口々に
「アホ、ボケ、カス、シニサラセ!」と罵った。
 しかし、どの選手達の顔にも笑顔が浮かび、その内、みんなで声を上げて笑い合った。
「監督、楽しかったです。来年は優勝を目指しましょう。よろしくお願いします」そう言ったのは藤川であった。
「ほうか、わしでよかったら、よろしゅうたのむわ」
 藤川と川藤はがっちりと握手を交わした。
 それが翌年から始まる我が野球部の栄光と伝説の始まりであった。


おわり

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