見出し画像

聖なる夜に

            上野紗妃 著


それは12月の寒いある夜の事
私はその日会社を定年退職した。
もう初老とは言え明日からは失業生活だ。
まあ暫くはゆっくりしたいものだが、
さて、今の私にゆっくりできる場所などどこにあるだろうか?
会話のない老いた妻、無口で殆ど家に寄り付かない一人息子、
そして何故か私を邪険にする長男の嫁、
小さい時には可愛かったものの最近はスマホしか見なくなり殆ど口をきかなくなった孫娘。
私には家庭の中がこの年の瀬の街頭よりも寒々と冷えている様な気がしてならなかった。
会話もなくいつもそれぞれが何かにいらついて過ごしている。
私はこの家を買うのに30年もの間長いローンを払い続けてきたのだ。
果たして私が作りたかったのはこんな家だったのだろうか・・

家庭ばかりではない。何十年も勤めた会社でも、ここ数年私の居場所はなかった。
元々は技術職員で若い時は現場を駆け回ったり時には徹夜で仕事をこなした時もあった。
だがここ数年は商品管理部と言えば聞こえは良いが、すなわち倉庫番だ。一日中たった一人で黙々と伝票と在庫品のチェックをして周るだけだ。いや、それでも間違いがあってはならぬと、私は誇りを持ちつつ淡々と倉庫番の役目を果たした。
今日でその仕事もお役御免となった訳だが、寂しいものだ、総務の係から手続きの書類1枚貰っただけで、御苦労様の一言さえなかった。
もちろん、テレビドラマ等でよく見る花束だの寄せ書きだの拍手で送られるそんな事もない。送別会などこちらから願い下げだが、当然の事ながら、そんな話も全くない。みんな忙しくて疲れてるから仕方あるまい、しかも年末だし、おまけに今日はクリスマスイブだ。
元来お酒も飲めず人付き合いも悪かったから自業自得と言えなくもないが、それでもやはり永年勤めた会社にはそれなりに愛着がある。いつ誰かが追いかけて来て私に声を掛けるのではないかと若干後ろ髪を引かれる思いで私はひっそりと通いなれた会社の通用門を出たのである。
やはり追いかけて来て声を掛ける者など誰も居なかった。

外の道は北風が冷たく吹いていて私はコートの襟を立てて歩きだした。
いつもの電車でいつもの駅で降り、いつもの商店街を通る。
街は華やかにイルミネーションが輝き、あちこちの店先からクリスマスの音楽が流れ出す。
どうやら私以外の人達は皆楽しげに見える。忘年会やクリスマス等の飲み会に出かける人達の群れとすれ違う。
私は騒がしい雑踏の中を重い足取りで歩いた。少し雪が降っている。地面にもうっすらみぞれが積もっている。注意して歩かないと滑って転びそうだ。
私は歩きながら明日からの事を考えると少し憂鬱になった。次の働き場所など現時点では全くの白紙状態だ。特別な資格や才能がある訳でもないし、これをしたいという明確な物もない。
囲碁や将棋の類はやらないでもないが、特別にこれと云った趣味もない。パチンコや競馬等のギャンブルをする事もなく今日まで生きて来たのだ。
途方に暮れる、そんな言葉がピッタリと当てはまる気がする。
年の瀬、年末の誰もが忙しくなる時期に私は行く道を失くしてしまったのである。

街の喧騒は耳障りだが、それでも先週までの街頭選挙演説の騒々しさは消え去っているのでいくらかはマシな気分だ。そう言えば私が投票した立候補者は大差をつけられて落選したっけ。いつも大体私が投票するのは負け組である事が多い。一度大物代議士と言われる候補者に一票投じてみた事があるが、その翌年その代議士は収賄容疑で議員を辞職したはずである。今回の選挙で落選した候補者は今どうしているのだろうか。私の目には両者とも真剣にこの国の将来や国民の暮らしについて考えている様に見えたのだが・・
一体世の中に対して私の存在価値とは何なのだろうかと定年を迎えた今そんな事を思ってみる。だが、そこまで考えるのは大袈裟だろう。生きる事の価値を知っている人間なんてそんなざらに居る訳がない。多くの人がただその日その日を無駄に意味なく生きているだけなのだ。
さらに雪が強く降って来た。傘など持ってないから、濡れない様に少し足早に歩くしかない。

通りがかりの書店の店先に並んだ週刊誌の見出しが目に入る。
どこか遠い国の出来事らしいがテロリストの集団が学校を襲撃し罪もない生徒達に無差別に銃を乱射し大勢の死者が出たと報じている。そのニュースは私もテレビや新聞で読んで知っているものであり、悲しい出来事だと認識してはいるが…、それだけである。
シャーベット状の雪道をザクッザクッと一歩ずつ歩く、おそらくこの瞬間にも世界のどこかで罪なき者が生命を奪われ、また別のどこかで誰かが罪を犯しているだろう。世界はそんな日常の中で動いている。
だからとして今の私に出来る事は何もない。ただ降りかかる雪を手で払うくらいのものだ。
政治や国際問題などはテレビドラマや小説の中の出来事としか思えない。私には無関係の遠い世界の話だ。
それよりもみぞれが靴の中に染みて来て足元が冷たく濡れて気持ちが悪い。そちらの方が大問題だ。自宅まであと10分以上歩かなければいけないというのに。

商店街を抜け、人通りの少ない裏道に入ったところで、私は若い女性が道端に蹲っているのを見た。
最初はただの酔っ払いかと思い傍らを通り過ぎようとした。
しかし、どうも様子がおかしい。よく見るとどうやら妊婦の様に見える。彼女は大きくなったお腹を抱える様にして苦痛に顔をゆがめている。
困ったものだ・・・
一刻も早く立ち去りたいというのに、こんな時に限って周りに人がいない。
仕方なく、ほんとに仕方なくだが、私は声を掛けた。
「どうかされましたか?」
白いうなじが私の目に焼きついた。冷たいみぞれの上で蹲る彼女は苦悶の表情を浮かべている。降る雪は容赦なくその上に舞い落ちる。
返事はなかった。
私はどうしたものかと、再び目の前にある現実の問題に途方にくれた。
「救急車をお呼びしましょうか?」
私にとっては名案のような台詞だった。
しかし、私は携帯電話というものを持っていなかったのだ。さて、どこから119番すれば良いのか・・
そうだ、と思いついて私は彼女に訊ねた。
「携帯電話お持ちですか?私は持ってないので」
蹲る彼女の足元は半分雪に埋もれている様に見えた。それなのに私は自分のズボンの裾が濡れてしまわないかとそちらの方が気がかりであった。
女の返事はなかなか戻って来なかったが、やがて傍らに持った手提げ鞄の中に手を入れた。
そしてゆっくり1枚の紙切れを差し出した。
見るとそこには産婦人科病院の名前と電話番号が書かれていた。
ああ、なるほど、と私は理解した。しかし、どうやって連絡を取るか?紙切れ1枚出したきりで携帯が出て来ないという事は彼女もまた携帯を持たない人種なのか?
再び蹲る彼女に目をやると、私はそこの白い雪の上に赤い滴が垂れているのを見てとった。
私は途端に事の重大さに動揺した。
「・・ちょっと、待ってなさい、す、すぐ戻るから」
私は彼女にそう言い添えて、通りまで引き返した。突然の成り行きでひどく私は取り乱してしまった。手に持った紙切れが震えているのが自分でも分かった。

通行人は何人かいたので、傍にいる誰かに声掛けようと決心したが、いざとなるとこの期に及んで、誰に何と言って声掛けるか一瞬の躊躇いが起こってしまい、口ごもっている間に数人が通り過ぎてしまった。
多分私の様な初老の男の慌て振りは誰の目にも奇妙に映ったのだろうが、それでも足を止める者は誰も居なかった。
しかし、その時私は運良く、過ぎ行く人の肩越しにタクシーを見つけた。幸運な事に空車のランプが点灯している。私はそのタクシーめがけて大きく手を振った。


それから、後の事は無我夢中で、どういうやり取りをしたのかさえ思い出す事が出来ない。
ただ、タクシーの運転手は慌てる私とは正反対に落ち着いて冷静かつ行動的であった。
ひと息ついて気がついた時、私はタクシーの後部座席で彼女の身体を支えていた。
今となってはどのように彼女を車内に運び込んだのかさえ記憶が定かではない。ただ緊急の事態であるという事にひたすらうろたえていた様な気がする。
運転手は私が手渡した紙切れに書かれてあった病院に向かって車を走らせ、尚且つ途中で無線連絡を入れ要件を伝え、先方に電話連絡の手配をしている風であった。彼の運転は急いではいるものの安全で的確であったと思う。
私は女性の背に手を添えながら、何か言葉のひとつでも掛けてやろうと思ったが、遂に口から出る言葉を失くしたままであった。
そして程なく車は病院の正門ドアの前に横付けされ待ち構えていた看護師達が手際良く彼女をストレッチャーに乗せ、院内へ走らせて行く。
後を追おうとして私は気付いてすぐに振り返った。「料金を」と懐に手をやり運転手に訊いた。
彼は首を横に振りながら「それは要らないから彼女に付いててあげて下さい」と答えた。
私は直ぐに返事が出来なかったが、ここは御礼の言葉を述べ甘える事にした。ただし、そのタクシー会社と運転手の名前を心に刻んだのは私にしては上出来だ。
彼女は直ぐに分娩室に入れられた。看護師達の様子からしてかなり切迫した状況の様である。

所在なげに廊下の長椅子に座っていると少し年配の看護師が近付いて来た。
「お父様でいらっしゃいますか?」
「あ、いいえ、私は・・・」
私は事の顛末を話して聞かせた。彼女は大層驚いて
「それは、それは」と言いながら、深々とお辞儀を返した。私はいえいえと胸の前で慌てて手を振った。
「ああ、それでは後の事はお任せください。本当にご苦労様でした」
とその看護師の言葉に従い、私は、「はあ、どうも」、と気の抜けた返事をして帰りかけたのだが、
つい気になってしまい振り返ってもう一度訊ねてみた。
「彼女のご家族には連絡がとれましたか?」
すると看護師は神妙な顔つきになり、「それが・・」と口ごもった。
看護師の話はこうであった。どうやら彼女は正式には結婚はしていないであろうとの事、いつも診察には一人で来て市内に一人暮らしをしているらしい。病院側も彼女の家族関係は聞いておらず、目下のところご両親やご家族への連絡は出来ていないとの事であった。
さて、どうしたものか?私は最早このまま彼女を一人で置いて帰る気持ちになれなかった。
「すみません。もう少し私、ここに居させて貰っていいでしょうか?」
たまらず私は看護師にこう告げていた。
それから私は病院の廊下に置かれた長椅子に腰かけて彼女の安否を気遣った。勿論、縁も所縁もないただの通りすがりの私がここにいたところでどうなる訳でもないのだが・・・

分娩室の出入りが慌ただしく感じられたのは、到着して小一時間経った頃であろうか?
看護師が何人かバタバタと早足で往復し、手術着を着こんだ医師が分娩室へ駆け込んだ。
ただならぬ雰囲気に私は居ても立ってもいられなくなり通り過ぎようとした若い看護師に状況を訊ねてみる事にした。
「どうかしたのですか?」
「少し患者様が出血されてまして、今輸血の準備をしている所です。どうかご心配なく」
若い看護師はそう言い残して再び分娩室に戻って行った。
様子を見守るしかない。私には何の手立てもないのだ。
考えてみれば、不思議だ。つい数時間前まで見ず知らずの女性の出産に立ち会ってる自分がここに居るなんて。全く想像もしてない状況だ。本来なら今頃はとうに家に帰りそろそろ夕飯でも食べている頃だ。ましてや定年退職したその日にこんな事が起こるなんて、考えもしなかった。
とりあえず家に電話をしておこうかと思ったが、今のこの成り行きを妻に上手く説明できる自信が持てず、結局私は連絡しなかった。まあどうにかなるだろう。それよりも今はこちらの事態の成り行きが気になる。
暫くすると先程の医師が分娩室より出て来た。彼は私と目が合うとこちらに近付いて来た。
私は立ち上がった。
「担当医の杉村です。話は聞きました。ご苦労様でした」と彼は頭を下げた。
「いえ、それよりも、彼女の容態は如何なのでしょうか?」私は率直な疑問を彼にぶつけた。
「今は何とも言えません。ただ出血がひどくて輸血を始めました。状態はまだ不安定ですが、自然分娩は望めませんので、帝王切開という事になるでしょう。ただその場合母体の抵抗力が弱っているのが気がかりです」
医師は少し顔を曇らせてそう話した。そして続けて
「あと、彼女の血液型がAB型なので、輸血用の血液が少なく、今センターの方に連絡をしている所です。もう少し時間がかかってしまいそうです」と話した。
それを聞いた瞬間私は咄嗟に殆ど無意識にこう答えてしまった。
「私もAB型なんです。良ければ私の血液を使ってください」
医師は私の申し出に一瞬驚き、少し間を置いて考えた後、
「では、とりあえず、採血させていただいて確認させてください」
私は大きく頷いた。

「大丈夫ですか?」
看護師の声で我に返った。採血のため左腕の肘の裏側に注射針が刺さり血を抜かれた瞬間に貧血を起こした様だ。
我ながら全く情けない。
「では検査させて頂きますので、先程の場所で暫くお待ちください」
そう言われよろよろと立ちあがり、また元の場所に戻った。
しかし、採血だけでこの有様の私が実際に輸血となった時、それこそ大丈夫なのか?多少の不安に襲われてしまう。しかし、今はそんな事を言ってる場合じゃない。
分娩室の扉は閉まったままだ。今は人の出入りはなく、一見静寂が辺りを包んでいる。それはそれで中の様子が分からない者には不安を掻き立てる。ここはただ待つ事しか出来そうもない。
私はぐったりして深く椅子に腰かけた。窓の外はもうすっかり暗くなっている、雪は多少小止みになってるみたいだ。
思えば私は息子の出産や孫の出産には立ち会ってはいない。仕事だったからやむを得ないが、果たしてそれだけだろうか?逃げていた訳じゃないと言い切れるだろうか?
とにかく私は人生で初の生命誕生の現場に立ち会っている、それもとても油断がならない状況の中で。
出産・・・生命の誕生というものが、これほどまでに人の生死に纏わる大きな出来事であったとは。
今まで知らなかった訳ではないが・・
妻の場合も、長男の嫁の場合も、確かに個人差はあるだろうが、こういう局面を全て乗り越えて来た訳なのだ。
今更そんな事を言って後悔しても遅いが、家族の大切な場面にちゃんと向き合わなかった過去の自分が情けなく悔やまれる。
出産の事だけではなく、これまでの私は様々な事柄から逃げて来たのではあるまいか?
家族の事も会社での事も、今まで私は何をして来たのだろうか・・。
私は頭を抱えてその場に塞ぎこんだ。

「坂崎さん」
突然私は名前を呼ばれて顔を上げた。見ると先程の年配の看護師が立っている。
「検査の結果がでましたよ。間違いなくAB型ですね」とにこやかに微笑んだ。
私は「はあ」と少々間の抜けた返事をしたかもしれない。看護師は続けて
「でも輸血用の血液も到着しましたので、坂崎さんにお願いするのは万一の場合の時ですので、ご安心下さい。
母体の容態もかなり落ち着いて来ましたので、おそらく大丈夫だと思います」
この言葉に私を安心してほっとした。輸血を逃れられそうだったからではない。容態が落ち着いて来たとの報告が嬉しかったのだ。
とは言っても、万一の場合が起こらないなどという保証はどこにもない。
緊急の輸血に備えて私はこの場に待機するだけだ。
今までの私なら面倒に巻き込まれたと思い、一刻も早くこんな場所から立ち去りたかっただろう。多分これまではそうして来たはずだ。
今夜に限って何故?自分でも分からない何かに衝き動かされているとしか思えない。ともあれ、雪の中道端で蹲っていた彼女とお腹の中に居る子供の事だけが心配で仕方ない。どうか無事でいて欲しい。
私は神様に祈った。
遠い国で死んでいった未来ある子供達、そのひとりひとりを私は知らない。けれどその生命の重さは世界中の誰とも変わりはないだろう。
ニュースでは一人の死を時には大きく取り上げる事もあるが、大量に死者が出た場合はその数字が大きく取り上げられる。聞いてる者の心のどこかには、50人?ふん100人の半分だな、とかその事件の規模によって振り分けられる、そんな事はないのだろうか・・
今目の前にいる一人の人間の生命が、こんなに尊いものだとは・・
何も出来ない、何もして来なかった、これまでの私自身が恥ずかしいし今とても辛く感じる。
祈りを捧げる。これしか出来ない。

息子がまだ幼い時、よく近くの公園に遊びに出掛けた。ひ弱な息子はブランコや滑り台などに乗せても私の手を離さずこわごわ遊んでいた。妻はそんな様子を見ながら静かに微笑んでいる。そんな頃もあった。
あの時の息子の顔、妻の顔、そして私自身の姿が、おぼろげに頭の中に浮かんでは消えて行く。
あの頃は仕事にも意欲的に取り組んでいた。確かに忙しい毎日だったが、今思い返すと楽しかった。懐かしい。
あの頃は・・・、あの時は・・・、
いつのまにか私はうつらうつらと居眠りをしていたようだ。

誰かに名前を呼び掛けられてふと眼をあけてみる。
若い看護師が両手で小さなお皿を持って立っている。お皿の上には苺のショートケーキが乗っている。チョコレートのプレートにMerry Christmas の文字。
「今少し余裕が出来たのでナースステーションでみんなで頂いてたんです。良かったら坂崎さんもこれどうぞ」と微笑みながら私に手渡してくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」若い彼女は笑顔で戻りかける。
そして振り向きながらこう付け加えた。
「赤ちゃん、もうすぐ産まれそうですよ」
胸の奥がジーンとなる。
私は有り難くそのショートケーキを頂いた。美味しかった。そう言えば会社を出てから何も食べていない。
そんな事さえ忘れていた。
窓の外は相変わらず雪が音もなく静かに振り続けている。どうやら今夜はホワイトクリスマスだ。

それから暫く後、分娩室のドアが開いて、杉村医師が出て来た。
彼はマスクを外しながら、明るい表情で私に伝えた。
「産まれましたよ。元気な女の子です」
私は心からほっとした。体中からアドレナリンが噴き出た。
新しい生命の誕生だ!!
「彼女は?」
「もちろん大丈夫です。もう少ししたら話が出来ますよ。すみませんがもう少し居てあげてください。彼女あなたにお礼を言いたいらしいです」
私は感無量の気持ちだった。

数分後私は看護師に呼ばれて、彼女の傍に向かった。
彼女は、ベッドに寝ながら産まれたての赤ちゃんの頭を優しく撫でていた。
その姿はまるで一枚の絵の様に美しく清らかなものだった。
私は感動に胸の震えを隠せなかった。
彼女は私を見て「ありがとうございました。あなたのお陰で私もこの子も助かりました」
と瞳を潤ませながら囁いた。
「いや、私はたまたまそこにいただけで、何もしてないのです」
私はそういうのがやっとだった。
「この子を抱いて上げてください」と彼女は言った。
私は驚いて「いや、とんでもない。そんな事・・」と慌てたのだが、
例の年配の看護師が「そんな事言わずに、どうぞどうぞ」と言いながら
白いおくるみにくるまれたその赤ちゃんを抱き上げて、私の前に差し出した。
私はおそるおそるその子を両手いっぱいに抱いて、その顔を覗き込んだ。
その時私は初めて天使を見た様な気がした。
多分誰が見ても普通の赤ん坊なのだろうが、少なくともその時の私にはその子がまぎれもなく天使だった。
光に包まれ、輝いていた、としか言いようがない。
手のひらに感じるその重さは軽くもあり、また生命の重さでもある。
この子の行く先には何があるかも分からないし、これからどんな人生を歩むのか、私は知らない。
けれど今この子から感じる汚れのない純粋なオーラは私を包み込み、幸せな気分を与えてくれた。
私のおい先はこの子に比べたらずっと短いが、この感覚は一生忘れないだろう。
ありがとう、ありがとう。
私は声にならない言葉を何度も心の中で呟いた。
逢わせてくれてありがとう。心からの感謝を私はその子とそのお母さんに告げた。
知らずに涙が頬を伝って落ちた。
私は助けてくれたタクシーの会社名と運転手の名前をメモしてそれを彼女に渡して、病院を後にした。

表に出ると思った通り街は一面の冬景色。どこかでクリスマスソングが流れている。
時計を見るともうまもなく日付が変わろうとしている。
妻や家族は私の事を心配しているかな?
さてこの事をどうやって説明しようか?
とりあえず、どこかでクリスマスケーキがまだ売ってたら、買って帰る事にしよう。
今夜の事はありがとう。自分だけの想い出だ。
きっと神様が聖なる夜に私にプレゼントしてくれた一夜なんだ。
私は雪が舞い落ちる夜空に向かって小さく呟いた。
Merry Christmas!!

エピローグ
1週間後、私は再びその産婦人科病院を訪ねた。
看護師さんに案内され病室へ入ると、彼女は明るい笑顔で私を迎えてくれた。
産まれたばかりの愛娘を慈しむ様に優しく胸に抱いている。
赤ん坊はスヤスヤと眠っているようだった。
膨らんだほっぺがほんのり赤く染まって美しかった。
彼女は改めて私に頭を下げお礼の言葉を述べた。
私はその件に関してはもう気にしない様に伝え、
その後暫く他愛もないやり取りを交わした。
折しも今日は大晦日、彼女は午後には退院すると言う。
良かった。しみじみとそう思う。
年が明けて新しい人生がスタートするのだ。
適当な頃合いを見て、私は彼女に別れを告げた。
もう会う事もないだろう。
去り際にふいに思いついて、私は彼女の名前を訊ねた。
上野尚子と申します。と彼女は慎ましく答えた。
そうか、上野さんか。
そうすると、ここに書いてあるのはこの子の名前だね。
私はベビー用のベッドに掛けられた真新しいネームプレートを見て微笑んだ。
そこには『紗妃』と書かれてあった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?