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切ない夜明け

遠去かるあなたの足音を聞くたび、わたしは寂しい気持ちになる。それはいつも夜明け頃に訪れるのであった。あんなに暖かく燃えていた部屋の空気が急に冷たくなって、この恋の切なさとやがて来る終わりを確実にわたしに伝える。天使の囀りのようなやさしくて残酷な鵲の鳴き声は、いつまでも空っぽになったわたしの胸の奥に響いているのであった。


ホテルの部屋、
その朝、豊は時間を気にしながら、昨日とは違うスーツ、ネクタイに着替え、慌ただしく部屋を出て行った。
後に残されたわたしは、まだ2人分の温もりの残るシーツにくるまって身体をくの字にした。

豊と出逢って半年、この背徳の関係も同じ期間だけ続けられている。
月に2、3日ほど、平日の夜に待ち合わせ、共に食事をし、ホテルに入る。翌日の朝までの時間、彼はわたしのものとなる。
ホテルは大体いつもここと決まっている。理由は豊の通勤の利便性を考慮しての事だ。
彼の仕事は薬品メーカーの営業職だと聞いている。

食事はいろいろ、たまに高級な店にも行ったりするが、通常は手頃で大衆的な安いお店を好んで選んだ。昨夜は珍しく寿司を食べに行った。
目の前をくるくる流れて行くタイプの方の店だ。
家族連れが多いので、不倫の恋には不似合いな場所だなと感じたが、豊が楽しそうにしてるので、たまにはいいかと思った。

確かに会っている時間は楽しい。豊との会話は愉快だ。リラックス出来る。肩肘張らなくていい。食べた寿司の皿を次々に積み上げて行く豊が好きだった。
結婚はしてるものの彼はまだ若くてイケメンだった。そして何より女の扱い方が上手い。
彼に抱き締められる度に、身体中から湧き出て来る幸福感に気持ちが満たされて行く悦びを感じた。

それでも朝が来るたび、救いようのない寂しさに打ちひしがれる。
会社に向かう彼を見送ったあと、昨夜の余韻に浸りながら、ただひたすらにひとりの時間を持て余す。

豊の奥さんはもちろんわたしのことを知らない。出張という名目で毎月数回、夫が浮気を繰り返していることを、果たして本当に妻が気付かないでいるものだろうか。

ある日、深夜に豊の携帯に奥さんから電話がかかって来たことがあった。2人とも裸でベッドで横たわっていた時だ。豊は何食わぬ顔で携帯を手にした。
わたしはその時、身動きせずに呼吸まで止めた。
これまでに感じた事のない緊張が走った。同時にドキドキするスリルと快感を味わっていた。
彼がどういう心境で奥さんと通話したのか分からないが、傍目には非常に落ち着いた声で普通にやり取りしていた。

豊は嘘が上手い。
客観的に見てそう思う。
何が起きても冷静さを失わず、クールで物事に動じない。

それでいて時に激しさや弱さを見せたりするので、人の心を乱したり弄んだりする。
憎らしいけど憎めない、それが豊という男だ。


彼が出て行った後、ひとりで微睡んでいたが、時間も9時になろうとしている。そろそろ動き出さなくてはいけない頃になった。ベッドを抜け出し、軽くシャワーを浴びて、髪を乾かし、ほんのりとメイクを施す。

と、携帯の鳴る音がした。
わたしの携帯ではない。
はっと思い、サイドテーブルのドリンクメニューの下を見る。
豊の携帯がそこにあり、着信音を鳴らしていた。
まさかの忘れ物だ。彼にしては珍しい。
というか、こんなことは初めてだ。

液晶画面に映し出された相手の名前は、『由紀子』と表示されている。
豊の奥さんだろうか? 奥さんの名前など訊いた事がない。
どうしたものか、まさか、出る訳にはいかない。
しばらく様子を伺う。
着信音は鳴り止まない。
せめてマナーモードにしておいて欲しかった。

その電子音が部屋中に響き渡り、わたしは怖くなって耳を塞いだ。
それでもその音は警笛のように脳内で増幅され、どこか遠くの方から迫り来る恐怖をわたしに与えた。
もうこれ以上は耐えられないと眼を見開いた途端に着信音は不意に止まった。

ホッとするのも束の間、またすぐに鳴り出す。
もうこうなったらいっその事出てやろうかと居直ってみる。
知らない女が夫の携帯に出たとしたら、妻はどうするのだろうか。
道で拾ったとか、タクシーの座席に置き忘れてあったとか、いろいろ言い訳も考えつきそうた。
なるようになれ、とばかり、わたしは携帯を手に取った。

通話ボタンを押し、耳にあてる。
急に思い立った。そうだ、何も言わない、という手もある。
今考えてみるとわたしの好奇心が勝ってしまったのだ。
《もしもし》
初めて聞く奥さん?の声
思ってたより若く聞こえる。
動揺がさざなみの様に広がる。
《もしもし、聞こえてる? 何か言ってよ》
少し苛立った声に変わりつつある。

「あ、あの……」思わず声を出してしまった。
どうしよう。
《えっ、誰?》
相手は紛れもなく戸惑いの声になった。
「あ、わたし、あの、佐藤と申しまして……」
《佐藤さん? どうして? これユタカの携帯じゃないの?》
その質問をされた瞬間、頭の中で考えていたいくつかの言い訳がどこかへふっ飛んでしまった。
わたしは言葉につまり、頭が真っ白になる。咄嗟に通話ボタンを切断してしまった。
そして、携帯をそのままホテルのテーブルの上に置いたまま、わたしはチェックアウトしてしまったのだ。

結論から言おう。
それを最後にわたしは豊との関係を切った。
彼との連絡は繋がった。
あの後、忘れ物に気付いた豊はホテルに問い合わせたという。
それから、わたしの携帯に電話をかけてよこした。
彼は何事もなかった様な物言いで、次の約束の日程をわたしに伝えようとした。
だが、わたしはもう会わないと宣言した。

奥さんの声を聞いてしまった。
それだけじゃなく、短いけれども会話もした。
わたしの苗字を告げてしまった。
今まで影の様な存在でしかなかった妻という存在を、実在する人間として認識してしまった。
おそらく、豊と会う度にあの声を思い出してしまうだろう。

あの後、豊と奥さんとの間で、そのことに関して何かやり取りがあったかも知れない。
それでもおそらく彼は何食わぬ顔で、上手く繕ってしまうのだろう。
例えば仮にそれが奥さんでなく、また別の女性だとしても同じことだ。
わたしと会っている間、どこかでずっと孤独を感じている人がいるなんてこと、これまで考えもしなかった。しかし、今はそれが頭から離れない。
わたしはそれを笑い話にして流してしまうほど、心は荒んでなかった。

あの声の持ち主、『由紀子』という名前も含めて、その存在がわたしに纏わりつく。
一度捉えられてしまった心の重石は簡単には外れてくれそうにない。
その声は、もう気軽にその道に進む気力を根こそぎわたしから持ち去ってしまった。

やはり電話など出なければ良かったのだ。
スリルを味わっているうちが華だった。
踏み込んではいけない部分に入ってしまった。
いつも夜明けと共に感じていた切なさや寂しさなど、自分勝手な感傷に過ぎなかったのだ。

道ならぬ恋の終わりを告げる鵲の鳴く声を聴いてしまったのだ。まさにゲームオーバーだ。
けれど、おそらく豊はまた別の女とゲームを始めるだろう。
わたしとのことは食べ終わった回転寿司の皿の様に積み重ねてしまうのか。

ひとつ積む毎に払う金額は増え、調子に乗って高く積み過ぎるとバランスが崩れて倒れてしまう。
そんなことも知らずに。
まるでバベルの塔みたいな遊びを、これからも続けて行くのだろう。
そう思うと急激に豊への想いが冷めてしまうのを感じて、思わず笑ってしまいそうだ。
そして、最後は結局、誰もが涙してしまうことに、いつまで経っても気が付かない。


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