見出し画像

BLAKE HOUR

 失業保険も途絶えて数ヶ月、短期のバイト以外大した職も見つけられず、預金残高は減る一方、このままでは生活保護でも受けなければ生きていけない。青年は狭いアパートの一室で宙を漂う青白いタバコの煙をぼんやり眺めて、ため息をついた。
 ここ数日昼に食べたカップ麺の容器がいくつか流しに積み重なって傾いている。こうして昼間から行くところもなく、部屋で寝転んでいるのも精神上良くない。しかし、公園に出掛けるのも図書館でふらふらと時間を潰すのもとっくに飽きてしまっていた。何より近所の人の目が気になる。次第に外の空気を吸う機会が失われていった。
 それでもその日の午後からは、ふと思い立ちハローワークに出掛け、求人案内リストを検索してみた。大した期待を持ってはいない。そもそもシステムエンジニアの仕事など、そう簡単に募集は掛からない。
 案の定、その日も目ぼしい求人票は見当たらず、そのまま帰ろうとしたところで、案内係のふくよかな中年女性に声を掛けられた。
「良ければ少しお話し聞かせて頂けますか? 何かお力になれればと思うのですが」
 にっこり笑うその表情は穏やかで人の良さが滲み出ていた。しかし、今のこの状況では力になってもらえるなんてことは、どうあがいてもほとんど皆無だと思った。理想と現実を見極め、意にそぐわないサービス業や現場労働の仕事を斡旋されるのがオチだろう。
 とは思っても、どっちみち暇を持て余している身だ。人と話をするだけでも気分が晴れれば良いかと思い、高木さんというその女性とカウンター越しに向かい合い、話をした。

 高木さんは特に青年に職を薦める訳でもなく、前職を辞めるきっかけ、つまり上司との折り合いが上手く行かなかったこと、そしてそこがいわゆるブラック企業でサービス残業や休日出勤の強要、パワハラまがいの事柄がまかり通っていた現実を青年は愚痴を溢すかの如くポツポツと喋り尽くした。
 高木さんはそんな青年の話を否定もせず、うんうんと頷いて熱心に聞き入れてくれた。その話は以前別の男性職員にも話をした事柄なのだが、その時の相手は嫌な顔をして、一応調べてみますが、あなたの考え過ぎでは?とそんな一言を述べ、いい求人がありましたらまた声掛けてくださいと告げると早々に立ち去ってしまった。
 一通りの事柄を話し終えると高木さんは、そうね、でもあなたの年齢ならまだ諦めるのは早いわ。いい出会いや人の縁というものは必ず回って来る時期が来るものよ、ほら、果報は寝て待てなんて言うでしょ。と言って目を細めて笑った。
 そう言われてもそれは単なる気晴らしに過ぎず、青年は「はあ」とため息を吐き、ハローワークを後にした。結局、何の成果も得られなかったのだ。

 ハローワークを出て、青年が信号待ちをしていると、背後からバタバタと足音がして、「山岡さん、山岡さん」と青年を呼ぶ声がする。
 何事かと思って振り向くと先程のハローワーク職員の高木さんがピンクのスーツ姿のまま走り寄って来た。
「あぁ、良かった。間に合って」高木さんは額の汗を拭った。
「何か、忘れ物でもしましたか?」
 山岡青年は首を傾げながら自分の持ち物を見た。いつものカバン、財布やスマホはちゃんとある。
「いえいえ、違うの。あなたもし、これに興味あったら来てみない? 私たちがやってるサークルよ」
 そう言いながら高木さんは山岡青年に一枚のチラシを手渡す。
「サークル?」
「心配しないでね。変な宗教や政治の勧誘じゃないから、もちろんビジネスでもないのよ、あはは」
 高木さんは大きな口を開けて楽しそうに笑った。
「あ、いや、でも、サークルなんて……」
「軽い音楽に合わせて踊ったり歌ったりする、ただそれだけなの。大丈夫。お金なんて要らないし、気が向いたら一度見に来ない? 嫌だったらすぐ帰ればいいから」
「え、でも……」
 山岡青年は手にした紙切れをチラリと目にした。
 英語で大きく『BLAKE HOUR』と印字してあり、その下に「魂の解放」などと書かれている。
 なんだこれ? 山岡青年はなんだか怪しいなと感じた。
「例会の日時はそこに書いてあるから、本当に気が向いたらで良いから来てみて、私もいるから大丈夫よ。それだけ、じゃ、また」
 高木さんはそう言って、また職場に向かってバタバタと走り去ってしまった。

 それから三日経った土曜日。高木さんからもらったチラシによると今日の午後二時から『BLAKE HOUR』の例会が行われるらしい。場所は山岡もよく知ってる地域の公民館で、歩いて行けるほどの距離だ。
 一度はバカバカしいと丸めてゴミ箱に捨てた紙切れだったが、夜中に眠れなくて何かが気になってしまい、もう一度ゴミ箱の中からそれを取り出して開けて見た。
 魂の解放ってなんだろう? それが気に掛かっていた。細かい説明など書いてはいないが、軽快な音楽に身を任せ歌ったり踊ったり自分を解き放ち自由な時間を過ごしましょう、とある。
 自己啓発運動の一種だろうかと思った。
 最初は優しく、楽しそうに近寄り、言葉巧みに高い商品を買わせたり、寄付金を募る。もしくはうまい儲け話への投資の勧誘かも知れない。
 疑えば、どれだけでも疑わしく思えてしまう。
 けれど、あのハローワークで出会った高木さん。
 あの人が何かを企んでいるようには到底思えなかった。勿論人を騙す人がいつも悪魔の顔をしている訳ではない。天使のような顔をして悪魔は近付いて来るものなのだ。
 山岡青年はその紙切れを丸めて放り投げたり、またずるずると拾っては開いて中の文言を読み返してみたりしていた。

 結局その日、午後二時前に、山岡青年は散歩に出掛けた。
 そんなつもりも無かったのだが、知らずに方向は例の公民館の近くに向いていた。
 あの角を曲がった突き当たり、そこにはもうその公民館があることを山岡青年は知っていた。
 しかし、そこからすぐには足は動かない。道の端で立ち止まり、所在なく辺りの様子を伺ってみた。
 暫くすると眼鏡をかけた背の低い男の子が中学校の制服姿で通り過ぎて行った。やや俯き加減で小さな歩幅、あまり溌剌とした印象はない。その少年は迷うことなく角を曲がり、公民館の方向へ向かって行った。その後、初老の婦人とその息子さんだろうか、穏やかそうな二人連れが同じ様に角を曲がり公民館へと消えて行った。その後、若い女性が二人、連れ立って、公民館へと入って行くのが見えた。それから数分の間に特に繋がりの無さそうな人達がどこからともなく現れて公民館に集まり始めた。
 そうなると山岡青年も徐々に中の様子が気になり出した。
 一歩一歩近づき、公民館の入口横にある大きな窓から首を伸ばして中を覗き込んでみる。
 すると何人かの人達が集まり、たむろしている様子が伺えた。
 一体、この人たちはどこから集まって来ているのだろう。気になってもう少し近くで見てみようと、玄関側から中の様子をそろりそろりと覗き込んでみた。
 すると突然、「山岡さん!」と明るい聞き覚えのある声が廊下の奥から響いて来た。
 高木さんだった。いつものレディススーツ姿ではなく、スポーティな格好をしていた。
 笑顔でこちらに駆け寄って来る。
「ありがとう。来てくれたのね。どうぞ入って」
「あ、あ、いや、僕はたまたま外を通りかかっただけで……」
「ああそう、まあとりあえず入って、見学するだけでもいいから、さあどうぞ、どうぞ」
 と高木さんはスリッパを用意してくれて、結局山岡青年は促されるままに中へ通されてしまった。

 室内は普通のやや縦長の会議室、テーブルは壁際に寄せられ、イスをその前に並べ、中央に一定のスペースがあけられている。
 集まった人々は年齢も性別も様々で、手荷物は壁際のテーブルに置いて仲間同士で談笑したりスマホをチェックしたり、思い思いリラックスして、軽く身体を動かしている人もいる。そう言えば音楽に合わせて踊ったり歌ったりするとか言ってたな。衣装服装などは特に決まったものではなく、それぞれ動きやすそうな軽装で、若い子達はトレーニングウェアに身を包んでいた。
 とりあえず山岡青年は隅のイスに腰掛け、なるべく目立たない様に全体の様子を見守った。
 特に始まりの合図もなく、誰かがラジカセのボタンを押して室内に音楽が流れ出した。割りと静かに流れる様な音色、クラシックかジャズかフュージョンか、それは判らないものの心地良い調べだ。
 やがて集まった人達は立ち上がり、曲に合わせて身体を揺らし始めた。ニコニコと微笑みを浮かべている人もいれば、目を閉じて陶酔している人もいる。無表情に身体を動かす女性もいた。
 年配者は年配者なりに、若者は若者なりに、動きは違ってもそれぞれ曲に合わせて少しずつ中央の空いたスペースに集まり、一つの塊を形成し始めた。
 中にはフーだかホーだか朗らかな声をあげながら動き回る初老の男性もいた。何やらブツブツとひとりごとを呟くやや太り気味の中年女性もいた。盆踊りみたいな動きもあれば、ブレイクダンス風の流行りの動きもある。しかしどれもがみんな一つの音楽に調和されている。
 そういうのが二十分も続いただろうか、そこで一旦曲は終わり、休憩を取る。隅のテーブルに置いたペットボトルで水分補給をしたり、タオルで汗を拭いたりする。笑顔もあれば無表情の人もあり、仲間との交流を楽しむ者、または孤独を楽しむ者、様々だ。
 暫くすると再び、今度は別の種類の曲が流れ、またそれぞれが小刻みに身体や腕でリズムを刻み、調子を掴んで行く。
 すると、眼鏡をかけた会社員風の男性が突然、大きな声で歌を歌い始めた。何語だろう? 英語? いや違う、フランス語かな? その言語の意味は聴き取れないが、辺りを気にせず腹の底から声を出している。上手いのか下手なのか山岡青年には判断出来なかったが、これほど気持ち良さそうに朗々と歌っている人を久しぶりに見た気がした。
 すると、次には別の女性がソプラノを響かせ中央に踊り出る。男とは全く別の清らかな歌声だが、お互いの調子を乱す事はない。そして、それをきっかけに次々と歌声を発しながらまた部屋の中央に人垣が集まり出した。合唱団の様にまとまった一つの歌ではない。時には不調和でゴスペルからロックまで一人一人が好きな様に音楽に合わせて声を出し、それが不思議に見事に融合されている。
 それを何と言えば良いのか分からないが、稀に見る圧倒的なパフォーマンスであった。
 歌の内容はよく分からないが人の声がこんなに気持ちの良いものだと改めて認識させられた。山岡青年は部屋の片隅で釘付けにされたまま、その様子を見入ってしまった。
 ただ一人だけ高校生くらいの黒髪の少女が壁際で佇んだまま動こうとしない。瞳はじっと前を見据えているが、全くの無表情だ。どちらかと言えば暗いムードを漂わせている。山岡青年は少しだけその少女の事が気になった。
 そんな状態が十五分程続いた後、やがて再び休憩タイムに入った。声を出し切った人達は、うっすらと額に汗をかき、満足そうな表情を浮かべた。かなりの熱量、熱気が室内を漂っていた。
 みんなはドリンクを飲んだり、用意されたお菓子をつまんだりひとときリラックスした。
 そのブレイクタイムを利用して、高木さんが中央に歩み出るとメモを片手に連絡事項を告げた。来月の例会の日程だとか、現在病気で欠席している会員の状況報告だったり、誰かから頂いた差し入れの紹介だったり、いつもの高木さんらしく終始にこやかに時折笑いを誘い、温かみのある口調で周囲を和ませる。聞いてる者達も笑みを返したり、頷いたりと好意的な雰囲気が見て取れた。

「さあ、それでは、最後は皆さん、心行くまで魂の解放と行きましょう」
 高木さんはそう言って愉快そうに右手の拳を振り上げた。
 それを合図にラジカセの音楽が始まる。今度は前よりもボリュームも大きく、ラテンかソウル、どこか異国の音楽を思わせる激しいリズムが響き渡った。
 そうすると会員達はここぞとばかりに中央に飛び出し、激しく身体を動かし、時には奇声をあげる。
 若い女性二人組も音楽に身を任せ、ひとりは陶酔した様に大きく身体を左右にくねらせ、もうひとりは小刻みに手足を動かし、気持ち良さげにリズムを取り、長い髪を背中で揺らせた。
 穏やかそうな初老の婦人とその息子さんも集団に紛れて声をあげたり、思う存分身体を動かして何かを爆発させている。眼鏡の中学生らしき制服の男の子は控え目な動きながら、口先で何かを懸命に唱え、足を交互に前進させ、指先でリズムを取り、独自の動きで人垣をすり抜けて行く。彼には彼なりの魂の解放の仕方があるのかも知れない。
 するとそれまで片隅で佇んだままでいた黒髪の少女が一歩二歩と中央に歩み出て、突然、激しく身体を動かし始めた。真剣な顔付きのまま、手足や身体を前後左右に動かす。それはまるで機械仕掛けみたいな動きで誰にも真似出来そうにもない。ダンスと言うより、何かに取り憑かれてもがいているみたいだった。
 少女の黒髪が左右に激しく揺れる度に、それを見ていた山岡青年の心も激しく揺さぶられた。
 その時、室内で全体の様子を見守っている高木さんの姿を視界の隅に捉えた。高木さんは一人一人に目を配らせながら、時折自ら輪の中に入っては激しさの勢いが一線を越えてしまわない様に集団を上手くコントロールしている。魂の解放と言っても、逸脱はさせない様に注意を払っているのだと思わせた。
 昂まる音楽、リズム、高揚するダンス、響き合う叫び声、入り乱れる人達の全身の動き、表情、視線、髪の毛、手足、指先、それぞれが別の動きをするもぶつかり合う事は無く、煌然とした時間だけが過ぎて行く。
 まるで夢の様でもあり、これこそ人の本来の姿でもあるかとも思われ、山岡青年は唖然としてその一陣を眺めた。
 一体これは、何の集団なのだろう? 魂の解放とは何か?
 確かに目の前の人達は普段とは違う自分の姿をここで露出させ、発散させている。
 日々の抑圧された鬱憤ばらしという程度のものでは無く、勿論多少はそういうのもあるだろうが、決してそれだけでは無い。
 山岡青年は我を忘れて魂を爆発させている彼らを見ながら身動き出来ずにいた。こんな事は初めてだ。
 一種の昂まりは一つのピークを迎えた後、徐々に鎮まり収まって行った。それでもまだ踊り続ける者もいたが、何人かの者達は満足すると、それぞれ場を抜け出し、手荷物を持ち静かに部屋を後にする。終わりの時間はその人それぞれのタイミングであった。
 そろそろ熱気も治まった頃、山岡青年の隣に高木さんがやって来た。
「嬉しいわ、最後までいてくれたのね」
「あ、いや、何というか、ちょっとびっくりして……」
「そうね、八割方の人は大抵ひいてしまってすぐ帰ってしまうものなのよ」
「ああ、それも、分からなくも無いです」
 そう言うと高木さんは可笑しそうにあははと明るく笑った。
「あ、すみません」
「いいのよ、それが当然の反応なのよ」
「でも、どうして、こんな……」
「さあ、どうしてかしら、ハローワークみたいな職場に勤めていると、いろいろと社会の鬱憤を溜め込んでる人もたくさんいるみたいでね。最初は気晴らしにお菓子でも食べながらお話する会をしてみたのよ。それがきっかけで、だんだんと歌やダンスをやり出して、でもまさか本格的な合唱団やダンスサークルなんて無理だから、自由の会にしてみたのよ。それが今ではこんな感じになっちゃって、ほんと可笑しいわね」
 そう話す高木さんには全く屈託がない。

 帰り際、次回の例会案内のチラシを高木さんから貰って山岡青年はアパートに帰って来た。
 相変わらずのアパートで山岡青年はその日の出来事を振り返った。
 そこで味わった興奮はちょっとした微熱を青年に与えたが、日常に戻ってみるとまた現実が蘇って来て、心に重くのしかかった。
 結局は単なる気晴らし、知識や技能が身につく訳でもない、稼げもしない、お菓子やジュースくらいは望めるものの、たいして腹の足しにもならない。
 単なる暇潰しにはいいか。
 そんな程度に思ったものだが……。

 それでも、次回の『BLAKE HOUR』の例会、その日、山岡青年は再び室内の隅でイスに座り例会の様子を見学していた。
 前半の音楽はヒーリング効果もあり、リラックスされ、心地良い響きを彼に与えた。
 歌の時間も言葉は分からないものの、心の奥底にある何かを動かす熱量を感じさせてくれた。
 山岡青年の前にもお菓子やドリンクが届けられた。例の初老の婦人だ。青年が謝辞を述べると婦人は優しく微笑んだ。
 高木さんの合図で魂の解放の時間が始まった。
 山岡青年は立ち上がってそれを見つめた。
 前回と同じような、いや、更なる盛り上がりがそこに見て取れた。
 ふと見ると黒髪の少女が前回と同じ場所に立ち尽くしていたが、指先で小さくリズムを取っている。それが次第に大きくなって、やがて一歩一歩と人の集まりの中へと歩き始めた。少女の中で新しい何かがまた弾け出したのか、それは分からないが、人垣は少女のためのスペースを作り、少女は自然にその内部に溶け込まれて行った。
 
 それを見ていた山岡青年は、その後の少女の様子を知りたくて、足を一歩前に踏み出していた。





おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?