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巨人の家 2

第一部 村へ

第二部 館

 扉がギギギギィと悲鳴の様な軋み音を立てて、ゆっくりと外側へ開いて、巨人の家の内部が私の目に明らかに映し出されました。
 いえ、正確には、明らかには映し出されなかったのです。
 そこには漆黒の闇が広がり、真っ黒な空間がただぽかりと大きな口を開けて広がっているだけなのでした。
「入るぞ、着いて来い」
 音吉はそう言うと、その暗闇の中へ吸い込まれる様に一歩、足を踏み入れました。
 その暗闇は霧で覆われているみたいで、内部に吸い込まれた音吉の背中は、それに包み込まれて見えなくなってしまいそうでした。
 私は、音吉の背中を見失ってはならないと、必死な思いを抱き、まるで初めて川に飛び込む少年の様な気持ちで、恐る恐る扉の向こう側に入り込みました。
 幸い音吉は二、三歩進んだ先の空間に佇み、その姿を見失う事はありませんでした。
 だが、その途端、私の背後でまたもギギギギイと扉の軋み音が炸裂し、振り向くとゆっくりと扉は閉まって行くのです。
 外の明かりが扉に遮られて少しずつ小さくなり、最後の一瞬、その隙間から光の放射が綺麗な線を描き、これがこの世の見納めかと、私の心は戦慄してしまうのでした。
 そして次の瞬間、扉は完全に閉ざされてしまい、辺りは完全なる闇の世界に支配されてしまいました。何とも言いようのない恐怖に襲われ、音吉の姿を探そうと必死になって目をかっと見開いて辺りの状況を認識しようとしたのですが、目を開いているのか閉じているのかさえ分からずに、立っているのがやっとで、両手で頭を抱え込みました。
 そんな気配を察したのか、
「心配するな、じきに目が慣れる」
 音吉の声が聞こえて来ました。
 壁や天井に反響しているのか、その声はどこから聞こえて来るのかそれさえも判りませんでした。
 暫くすると、どこか遠くの方で小さな明かりがぽつんとひとつ灯りました。
 音吉の背中が再び目の前に現れて、ようやく私は安堵の息を漏らしました。
「よし、ゆっくり歩くから」
 音吉はそう言うと一歩二歩とその明かりを目指して歩き始めました。私も後に続きます。背中に背負った荷物が重く、両肩にずっしりと紐が食い込んでいました。まるで戦場に向かう兵士のような気分です。
 暫く歩くと少しずつ目が慣れて来て、周囲の様子が見て取れる様になりました。
 何という材質なのか分かりませんが、床も壁も天井も硬くて冷ややかな光沢を持つもので出来ていまして、学校や診療所の長い廊下を連想しました。窓は無くひたすらに真っ直ぐに延びる薄暗い通路は、洞穴のようでもありました。
 最初に見た小さな明かりは天井に備え付けられた行灯のような光で、その下を過ぎるとまた向こうにひとつ別の明かりが見えて、そのまた向こうにひとつとその間隔を詰めて周囲は徐々に明るさを帯びて来ました。
 どれくらいの距離を歩いたのかさっぱりと計り知れません。上っているのか、下っているのか、前後左右上下、感覚が掴めません。時間も短いのか長いのか、あらゆる点で不可思議な通路でした。後ろをそっと振り返って見ましたが、もうそこには明かりの消えた暗闇に向かって一筋の道が続いているばかりです。こんな感覚は子供の頃に体験したお寺の裏の肝試し以来です。
 暫くすると私の前を歩いていた音吉が急に立ち止まりました。いつのまにか目の前には縦長の四角く大きな銀色の光を反射させる壁が迫っておりました。
 音吉はその壁に右手を押し当てると、何かを待つ様にじっとその壁を見詰めます。
 二秒、三秒、時を数えました。金属の壁は音吉の掌から何かを感じ取ったのでしょうか。やがて、音も無くすーっと壁は引き戸の様に右に横滑りし、まるで天の岩戸が開いた時の如く、煌々とした光が内側から溢れ出し、私たちは光に包まれました。
 開け放たれた引き戸の向こう側には、明るく眩しい空間が広がっていて、私は一瞬地上に出たのかと錯覚しました。
 しかし、よく見るとそこはやはり館の内側、壁が有り、天井も有ります。けれどどこにも窓は見当たりません。室内の中央に円卓があって、それを囲む様に籐の椅子が四脚向かい合っています。どうやらそこが巨人と私達が面会する場所のようでした。
 その空間、いや、部屋というべきでしょうか、その時感じた印象をどんな言葉で言い表せば良いのか、未だに私は迷ってしまいます。しかし、最初に感じた感覚は、不思議にも、何だか広い花畑に彷徨い込んだ時に似て、ある意味清々しい気分になりました。
 部屋の中は何か水色がかった空気がゆったりと彷徨って辺りを漂い、全体が薄い膜で覆われていて、微かに水の流れる音が聴こえ、どこかで懐かしい音楽がこだまする、そんな気がしました。普段私の生活する村とは別世界でした。
 しかし、その時はまだ、これから現れるであろう巨人の存在に怯え、心の中は戦々恐々としてました。
 私は音吉に促されるままふらふらとその空間に足を踏み入れました。何故だか芳しい良い香りに包まれたのです。
「その荷物の中身をそこに入れろ」
 音吉が私に伝えました。
 その指が示す先に横長の大卓子があり、その上にいくつかの籠が並んでいます。
 その籠の中に荷物を入れよということでした。
 私は言われるままに背中の荷物を台の上に置き、袋を開け、中の荷物を取り出しました。
 袋の中身は、村で取れた野菜、米、芋類等でした。それを種類別に籠に移し替える。簡単な仕事です。そうか我々は食糧を運んで来たのだなと、そのとき私はそう思いました。
 袋の一番奥には見た事もない草花が束になっていくつか敷き詰められていました。私は音吉にこれもですかと、尋ねました。音吉は黙って頷き、一番端の籠を指差しました。
 私は、その草花を手に取りました。その刹那、不思議な匂いが香り立ち、その芳香に一瞬くらっと目眩を覚えました。たぶん薬草か何かだと思います。けれど、それを詳しく音吉に尋ねる勇気を持てずにいました。
 それはともかく作業を終え、空になった袋は折り畳んで、作業服の衣嚢の中へ押し込みました。
 肩の荷物も無くなり気分は少し軽くなりました。平和的な部屋の雰囲気に私の気持ちも和み始めていたみたいです。

 音吉は暫く、最後の審判を受ける被告のような面持ちで、無言のまま直立不動の姿勢を取り、じっと立ち尽くしていました。私も一歩下がった立ち位置で音吉に倣います。
 部屋の中は微風が吹いているのか、私の頬を緩やかに空気が掠めて行きました。
 暫くすると、奥の壁の一角、白い色をした引き戸が横に滑り、その向こうにあるもうひとつ別の空間から現れる人影がありました。
 空間に漂う雲の様な隙間から現れたその人物はまさに巨人の様だと私は思い、背筋をぞっとさせました。ここでどんな扱いをされ、何をされるか分からないと思うと再び恐怖が沸き起こり、頬は強張り、両の掌をぐっと強く握り締めました。
 そっと音吉の様子を伺うと、彼は泰然としてやや俯き加減で佇んだままでした。
 向こうから現れた巨人は、私達の方へゆっくりと近付いて来ました。足音も無く静かな歩調です。水色の空気が漂う中、白い靄の隙間を擦り抜け、近付いて来る男は、ふさふさとした白髪をなびかせ、口元にも同じ色の髭をたっぷりと蓄え、お医者さまが着るような白衣に身を包んでいました。
「さあ二人とも、こちらに来て掛けなさい」
 白髪の巨人は部屋の中央付近に置かれた籐の椅子に私達を手招きしました。どこか遠くから聞こえて来る深みのある声色で、そしてとても丁寧な口調でした。
 戸惑いつつも音吉に続いて私も男の側へ近寄りました。
 白髪の男は確かに背の高い大きな人でしたが、巨人という程では無く、物腰も柔らかく、人に威圧感を与える事はありませんでした。
 深い青みがかった目は静かで、豊富な知識が潜んでいるように思われ、少し大きめの鷲鼻が白い髭の上に鎮座し、肌の色は全体的に白色で、温和で知的な印象を人に与えます。
 これが幼き日より恐ろしいものとして心に刻み込まれていた巨人の実像なのでしょうか。それともまた別の存在なのか、それは謎でした。
 これから何が始まるのか解らない事ばかりで、頭は混乱し、落ち着けもせず、動悸の音が早鐘のように耳に響いて来るばかりです。
 椅子に腰掛けて向かい合って対面した私達、間には小さな円卓があり、筆と用紙が備えられています。白髪の男はまず音吉に報告書の提出を求めました。
 音吉は、はいと頷き、懐より紙片を取り出し、男に差し出しました。村人が御奉行様に重要な証拠の品を引き渡すみたいな風でした。
 白髪の男は黙ってその紙片を手に取り、ふんふんと小さく頷いて目を細めました。
「よろしい、それでは、少し待ちなさい」
 そう言うと傍に積み重ねた白紙の用紙にさらさらと筆でいくつかの文字を書き連ねて行きます。そして封筒を取り出すと、折り畳んだ用紙をその中に封じ込め、それを音吉に差し出しました。
「では、これを」
「はっ」
 音吉は恭しく両手を差し伸べ、その封書を受け取り、懐に仕舞い込みました。

 「さて」と一通りの連絡事項を済ませると音吉は私の方を手で指し示し、
「こちらが勇吾にございまする」と私を白髪の男に紹介しました。
 白髪の男は、澄んだ瞳で私を頭のてっぺんから足の先までじっくりと眺め、
「そうか、良かろう」と言いました。
 音吉は「はっ」と一声発しました。
 私も頭を下げました。
 これで私は巨人の家との新しい連絡係として正式に認められたようでした。
 ほっとすると同時に抗えない運命に翻弄される我が身が哀れにも感じました。
 そして更に、白髪の男は私に、
「勇吾、私の名はグリンと言う。長年この音吉の担当をして来た。これからはお前の担当を私ではなく、レドという者に託すことにする」
 私はただ言われるままに「はっ」と言葉を返しました。
 するとぐりんという名の白髪の男は、後ろを振り返り一声掛けました。
 その言葉は私の知らない異国の言葉のようでした。
 すると先程ぐりんが出て来た同じ引き戸の向こう側から、別の人物がこちらに現れました。
 ああ、今でも私はその瞬間の事が瞼に焼き付いて離れないのです。


 この部屋のもう一つ向こうにある空間から現れたのは、ぐりんと同じ白衣姿でしたがその白衣はほんの少し朱色がかって、全体的に細く、小さく、そしてしなやかでありました。
 栗色の長い髪の毛が両の肩より下にさらさらと揺れ、八頭身とも十頭身とも思える小さな頭部。水色に漂う空気の中、白い霞に見え隠れしながら、細い身体に長い脚で現れたのは、年の頃は十七、八くらいであろうかと思われる少女でした。
 ぐりんと同じ澄んだ青い瞳はとても大きく長い睫毛に覆われ、すーっと通った鼻筋、その下に小さくふんわりした唇には絶えず微笑を浮かべています。
 ぐりんは自分の隣の籐椅子を示し、また一言何事か知らない言葉を口にしました。
 れどと呼ばれた娘は、優雅な動作で一礼すると籐の椅子に腰掛けました。それはそれだけで一枚の絵画を見るようでありました。
「こちらが村の新しい連絡係で、名前を勇吾と言う。よろしく頼む」
 今度は村の言葉でぐりんはれどに私の事を伝えました。れどはそれに首肯して、涼しげな瞳を私に向けて、初めて言葉を発しました。
「ハジメマシテ、ユーゴ、ワタシワレドデス。ヨロシクオネガイシマス」
 多少ぎこちないと思われる喋り口調でありましたが、その声は美しく、小鳥の囀りを連想させました。
「あ、はい、よろしくお願いします」
 私も慌てて頭を下げました。
 れどの視線は真っ直ぐで痛いくらいに私に突き刺さり、私にはそれを直視出来ませんでした。
「レドはまだ村の言葉を勉強中なので、多少話しづらい所があるかも知れないけど、じきに慣れると思う」
 ぐりんはそう言いました。
「あの……、これから私は何をして行けばよろしいのでしょうか?」
 私は恐る恐るそう質問してみました。
 ぐりんはその返答をれどに委ねました。
 れどは再び私を射抜くような大きな瞳で、こう言いました。
「オモニゲカイデオコッテイル、ソショウ、シッペイ、フギ、リサイナド、アラユル、コトヲ、ホウコクシテクタサイ」
 れどの言葉はどれも私には理解不能な事柄ばかりでした。そしょう……、しっぺい……、ふぎ……、りさい……、それらの言葉が訳も分からず頭の中でぐるぐると渦巻いて眩暈を起こしてしまいそうです。
「勇吾、心配は要りません。当分は音吉がそれらを処理します。ただし、次回よりここに来られるのは勇吾あなたひとりです」
 ぐりんの言葉に半分ほっとし、半分不安を覚えました。穏やかな様で厳格な、優しい様で怖ろしい、眼差しや口調から伝わる響きは、人に有無を言わせる隙間を持たない、判決を言い渡す裁判官の主文みたいなものでした。
「それでは、今日はこの辺で」
 戸惑う私をよそに音吉はそう言って立ち上がると一礼しました。慌てて私もそれに従い一礼すると、ぐりんとれどは二人揃って同じような微笑みを浮かべて立ち上がり、ゆっくりとまたあの白い引き戸の向こう側に消えて行きました。
 彼らが消えて再び、静かに漂う空気とさやけき水の流れが聴こえ始めると、ようやく音吉は頭を上げ、引き上げる素振りを見せました。

 私と音吉は元来た通路を逆に辿って館の外へ出ました。私はたぶん館にいる間中、たっぷりと背中に汗をかいていた事でしょう。
 外に出て見ると驚いた事にもうすでに日は暮れて空は真っ暗で星が輝いていました。
「え、もうこんな時間?」
 私はびっくりして音吉に問い掛けました。館の中にいた時間はせいぜい三十分か一時間も経ってはいないと思っていましたが、辺りはすっかり夜になっていました。
 小屋を出たのは朝早く、森の登り道に多少の時間は費やしたとしても、館に入ったのはまだ正午前だったはず、それが、今はもうこんなに暗くなっていて、私は訳が分からなくなりました。
「館の中の時間は村の時間とは違う」
 音吉はそれだけ言うと、さっさと森の道を降り始めました。私にはその言葉の意味が理解出来ませんでした。
 森の道を抜け、岩肌の開けた所に出ると満天の星の下、村は死んだように息を潜めて眠っています。それは暗い湖を思わせましたが、よく見ると所々に行燈のほのかな明かりがちらちらとゆらめき、村人達の生活の証みたいに感じられました。何故だか瞳の奥に熱いものを感じて、しんとなりました。
 再び漆黒の森の中を通り、神社の裏の滝に出た時には、無事に帰れた喜びに安堵し、突然の睡魔が私を襲いました。
 実際にその夜は勾玉池の畔の小屋に辿り着くと私はすぐ、倒れ込むように眠ってしまったのでした。
 音吉に尋ねてみたい事は山ほどあったのですが、それはまたこれから機を見ておいおいに尋ねてみる事にします。

 次の日からの私の主な仕事は、小屋の裏側にある畑で農作物を栽培して収穫する事でした。収穫した野菜や穀物、芋類は納屋に持ち込み、いくつかの小袋に組み分けました。
 畑の隣にはいくつかの草花が咲いていて、花が散ったものを茎から切り取り、それを束ねて纏めておきます。それらの草花が何であるかは私には分かりませんでした。
 音吉は朝から一日中、村の中をうろつき回って、何かを見聞きしては夜になると小屋に戻り、文机で書き物をするのでした。
 私は館で会った巨人の印象をそれとなく音吉に話してみました。想像していたような恐い人では無く、むしろ、温和な優しそうな人達で安心したと言いました。
 すると音吉は、
「見た目で判断するな」と一言呟きました。
 れどの言った、そしょうとかしっぺいなどの言葉の意味についても尋ねてみたのですが、
「いずれ、解る」と素っ気ない返事でした。

 そうして一週間ほどが経ち、音吉から報告書を預かり、私は一人で巨人の家に向かう日がやって来ました。
 前回と同じように袋に草花、野菜、米、芋類等を詰め、再び神社の裏から滝の横を通り森の中へと入って行きました。
 朝早くに小屋を出ましたから見通しの良い岩肌に出た時は、朝の光を浴びて活気ある村全体の様子が陽光に照らされて、素晴らしい風景でした。
 そして黒々と聳える巨人の家の前に出た私は、前回、音吉がした通りに入口の大きな扉を三回拳で叩き、ギギギイと鳴る軋み音を耳にして、館の内部に一人で入り込みました。
 勿論、多少の不安や恐怖はありましたが、何よりこの通路の先に見える明かりを辿って行けば、そちらの空間には、れどが待っていると思うと私の心は自然と昂り、どこか浮き立つものがありました。
 暗闇の中で身を潜めていると遠くに小さな明かりがぽつり、前回とは少し方向が変わっているように思えましたが、他に道は無く、私はその長い洞穴みたいな通路を辿って行きました。そして暫く行くと段々と明かりが増えて行き、突然、金属製の大きな引き戸に行き当たりました。
 金属製の引き戸に手のひらを押し当てると数秒後に音もなくすーっと戸は開いて、私を安心させました。
 またあの穏やかで清々しい気持ちを与えてくれる部屋、水色がかった空気がゆったりと彷徨い、微かに水の流れる気配、そんな空間が私を待っていてくれました。
 部屋に入った私は台の上に置かれた籠に袋の中の野菜類をそれぞれに移し替えます。そして最後に一番端の籠に草花の束を置き、袋を仕舞うと直立して待ちました。
 手順に間違いは有りません。前回、音吉がした通りの姿勢でその場に佇みます。
 程なくすると、前方にある白い戸が開いて、この部屋の向こう側にあるもうひとつの空間から、朱色がかった白衣に身を包んだ細い身体と長い脚のれどが姿を現しました。
 神々しい光を放ちながら、水色に漂う空気の中、白い靄の隙間を縫って、籐の椅子までやって来ると、れどは仄かな微笑みを浮かべ、
「ユーゴ、ヨク、コラレマシタ、コチラニドーゾ」
 と、籐の椅子に腰掛けるよう手で示しました。
「はっ」と私は頷いて、失礼しますと椅子に腰掛けて、れどと向かい合いました。二人きりです。今日はぐりんの姿はありません。
 さっと私の全身に緊張感が走ります。
「あ、では、まず、これを」と私は音吉から預かった報告書を円卓の上に差し出しました。
 れどはその紙片を手に取って黙ってゆっくりと読み始めました。少女が読みかけの小説を読む様な、僅かに首を傾け、一文字一文字、確かな眼差しで紙片に目を通します。
 私はれどの紙片を持つ指の白さや皮膚の滑らかさに、暫し見惚れていました。
 読み終わると、れどは前回のぐりんと同じ要領で、横に置いた用紙を手に取りさらさらと筆で何かを認め、封筒に収めて私に差し出しました。
 その優雅な手つき、指使いは手慣れたものでした。
 私はそれを懐にしまうと、もうそれ以外に何もする事が無く、ぎこちなく、決まりが悪くなって、即座に立ち上がってそこを辞そうとしました。
「ユーゴ、キョウワ、アナタニ、ミテイタダキタイモノガ、アリマス」
 れどはそう言うと立ち上がり、「コチラヘドーゾ」と部屋の奥のもうひとつ別の空間に私を導くのでした。
 私は多少の戸惑いを抱きつつも、抗う事も出来ずに、ただ言われるままに従って、親鳥の後を追うひよこのような面持ちで、れどの後を着いて行きました。
 水色の空気の漂う部屋を横切り、引き戸の向こうにある空間、れどはそこに入って行きました。
 その向こう側の空間はあたり一面がぼんやりとした靄に包まれ、それがどれくらいの大きさの空間なのか、何も分かりませんでした。私はただひたすらに数歩先を行くれどの後ろ姿を追いかけました。
 気持ちは焦るものの身体が思いのままに動けず、まるで水中を浮遊しながら歩いているようでした。
 暫く白い靄の中を進むと、辿り着いた先にぼんやりと浮かび上がって来た物がありました。
 横幅は五、六間、奥行きは十間以上はあると思われる巨大な展示物がそこにありました。
 腰のあたりまである台の上に乗っているみたいで手前からでも、その周囲からどこからでもその全体像が見渡せる作りになっています。
 白い靄が完全に消え、澄み渡って視界が開けた時、私は思わず「あっ」と声を漏らして、息を呑みました。
 ここに来る途中で降り仰いだ村の景色、あの岩肌から見た村の風景そのものが、そこに克明に再現されていたのです。

「こ、これは、村の模型ですか?」
 私は、そう尋ねました。
「驚きましたか?」
 突然別の声がして、文字通り私は飛び上がりました。振り向くといつのまにかすぐ傍に、ぐりんが立っていました。
 ぐりんはやはり大きな人でした。隣に並んだれどは私と同じくらいの背丈で、頭の位置はぐりんの肩より下でした。
「びっくりしました。こんなに大きな……」
 私はそれ以上の言葉が出て来なくて、ただただ唖然とするばかりでした。
 そんな私を置き去りにしたまま、今度はれどが言葉を紡ぎます。
「コレカラ、ワタシタチワ、ムラヲカイハツスルヨテイデス。ヒトヲフヤシ、マチヲツクリ、トシヲツクリマス」
 かいはつ、まち、とし……、知らない言葉が次々に、れどの口をから飛び出します。
「マズワ、ソノタメニ、ライフラインノセイビデス。スイドウ、ガス、デンキヲフキュウサセ、デンシャヤバスヲ、ハシラセマス」
 私はますます混乱し、立っているのがやっとでした。らいふらいん、でんしゃ、ばす……、それらが何を意味する言葉なのか、まるでお寺の経を聴いてる気分でした。しかし、この模型は細かな所まで一つ一つ精巧緻密に出来ていました。誰が作ったのかは分かりませんが、相当な技術が必要な筈だし、その規模、大きさを考えますと、途方に暮れてしまいます。
 一体誰が何のために……。
「勇吾、慌てなくても大丈夫。順を追ってその都度指示を与えます。この事は音吉は知っていますが、他の誰にも話してはいけません。いいですね」
 ぐりんの声はどこか遠くの空から私に降りかかる天気雨のように思えました。
 全てはそこから始まったのでした。


続く

いつかまた

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