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あの頃

 1

きょう夫が死んだ。もしかすると昨日かも知れないが、私には分からない。
愛人のマンションの部屋で朝には冷たくなっていたらしい。
突然の話で、何も考えられなくなった。

心臓麻痺か何か、病死、自然死だったらしい。事故や事件性はないという。愛人もびっくりした事だろう。
夫は運び込まれた病院からセレモニーホールに移され、そこで一夜を明かし、次の日荼毘に付された。

夫が家を出て行った時の事を考えるのだが、あまり上手く思い出せない。
おそらく、出張がどうのとか言ってた様な気もする。
愛人の存在を私はとうに知っていたのだが、特に嫉妬はしていない、
私の夫への愛はすっかり冷めてしまっていたから。

それからの日々は、随分と慌しかった。
葬儀一切の事は誰かが取り仕切ってくれて、私は言われた事だけやっていればよかった、
世間の目には夫に死なれた不幸な奥さんと映った事だろう。
私はその役回りを上手く演じられたかしら?

葬儀の後、手洗いに立った際の廊下の隅で、近所の奥様方の噂話が勝手に耳に入って来た。

「聞いた?ここのご主人、浮気してたらしいわよ」
「そうそう、マジメそうなご主人だったのに、分からないものねぇ」
「なんでもその不倫相手の住んでるマンションの部屋で突然死したんですって」
「えぇ、それってまさかフクジョウシってやつじゃないの?」
「そうよ、まさにそれよ〜」
「まぁ、奥さん気の毒にねぇ」

気の毒という割には何だか楽しそうな会話に聞こえた。
第三者にとっては格好のゴシップネタだ。これも仕方がない。
今この人達と顔を合わせるのは気まずいだろうと思い、
私はそっと存在感を消してその場を立ち去った。

そんな日々が続いて、ようやく落ち着き始めたのは家に戻って1週間近く経った頃だった。

その頃には弔問客も途絶え、家の中は静かになった。
部屋の隅に小さな白木の台があり、その上に亡夫の写真と位牌が置かれている。
お線香の香りが静かに辺りを漂う。
あまり家にいる事がなく、いたとしてもそれ程会話しない夫婦だったが、
こうなってしまうと妙に寂しく感じてしまう。

話し相手がいない事にも慣れていると思っていたのだが、
この心の中にポッカリあいた空白は何だろう?

大切なものを失った時の空虚感か?
それとも
突然手にした自由を持て余し、途方に暮れている状態なのか
頭の中は真っ白で、これからの先の事がまったく思い描けない。

そんな時に突然現れたのが「あの頃」だった。

 2

その日の午後、夕方近くに「あの頃」はやって来た。

チャイムが鳴って玄関のドアを開けた私は相手の顔を見たまま暫く何も言えずに呆然とした。
「久しぶり」スーツ姿の彼は言った。
昔とちっとも変わらない声。
そして表情。
「遅くなってしまって申し訳ない。昨日話を聞いたばかりで…」
「日本に帰っていたの?」
ようやく私も口を開いた。言葉が上手く出て来ない。
「先月、東京の本社に戻ったんだ」
「そうだったの」
とにかく上がって貰った。

部屋に入ると彼は夫の位牌の前に正座し香炉に線香を立て手を合わせた。

「大変だったね」
彼は私に向き直って言った。
私は返答に困って、「ええ」とか「いいえ」とか適当に言って頷いた。
夕凪の様な静かな時間が流れる。
遠くの方で街の賑わいが聞こえるが、
2人の周囲はとても静かだ。

「あの頃」
そう私と彼は恋人同士だった。大学のゼミで知り合い、いつも同じ時間を過ごした。
彼と亡夫は学生仲間だった。
私達はよく3人で行動した。
最初は大学構内で会うだけだったが、その内いろんな場所に出掛けた。

彼はゲームが好きだった。ダーツ、ビリヤード、ボウリング…、いろんな事をいつも楽しそうにしていた。
お酒も好きだったから、よく新宿界隈をうろついた。そこら中飲み歩いては朝まで過ごした事もある。
彼とのひとときがその時の私の全てだった。将来の事なんて何も考えず、ただひたすらその日その時を楽しんだ。
若いそういう時代だった。

その頃亡夫とはただの友達でしかなかった。
それはもっと後、大学を卒業して彼が海外へ赴任してからの事。
偶然街で再会して、亡夫もその頃恋人と別れたらしくて、
お互い寂しさを埋め合わす様に、
何となくそのままの流れで付き合い、
そして結婚した。
それから10年。

今こうして再び「あの頃」の彼と同じ部屋で向き合っている。
こんな日が再び訪れるとは全く想像していなかった。
いろんな事が頭を駆け巡る。

「あの娘の事、覚えてる?」
唐突に彼が言った。
「あの娘?」
誰の事を言ってるのか分からなかった。
「ほら卒業前によくあいつが連れて来た後輩の女の子さ」
彼は亡夫の写真をチラッとみて言った。
「あぁ、そう言えば誰かいた様な、あまり覚えてないけど」
「その娘の部屋だったんだ」
「え?」
意味が分からなかった。
「また付き合ってたんだな」

そうか、亡夫の愛人は大学の後輩のあの娘だったのか。かつての恋人。

「そうだったの…」
私は何だか溜息をついた。
亡夫も「あの頃」に戻っていたのだろうか?

「彼女に会ったの?」
「いや、会ってはいない。あの娘もいろいろあったそうで…」
「そう」

頭の中が混沌としていた。
物事が上手く理解出来ずに、何かが持ち上がってはまた消えて行く。
次の言葉が見つからない。
話に行き詰まると妙な沈黙が辺りを包んだ。
窓の外は暗くなり始めた。

「もうそろそろ行かなきゃ」
彼は立ち上がった。
「あなたは、今、…」
私は言いかけて途中で言葉を噤んだ。
「何?」
「いいの、何も…」
私は首を振る。
「君は、大丈夫か?」
昔の様に彼の言葉は優しく私を包み込む。
その眼差し

(ええ、きっと大丈夫)
私はそう答えようとしたけど、声にならなかった。

彼はほんの少し何かを言いたそうに口を開きかけたが、
小さく微笑んだ。
そして玄関に向かう。
ドアを開けて、彼が去ろうとした時
私は思わず声を掛けた

「あ、あの…」
彼は振り向く
「良ければ名刺を頂けないかしら」
咄嗟に私はそう伝えた。
彼はスーツの内ポケットから、名刺ホルダーを取り出し、そっと私に一枚手渡してくれた。
彼の手が私の手を包んだ。
驚く程、その手の温かみを感じて
私は思わず涙ぐむ

「あの頃」と同じだ。


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